蒼い翼のリンドヴルム

逆立ちパスタ

第1話 竜と青年

 かつて、この世界は竜に支配されていた。

 一人の人間が、竜を殺した。

 やがて、世界中の人間が竜を殺した。

 竜はその数を減らし、殺し過ぎた人間たちは竜を増やした。

 増やした竜は、殺され続けた。

 人間の手は止まらず、竜を殺し続けた。

 今は、この世界は人間に支配されていた。



 近来になってやっと生み出された世界地図の北方。その山肌がむき出しになった険しい山脈の麓に、小さな集落が存在する。痩せた土地と厳しい寒さの中で生活するこの村を、人々はブランと呼んでいた。


「おいリンド! 起きろって! 朝のえさ遣り忘れたらまた商会のおっさんに怒鳴られるぞ!」

「いたっ」


 ブラン村の一角、粗末な造りをした建物から騒がしい声が聞こえる。リンド、と呼ばれた青年はその大声と頭をはたかれた痛みで目を覚ました。頭をさすりながら、リンドは寝ぼけた眼でぼんやりと周りを見る。寝台が一緒の友人たちは全員既に仕事に向かったらしい。


 リンドは覚醒前まで見ていた夢について考えようと目を閉じた。

 何か、不思議な夢だった気がする。自分に大きな翼が付いていて、大空を自由に飛び回る夢だ。生まれてから一度も出たことのないブラン村の山を越え、見知らぬ大地を悠々と空から見下ろす。眼下一面に広がる深緑の草原、燃え滾る真っ赤な水が噴き出る山、そして、遠くどこまでも広がる海。全ておとぎ話でしか聞いたことのないような土地だった。何故、そんな夢を見たのかは分からない。


「あいてっ」

「まだ寝ぼけてんのか? 早く行かないとマジでどやされちまうぞ」


 自分を呼びに来た友人、ジオの拳骨を食らい、今度こそリンドは目を開けた。呆れた様子のジオを見て、リンドはへらりと笑う。


「分かったよ、すぐ行く」


 その言葉に安心したのか、ジオはすぐに部屋から出て行ってしまった。朝の労働は決して軽いものではなく、また、今リンドたちを雇っている商会は一分一秒の遅れにも容赦なく罰を与えてくる。そのくせ賃金は足元を見て値切ってくるのだから、世話がない話だ。


 リンドは寝台から飛び降りて、その下のスペースに突っ込んであった靴を取り出した。慣れた手つきで紐を結び、壁に引っ掛けてあった外套をまとった。もう春とはいえ、朝は冷え込む。寒さが厳しいブラン村は、それが一層顕著だった。


「……さむ」


 吹き付ける風をもろに受け、リンドは思わず呟いた。冷たい空気を防ぐように外套の前をしっかりと掻き合わせる。まだ溶け切っていない雪が朝日を受けてきらきらと輝いていた。


 だが、この景色を楽しむ余裕は、寝坊したリンドには残されていない。冷たい向かい風を体いっぱいに浴びながら、リンドは獣舎に向かって行った。






 獣舎は、人間が住んでいる村の中心から離れた場所にある。商品を囲うためのスペースを確保するためと、万が一事故が起きて生き物が中から逃げ出したときに人間の被害を最小限に抑えるためだ。


 何度も人間が行き来してできた道を、リンドは小走りになっていた。しばらく森の中を歩いていたが、やがて開けた場所に出る。そこが、目的地の獣舎だった。中に入れば、既に何人か仲間がえさ遣りの後片付けをしている。


「遅いよリンド。寝坊?」

「うん。まだ見回りは来てない?」

「来てないよ。そろそろ来るかもしれないから急いで」

「ありがとう」


 掃除をしている仲間の横を通り過ぎ、リンドは自分に割り当てられた生き物の前に駆け寄る。


 空の色を写したように蒼い強靭な鱗。ブラン村の農民が穀物を刈る際に使っている鎌より鋭利な爪。しなやかな鞭にも似た長く伸びる尾は狭い獣舎の中に納まるよう、足の間に丸められている。折りたたまれた翼は、空に飛び立てないよう飛膜に穴を穿たれていた。例え暴れられても、周りを囲んでいる柵には脱走防止用の魔術式が込められているため、逃げることはできない。足に付けられていたなめし革の札には、「ウィード」と書かれていた。


