忍びとくノ一のはみ出し会話 5
『家は住まないと朽ちる』
という。放置されれば電気機器だってすねてなかなか起動しなくなるので、これはあながち間違いとはいえないのだが、とある富豪が自宅としていた武蔵野の屋敷を留守にする事と相成った。
今度の出立はいつ戻れるか全く目処が立たない。もしかしたら、もう戻れないかもしれない。
しかし彼らは選択肢の一つとしてあった、その家を手放す事をとても悲しく思った。言うまでもなく彼らの深い思い入れがあったし、土地ごと売却して、時を経て美しい森が不燃ごみや排気ガスで埋もれてしまうであろう未来像に、激しい怒りを禁じ得なかったのである。
『家の管理をする代わりに、高等遊民をする仕事をして下さい』
という内容で持ち主が公募をかけ、まさかの確率で当選した幽冥牢の、これまたとある事情によって、転生を遂げた甲賀忍者、鬼岳沙衛門とるいの幽冥牢屋敷での本日の仕事は、邸内の警備と見回りがメインである。
仕事を終えた沙衛門が、住まいを置いている幽冥牢屋敷の地下の鍾乳洞の入り口まで歩いて来ると、そこにはるいがぽつんと一人で立っていた。どうやら彼を待っていた様子である。
「おや、どうした、るい。
今日は風が強い様だ。早く帰ろう」
「んもう、いけずですね、沙衛門様。お待ちしていたのですよ」
「そうか。それは済まぬ。
さあ、行こうか」
闇を照らす為に一応の照明が用意されているその下を、とぼとぼと二人は歩き出した。ちらりと沙衛門を見やり、思い出した様にるいが口を開く。
「昔の事を思い出していました。まだ沙衛門様とお会いしたばかりの頃の事を」
ざんばらボブカットの奥で沙衛門は、その瞳で遠くを見つめたまま、穏やかな笑顔を浮かべた。
「何とまた、随分昔の事だな……ふむ、俺も色々思い出して来たぞ。初めて会った頃のお前はおてんばだったな。でもそれが俺にはとても可愛らしく見えたものだった。
『元気なのはいい事だ』
と思った」
「まあ。私の恥ずかしい所ばかり覚えていたりしませんか?」
「そんな事はないさ。色々あったが、いずれも懐かしい思い出ばかりだ」
そう言って、二人は思い出話をし始めた。
るいが沙衛門と初めて出会ったのは、彼が二十六歳、るいが十六歳の頃であった。
どこかに輿入れするには早過ぎず、遅過ぎず。多感な『お年頃』である。
ある日、突然親から
『鬼岳沙衛門殿にお仕えしろ。もしくはわしの知り合いの所に嫁に行け』
と言われ、正直仰天した。
それまで一応は家事や裁縫、剣術、馬術、格闘、忍法の修行に明け暮れていた彼女だったが、実の所はまだまだ遊びたい盛りだった。修行以外で野山を思う存分駆けたりする時間は殆どなかったので、はけ口も兼ねていたのである。
母に合格をもらうレベルには到達していたが、家で裁縫をするのはあまり好きではない。ご飯だって母の作る物の方が美味しい。そう言うと母は
『好きな男を見つけるのです。そうすれば
『美味しい』
と言ってもらいたくなります』
と言う。そんな奴は自分の周りを見回しても一人もいない。興味無し。
父や母は
『お前は要領はそれほど悪くはないが、おてんば過ぎる。折角美人に生まれたのに』
と口癖の様に言った。そう言われる度
(別に女に生まれたかった訳ではないのに)
と、心の中で反論していた。しかも両親は早くるいに嫁に行き、孫の顔を見せて欲しいと思っている様だ。冗談ではない。好きでもない奴にそこらの畑で半ば強姦されてたまるものか。
しかも数人の友達に聞いたら
『若い奴はへたくそで凄く痛かった。がつがつしてるだけだし、優しくない。
何じゃ、あやつら』
と言うではないか。何人かそう告げて泣く友達を慰めた事もあった。
『るいは綺麗だから気を付けた方が良い』
と言われた事もある。
しかし、気を付けると言ってもどうすればいいのか。内容をよく知らないから、得体の知れない恐怖だけが先に立ち、ますます彼女は武術に磨きをかけ、どんどん筋が良くなって行く始末だった。
(女になど生まれたくなかったよう……知らない奴に犯されそうになったら舌噛んでやるっ!)
と木陰でめそめそ泣いたりもしていた。
客観的に見ても、実に不憫な娘だった。
父とは知人の知人という関係であった様子の鬼岳沙衛門の事は、二、三度見かけて挨拶をした事があったが、見るからに
『不精ひげの怪しいおじさん』
という雰囲気だったので、近寄り難いものを感じていた。実際彼は手が早く、あちこちのくノ一に手を出していた。
『それもまた修行』
と称しての事だとか。
ところが、日を置くに連れてどういう訳か、前まではよく一緒にいる所を見かけた者と歩いている所を見なくなる。
(多分愛想を尽かされたのだ。だっていやらしそうだし、だらしなさそうだし)
と彼女は思っていた。
たまに、何かの用事で彼が馬で駆けて行く所を見ると、心を惹かれるものは確かにあるのだが、それを認めるのにはいささか抵抗があった。何しろ幾ら女の扱いに慣れている様に見えるとは言えど、結局は彼も男だ。
しばらくして、るいにも事情が飲み込めて来た。
沙衛門がお役目で村を出る場合、彼一人生還する事がとても多く、その内
『手柄を独り占めにすべく、他の者を屠ったのではないのか』
という噂が流れ始めたのだ。
幾度か当時の頭領が探りを入れさせたが、何しろまだまだ各地での武将達の戦は留まる事を知らない勢いであるから、証拠を探すのに幾層にも積み重なった遺体の山をひっくり返すのは当たり前という有り様。行って戻るのだけでもかなりの犠牲者を出した。
これぞ、という証拠は挙がらなかったが、噂は人に容易に物事にフィルターをかけさせる。結果、皆離れて行く。
(証拠もなしに……嘆かわしいこと)
と、るいは思ったが、それでも彼女も一人の村の娘でしかなく、意見出来るほどにはまだ認められていない。
噂は幾度となく、川底を流され続けて丸くなった石ころの様に村内に沈殿していた。
しかし、とるいは思った。
そこまで陰でこそこそ言うくらいに嫌っているというのなら、いっそはっきりさせれば良い。武芸と忍法を極めんとする者同士、死なぬ程度に立ち合えば良いのだ。後の江戸時代には士農工商によって郷士という立場に置かれる彼らであったが、それぞれが立派な侍魂をその身に秘めているのだから。
(なのにそれをしないなんて)
村の中の空気に、るいは複雑な気持ちが強まるのを感じていた。付け込まれない様に気を張っているのにも正直疲れて来ている所があった。
されど、支配はされたくない。しかしその方法を知らない。
いくらくノ一として開花しつつあるとは言えど、彼女もまた外を知らぬ村娘のまま、年を経ていた。故に、村を出て行くという所まで考えが及ばなかった。
門外不出の極意を身内のみに伝える共同体である故、そう簡単にあちこちに旅立つ事も出来ない。下手をすると
『抜けた』
と見なされ、一族郎党皆殺しになりかねない。それが骨の髄まで染み込んでいるせいか、尚更村の外に出るという考えは浮かんで来なかった。
るいはくたくたに疲れていた。でも安心して身を任せられるような本当の相手は、彼女の思い付く範囲には一人もいなかったのである。
その内、
『結婚か沙衛門に仕えるか』
の選択肢の期日が迫って来たので、彼女は散々悩んだ末、沙衛門に仕える事にした。
結婚の相手とやらの顔は良く知っていた。沙衛門には遠く及ばないが、そいつも手が早く、もし輿入れでもしようものなら連日交合し倒され、あっという間に子供が出来、後は家事と子供の世話と旦那が飽きるまでの夜の生活に人生の全てを費やす事になる。
(そんな事を許容するくらいなら抜けて、一生追われた方がマシだ)
と彼女は思った。
そもそも好きな相手では無いのだ。結果の分かり切った人生を歩みたくない。
そう思った彼女は早速その日、両親に別れを告げ、沙衛門彼の家で住み込む事になった。弟子として教えを請いながら、家事の全てをまかなうのである。して、いずれはお役目に身を投じるのが、当面の目標だ。
着いてからすぐに彼女は沙衛門に、簡単な挨拶を難しく述べてから、掃除に取りかかった。彼の家はそれなりに広いが、ポイントさえ押さえればそう時間のかかる作業はないだろう。
昼までにそれを済ますと、沙衛門が
「ご苦労。さすが、母上の仕込みが見事だな。綺麗に片付けてくれた」