「ウィード、おはよう。遅くなってごめんね」


 リンドが声をかけると、竜は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。鱗よりも深い青の瞳が、じっとリンドを見る。縦に割れた瞳孔からは何も読み取れず、リンドはただ肩を竦めていつも通りの支度を始めた。


 竜の残飯が残った餌箱を水で流し、バケツ一杯に入れられた鶏の死骸を代わりに詰め込む。本来なら豚か牛を与えるべきなのだが、今の商会は目先の利益に囚われてまともな餌を提供してくれない。


「今日も鶏だよ」


 餌箱を前に押しやれば、竜はその巨体をのっそりとあげて箱に鼻面を突っ込んだ。口が開いて鋭い歯が丸見えになるが、リンドはそれを気にすることなく竜の鼻を撫でた。


「お前も大きくなったよなぁ。ここに来たときはまだ卵だったのに」


 返事はない。竜は、ただその空腹を満たすために目の前の動物の死骸に食いついていた。構わず、リンドはしゃべり続ける。こうやって竜と一方的な会話をするのが、リンドの毎日のささやかな楽しみだった。


「ウィード。今朝、なんだか不思議な夢を見たんだ。空を飛んで、知らない土地に行く夢。ブランから出たことないのに、すごい綺麗な夢だった」


 竜は食事を止め、静かにリンドを見た。珍しい。普段は何を話しても食べることをやめないのに。リンドはその目を見返しながら言った。


「ウィードも、外の世界を見たことないよね。見に行きたい?」


 やはり返事はない。竜はまた、目の前の死骸を食み始めた。リンドはため息を吐き、獣舎の柵に掛けられた魔術式の点検を始めた。これも、毎日欠かせない業務の一つだ。


「エト、クラン、カーラギ、ナハト……」


 決められた呪文を唱えれば、ぼんやりと柵に込められた魔術式が発光した。淡い緑は、特に異常がないことを示す色だ。ホッと胸を撫でおろし、リンドはまた竜を見た。


 その時、獣舎の扉が音を立てて開く。乱暴に開けられた扉から、長身の男が現れた。彼は不遜な目でじろじろと獣舎を見まわし、やがてまだ竜に食事を与え終えていないリンドに目を止める。上等な革靴の踵を鳴らしてリンドに近付いてきた男は、突然平手でリンドの頬を殴った。響いた打撃音に、獣舎の隅で働いていた仲間たちも手を止める。心配そうな視線が遠くから届いたが、リンドは何も言わず俯いた。


「今日は審査の日だと伝えておいたはずだが?」

「……すいません、アラン商会長」

「この村はどいつもこいつもグズばかりだな。どの品物もほとんどが安く買い叩かれる粗悪品ばかり……まともに仕事をする気があるのか? それとも、金は要らないのか?」

「すいません……」


 項垂れて、ただ謝罪を口にするリンドに、アランは鼻を鳴らした。リンドを叩いた手を手巾でわざとらしく拭い、品定めをするように辺りの竜たちを見まわした。


「今日はここから一頭運ぶ。一番出来がいいのはどれだ?」

「それは……」


 リンドは言いよどんだ。この獣舎で一番商業価値が高いのは、今目の前にいるウィードだ。卵が孵ったのも一番早かったし、身体も大きい。鱗に傷もなく、青竜種は市場でそれなりに高く売れる。