と挨拶がてら、話し掛けて来た。
「さて、るいよ」
「はい」
「馬で遠乗りしたくはないか?」
それを聞いて一瞬るいは瞳を輝かせかけたが、すぐに
『ただいま作業中』
という表情に戻った。心を許したらすぐにたらし込まれると思ったのだ。
が、内心、
(馬で遠乗りかあ……)
とその情景を思い浮かべてみた。遠乗りなどご無沙汰である。丁度今日は天気も良く、馬で走ったらさぞ気持ちがいいだろう。
しかし
「沙衛門様、私は家事を済ませなければなりません。お誘いには応じかねます」
と言ってしまった。すると沙衛門は
「心がけ天晴れ。
では命令だ。俺に馬で付いて来い。お前が遠乗りでどこまで馬を慣らし、乗りこなせるか、拝ませてもらおうか」
と言い出した。命令なら仕方がない。彼女は
「分かりました」
と言い、遠乗りの準備をしに、馬小屋へ向かった。
顔は素のままだったが、心の中では彼に少し感謝していた。
それからも沙衛門はるいの家事が一区切りついた頃合いを見計らい、やれ
『剣術の稽古をつけてやる』
だの、
『野山を駆けるから付き合ってくれ』
だのと命令して来た。そしていつしかそれはるいの楽しみになっていった。
沙衛門への第一印象も、やはり周囲の噂によって出来上がった下らぬ妄想だと分かって来た。
実際彼は決してあやしいおじさんなどではなく、気さくな主だった。
ある時、るいが熱を出して寝込んでいた所、沙衛門は身の回りの世話を殆どしてくれた。勿論用足しなどは厠へ肩を支えて連れて行ってもらうだけで遠慮していたが、彼は
『沢山食べて沢山寝て早く元気になってくれ。
また二人で一緒に馬で遠乗りをしに行こう』
と言ってくれた。
その時は彼の優しさが嬉しくて、つい沙衛門の手を握って泣いてしまった。今まで人に甘えた記憶が殆どないので、自分の頑なさが一気に取れてしまったのかもしれない。
「お役御免かと思っておりました。家に戻り、あの男の元へ嫁入りするしかないのかと」
とるいが言うと、彼は微笑しながら彼女の頭を優しく撫で
「誰がそんな薄情な真似をするものか。安心しろ、るいはよくやってくれておる。
それにな、お前は育て甲斐のある奴だ。今はもう、お前がいないと、俺はつまらない」
とまで言ってくれたのだった。
その後、彼女は泣きながら眠ってしまったのだが、朝方に目を醒ますと、胡座をかき、そのままこっくりこっくりと舟を漕いでいる。彼は何とるいの手を一晩中握っていてくれた様である。
(沙衛門様……)
彼の手からそっと自分の手を剥がすと、具合がすっかり良くなっている事に気がついた。彼女は沙衛門の肩に静かに自分のかけていた掛け布団を被せ、朝食の支度に向かった。
(目を醒ました沙衛門様に美味しいものを食べさせてあげたい)
上手く行くかは分からないが成功させたい。
少しドキドキしていた。
時は少し流れて、るいは十八歳になっていた。
二年ほど仕えて来て、彼の従者としてやって行く自信が付いた頃に、突然だが彼女の実家が取り潰された。お役目に失敗した彼女の父が切腹し、母も父を一人では逝かすまいと、自害した。
全てが終わってから、彼女はその事を知らされた。もう帰る場所はない。
その事は彼女にはショックだった。
しかも代替わりした頭領である重が彼女の事を見初め、
『今後は俺がその身を預かる。自分の屋敷へ来い』
と言い出した。噂も勝手に耳に入って来るが、地位を利用して、手柄は独り占め。典型的なワンマンであった。将来は服部半蔵の配下として、徳川家に取り入る様子である。
るいと重との間で、沙衛門は実に厳しい立場に立たされた。断れば甲賀に居場所はない。
しかし彼は、幾度か断りの手紙を出し、直接の話し合いの場を設けた。が、良い結果には至らなかった。
どうにもしつこいお頭である。
このままでは沙衛門がまたあらぬ噂を流され、家も取り潰される可能性が高い。ワンマンな人間にとって、自分以外は全て踏み台だ。
るいは、沙衛門を苦しめない為に、ある夜、彼に別れを告げに部屋に行った。ろうそくの明かりが揺れている。沙衛門はいつもと変わらぬ笑顔で彼女を迎えた。
その笑顔を見るのが彼女には辛かった。
この二年の間の楽しい想い出が、脳裏に鮮やかに去来した。
彼女は重い口を開いた。
「沙衛門様、お別れの挨拶に参りました」
そう言う彼女の瞳に涙が滲んだ。本当は言うのも辛かったのだが、言ってから平静を保つのが、更に辛かった。
既に、沙衛門は彼女にとって大切な人間になっていたのだ。
こんな状況に追い込んだお頭が憎かった。そんな奴の所へ付いたらどうなるかは考えるまでもない。沙衛門と引き離されて、
(慰み者にされるくらいなら、相打ちも辞さぬ)
と彼女は心に決めていた。
(そして、もし生き延びたなら、一人でこの村を去ろう)
と思った。そうする事で、沙衛門との思い出を守ろうとしていた。
どうせ生きていても一生追われる身。自分の事で沙衛門に苦難が迫るのは想像するだけで辛い。
沙衛門の性格は人に好かれるものであったが、今回の事に関しては、重の手回しで名のある者達が彼の下に付いている。どれほど沙衛門が残りの派閥から仲間を作ろうと、重がいるだけで押し潰せる。全ておじゃんだ。
村社会で孤立し、晴れる見込みのない容疑をかけられた者には、死あるのみ。
結局、沙衛門は自分に一度も手を出して来なかった。るいとしても彼には好意を抱いていたから、そうなってもおかしくない雰囲気になる事はしばしばあったが、そんな時は彼女の頭を撫で、優しい言葉をかけてくれるだけに留まっていた。
本当に、優しい主だった。
(だから……最後の想い出に抱いてもらえないかしら)
そう思って来たのである。
沙衛門は彼女の言った事にはすぐには答えずに、ひとつ息をつくと、こう訊ねた。
「なあ、るいよ。最後だと思うならば、どうか正直に答えて欲しい。
お前は本当はどうしたいのか」
るいは喘ぐ様に言った。
「勿論……沙衛門様にずっとお仕えしていたいです。
ですが……ですが……っ!」
それは無理です、と言おうとしたのを左手をかざして遮り、彼は呟いた。
「るい。いつだったかお前が熱を出し
『そのせいで、自分がお役御免になるのでは』
と言っていた事があったな。
あれからお互いに気心が知れるまで、本当に色々あった。こうして本音を打ち明けられる間柄になった事も、とてもありがたく思っておる。
だがな、俺の気持ちは何が起きようとあの時のままだ。自分の思った様にすればいい。
俺とて、人を悲しませるしきたりやしがらみなぞくそくらえだ。そして、俺はお前と一緒にいて、とても楽しかった」
沙衛門は息をつくと、少し悲しげな瞳をるいに再び向け、口を開いた。
「まだ伝えておらぬ事があった。今、この場で話しておきたい」
「はい」
「かつての俺の師匠も、厳しかったがとても優しい師匠であった。ほれ、以前、松沢七羽殿に挨拶をしに参った事を覚えているかな?」
「ええ、存じております」
「あれは俺の師匠の、そのお父上にあたるお方であった。早くに両親を亡くした俺を引き取ってくれたので、俺を含めた三人は義理の親姉弟であるとも言える。そこまでの事を師匠と七羽殿は、俺にしてくれた」
「あのお方が……」
「七羽殿の実の娘御であられた、つらら殿というお方が、その俺の師匠だった。
年端も行かぬ俺に、まず生き延びる事の大切さを教えてくれた。その後に、生きる事での楽しさも教えてくれた。
俺に、生きようとする気持ちを、新たに吹き込んでくれたのよ。でなければ、俺はとても生きては来れなかった」
どこか遠くを見る目で、彼は続けた。
「が、つらら殿は、俺を引き取ってから、数年と経たぬ内に殺されてしまった」
るいの脳天を衝撃が電流となって走った。
「これは七羽師匠から後になってはっきりと知らされた事だが、つらら殿はずっとずっと、俺を重からかばってくれていた。考えるのも辛いが……奴の酒宴の席で、笑い者にされながら、嬲り尽くされておったのだという。
重はそれで、どこまでつらら殿が耐えられるか試していたのでは、と俺は見ている。が、つらら殿も音に聞こえたくノ一、全く根を上げなかったのであろう。七羽殿の前では、やつれた様子すら見せなかったと聞いている。
それがまずかった。七羽殿は妙な気配を感じ、問い正したが、つらら殿は明らかにせなんだ。
『七羽師匠と俺の事で脅されていたのでは』