 だが、リンドは自分が卵から育てて愛着が沸いたこの竜を、売りたくなかった。


「見たところ、この青竜種が一番のようだな。こいつの名前は?」

「……ウィード、です」

「ふむ。連れていけ」

「ま、待ってください!」


 思わずリンドは声をあげた。しまった、と思ったがもう遅い。アランは不機嫌そうに眉をあげてゆっくりとリンドの方を向いた。


「何かな?」

「ウ、ウィードはまだこれからも育ちます。きっと、城下の競技場に出しても負けないくらい強い竜になります。だから、まだ連れて行かないでください。僕に任せてください」


 市場に出された竜には、二つの未来が待っている。一つは殺されてばらばらにされ、用途に分けて様々な流通ルートを経て売られる未来。内臓は薬にもなるし、魔術の道具にも使われる。丈夫な鱗は海を渡る船の外装に加工されたり、鋭い歯や爪は軍隊の武器に転用されることもあるのだ。


 そして、もう一つが娯楽のために消費される道。強い竜同士を戦わせ、その生死を賭け事にして楽しむ催しのために使われる未来だ。「一級品」と称されるその竜は高額で取引され、城下の競技場で行われる試合に勝利すれば竜の持ち主に追加で多額の賞金が入る仕組みになっている。「一級品」を育てるのには手間も時間もかかるが、一頭でも市場に出れば一攫千金も夢ではない。


 だが、アランはそれを鼻で笑った。


「君が? こんな寂れた土地から「一級品」を出せるとでも?」


 言葉に詰まったリンドに畳みかけるように、アランは言う。


「そもそも私はね、ブランから出された竜に最初から期待などしていないのだよ。だから餌も最低限の質を用意するだけだし、育てるために雇っているのも君みたいな薄汚いガキなんだ。分かってくれたかな?」


 リンドは、何も言えなかった。ただ唇を噛みしめ、口汚く雇い主を罵ろうとする言葉を食い止めるしかない。その様子に満足したのか、アランはリンドの手を取って硬貨を数枚握らせた。


「そんなに愛着があったのなら、これをやろう。好きな菓子でも買うといい。それで、また新しい竜を育てて安い賃金を稼ぐんだな」


 リンドの耳元に口を寄せ、アランは喉の奥で笑いながらささやいた。


「時間だ。連れていけ」


 いつの間に現れたのか、アランの後ろに控えていた屈強な男たちがウィードの柵の魔術式を切って入っていく。拘束用の縄がウィードの身体に巻き付いていくのを、リンドはただ立ち尽くして見るしかなかった。





 空っぽになったウィードの獣舎を独りぼっちで掃除をしながら、リンドはため息を吐いた。まさか、こんな急な別れになるなんて思っていなかったのだ。


「ウィード……」


 申し訳程度に敷かれた干し草の隙間からウィードの蒼い鱗を拾い上げ、リンドはじわりと浮かんだ涙を袖で拭った。じきに、この獣舎にも新しい竜が来る。竜は縄張り意識が強い生き物だから、少しでもウィードの痕跡が残っていてはいけないのだ。リンドは拾ったウィードの鱗をズボンのポケットに入れ、掃除を再開した。


 いや、正確には再開しようとした。リンドの手を止めたのは、突然空から降ってきた何かの存在だった。


 まず響いたのは轟音。獣舎の屋根を突き破り、大穴を開けて何かが落ちてくる。リンドが獣舎の隅に寄せていた干し草の残骸に墜落したそれは、酷い砂煙を巻き起こした。思わずリンドは咳き込むが、獣舎にはリンドとは違う人物の咳も聞こえてくる。


「うっ……げほっ」

「げほっ! うえっ! じゃりじゃりする! 死んでない! よかった!」


 やたら大きいその声は甲高く、少女のものだ。だが、ブラン村の人間ではない。村人の声くらい、さすがのリンドも聞き分けることができる。


「うえー……あ、でも無傷! やばい! 天才だワタシ!」


 砂埃が晴れ、天井に開いた大穴から太陽の光が差し込む。


 その陽光に照らされて浮かび上がったのは、美しい色白の少女だった。


「お、よっす少年! ちょっと悪いんだけど、ここがどこだか分かるかい?」


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