と思ったのはそういうやり取りからよ。して、七羽殿も、遂に娘御の一大事に気付けなんだ。俺などはつらら殿の助言を下に修行に打ち込み、腕前が上がるのを身を以て感じ、その嬉しさで更に修行に打ち込んでおった。
ふふ、小僧であったとは言えど、とんだ大たわけよ」
沙衛門の自嘲交じりの苦い笑みが、溜めに溜めた彼の悔しさと怒りを、るいにも伝えて来る。
「つらら殿の意地は重を怒らせる結果となり、奴の堪忍袋の緒が切れた。つらら殿はある日、陵辱され尽くした末に斬殺されるという、実にむごい姿で見つかった。
俺は恐ろしかったが、全て見届けた。あれは陵辱というだけでは済まされぬ。破壊であった。首から下は幾度も斬られたと見え、明らかに焼きごてを当てた跡があった。
今思うだけでもぞっとする、凄まじい有り様になっていた。俺は、嘔吐を禁じ得なかった。
……つらら殿は、支配欲を手にした重に貪り食われたのよ」
「そんな……」
「七羽殿は村内では穏健派だ。しかし、娘の最後がその有り様で、黙っておれなかった。
村の古老にして、あの年まで生き延びた大忍者であるから、ツテを利用して突き止めた事がある。
重はな……どうにも虫が好かぬ小僧である俺を、嬲り殺しにしたかったのだとさ。元々つらら殿へも、あれは手を伸ばさんとしていた。そこで邪魔な俺への憎悪をぶちまけ、つらら殿を雁字搦めにしたと見える。
……俺も七羽殿も、しばらくの間、魂が抜けた様であった。あまりにも悲しくてな」
「……」
「そこから年月が過ぎ、俺は更に修行に打ち込んだ。七羽殿の仕込みはつらら殿の何倍も、何十倍も厳しかった。
が、それは娘を死なせた怒りや、疫病神でしかない俺への憎しみではなかった。何故なら七羽殿も涙しておられたからだ。だからこそ俺も血反吐を吐いて、何度も死に掛けつつ、忍法を体得した。
俺を、今では娘御の忘れ形見となってしまった俺を、
『何とか生き延びさせ、重の謀略など容易く突破してみせる、一人前の忍法者にしたかったのだ』
と、免許皆伝の折に、改めて話してくれた。
お前も小さい頃から俺を村で見ていたかもしれんが、つらら殿の亡骸を見てから、しばらくはつらら殿の面影どころか、大人の女人を見るだけで酷い頭痛と吐き気に襲われてなぁ……実に難儀した。自分から村のおなご衆にそれぞれ事情を話して、交合の相手をしてもらっておったという訳よ。
苦手意識はどうにか克服したが、その後は色々とこじれてしまって……悪い事をした」
(そうだったの……)
彼の連れている相手がころころ変わった事情を、ここでるいはやっと知る事が出来た。
「七羽殿からの免許皆伝……ついこの前の様でもあるが、随分と時間が経ったのを、るいを弟子入りさせる事となった時に初めて感じた。
松沢家の教えではな、師匠から伝えられるものと、独自に編み出すものの二つの忍法を体得せねばならぬ。俺が体得したひとつが、つらら師匠が叩き込んでくれた、そして俺がお前に伝えた『霧雨』よ」
つららから沙衛門へ。沙衛門からるいへ。
不思議な縁を感じつつも、その陰にそんな様々な悲しい出来事があったのだと知り、しばし言葉に迷ったが、ままよ、とばかりに思ったままをるいは告げた。
「沙衛門様、『忍法 霧雨』、このるいに、良くぞ仕込んで下さいました。私の家の秘伝であり、私独自の技法も編み出した『忍法 炭舞』と共に、更に腕を磨き、いつか次なる高みへと到達してご覧に入れます」
「そうか。楽しみにしている」
沙衛門は息をつくと穏やかな微笑を浮かべながらそう告げて、頷いた。
「まあ、それがこれまでの俺の側の主な成り立ちとでもいうか、そういう事になる。
俺もまた、武芸や忍法の修行に打ち込み、更に腕を磨くるいを見ていて、
『師匠も、普段はこの様な気持ちであったのかな』
と思っては、心の底から暖かい気持ちにさせてもらった。
まさか自分が弟子を取り、育て上げる事になるとは思わなかったが……何とか二人とも今日まで来れた」
そこで沙衛門は、話を区切り、改めて言った。
るい、お前に問おう。ここまでやって来た俺達だが……お前はどうしたい?」
沙衛門はるいを見つめた。るいはしゃくり上げ、やがて、この屋敷に来て二度目の大泣きをした。
主はやはり、自分の信じた通りの主だったのだ。
幸せだった。
「沙衛門様。……沙衛門様、沙衛門様!
私は怖いです。あそこへ行くのは嫌です。
ここにいたい。沙衛門様と一緒にいたいよう……!」
彼はるいを抱きしめ、優しくその頭を撫でた。
正直そこまで自分が好かれているとは思っていなかった。今までの女性は彼が、自身のトラウマから来る女性恐怖症を克服した後でも、彼の気持ちを掴みかね、離れて行った。
無論、ほんの一時でも心を通わせた相手が去る事が辛くない訳がない。しかし、どこかで自分から諦めていた部分があった事も否めない。
事実として、彼は去り行く彼女達のその背に、手を伸ばしはしなかったのだから。
しかし、今度はまさに一世一代の正念場である。いつまでるいが自分の事を気に入ってくれているか、はっきり言って自信がないが、いつも自分が辛い時に傍にいてくれたるいの為ならば、命を懸けられる気がした。
……いや、懸けてやろう!それくらいしか今の自分にはない。
彼は決心した。
「るい。この村を出よう。
この世界にはお前の知らない楽しい所が沢山ある。そこへ一緒に行こう。
どこにあるかは分からないが、きっと二人で幸せに暮らせる場所があるはずだ。それを二人で見つけよう。
そこへお前と一緒に行きたい。るいなしでは、俺はつまらない」
はらはらと涙を流しながら、るいは彼の瞳を覗き込み、訊ねた。
「私はお荷物ではないのですね? 付いて行ってもよろしいのですね?」
「勿論だ。もし抜けるとするならば、連れて行くのはお前しか考え付かぬ。
お前の好みかどうかは自信がないが、一緒に行くのは俺でいいか?」
るいは頷いた。
「私も知らない所へ一人で旅立つのは怖いし、嫌です。ですが……沙衛門様と一緒ならどこまでも行けそうな気がします。
いえ、どこまでもお供します!
……それに私、沙衛門様の事がここに来てから大好きになりました。
何と申し上げれば良いか、初めてなものでお許し頂きたいのですが……」
「心配は要らぬ。俺とお前の付き合いだ。
正直な気持ちで構わぬ」
頬を染めながら、彼女は遂に出会えた理想以上の相手に、はっきりと告げた。
「……お慕いしています、沙衛門様……」
「るい……」
自分を真摯な眼差しで見つめてくる彼女を、ゆっくりと彼は押し倒す。
ろうそくの明かりが消えた……。
暗い道を二人で手を繋ぎながら、沙衛門とるいは歩いている.
「本当にお前は、どこまでも一緒について来てくれていたのだな。
俺が倒れたあの時も一番に駆け付けてくれたものな。あの時は救われた気分だった」
「私は約束致しましたからね。沙衛門様が自分の理想通りに生きて下さって嬉しかったです。お仲間にはいつも優しくて。
でも、その内の一人をお抱きになられた時はちょっと妬けました。
……沙衛門様?」
「む、何かな?」
「私のいない時はなるべく人をお抱きにならないで下さいましね? 一人で気持ち良くなられてはずるいです」
「分かった。約束しよう。
屋敷のみんなも勿論大好きだが、俺はいつでもるいが一番好きだ。それは、それだけは、覚えておいてくれ」
「沙衛門様ったら」
暗い道だったが二人にとっては昼間も同然。
足取りも軽く談笑しながら、再び現世に血と骨と肉を以て転生した沙衛門とるいは、闇に消えて行った。
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