27 わかれ(後編)

 ここは朧スペース内の朧の部屋へ続く廊下。

 先頭を歩き自分の部屋へ案内するのは朧、その後に続く沙衛門とルビノワ。傍から見ていれば何の変哲もない極々日常的なこの家での1シーンだ。決めたはずのランデヴー地点の事さえ頭になければ。

 既に狂っているスケジュール。更に、その日常的な雰囲気を何かの崩れる音が破った。木製のドアが破壊される様な音が。

 その方向を見て朧が言った。

「出た様ですよう」

 そう言うなり、朧はその音のした方へ駆け出した。

(『出た様だ』だと?)

 後に続いて走りながら、沙衛門とルビノワは戸惑った。のこのこと現れた目の前にいるこの朧が偽者だと信じ込んでいたが、実際はるいといた方が偽者だったと言う事か。

 だとしたら一人で応戦せざるを得ないるいが危ない。追って駆け出しながら、続くルビノワに沙衛門は言った。

「ルビノワ殿、

『皆で生きて帰る』

と言ったな?」

「ええ!」

「ならばこうだ。お主と奴との間には俺が入る。

 奴の鎌鼬の及ぶ範囲は俺の『霧雨』を目安にされよ。それで察した圏内よりは絶対に間合いを詰めるな!

 して、俺の反応を見てその都度、それで援護を。俺はルビノワ殿の狙撃の腕に身体を預ける」

「了解」

 逆さLの字になっている廊下の角を朧が軽やかにターンして曲がり、その後に沙衛門が続いて消えた。そのLの字の下側、曲がり角の死角になる位置から数歩手前で、ルビノワは左肩を壁に預けつつしゃがみ込む。

(沙衛門さんのあの足なら逃すはずはない!)

と、ルビノワが確信したその次の瞬間、沙衛門が後ろに飛び退いたのを見た。何時の間に引き出したのか、彼が両手で自分の前に斜めにぴんと張ったと思われる鎖分銅がすっぱりと切断されている。

 だらりと下がる鎖が涼しげな音を立てる。その緊迫した状況下ですら穏やかな、それでいて楽しげな、沙衛門の声があった。

「ほう、やりおる」

「いつ入れ替わったの……!?」

「分からぬ。

 まずは手はず通りでゆこう、ルビノワ殿」

「了解……!」

 犬歯をむき出しにして沙衛門が朧に羅刹の笑みを向けた刹那、彼は分銅と鎖の結合部分を『霧雨』で切断、分銅を握ると、朧の顔の真ん中目掛け、これを投擲。が、

「シッ!」

 短く息を吐き、朧の鎌鼬をはらんだ左のジャブがそれを穿つ様に放たれ、大気を幾重にも切り裂いて拳そのものに当たるその数センチ前で分銅を弾き飛ばした。その表面にこすれ、撃剣のそれにも似た摩擦音を響かせながら、火花が宙に幾筋もの軌跡を描く。

「剣呑な技よな」

 余波を食らわぬ様、網戸のそれに似た、目の細かい『霧雨』による広範囲の障壁を瞬時に沙衛門は宙に描いてみせ、鎌鼬のそれを凌いだが、朧の動きは止まらない。改めて『霧雨』による障壁を展開し、沙衛門が飛び退いた空間を朧の掌が掬い上げる様に抉った。

 心意六合拳の燕形と呼ばれる技法、それの燕子抄水に入ったのだ。右足を突き出す様に、身体を沈めつつ踏み出しながら、下から前へ掬い上げる様に左掌を繰り出して立ち上がる。右手はその左の肘の辺りに、掌で下からの打撃に対応するかの如くあった。

 左の足を踏み出す時にはそのまた逆、右の手で同じ様に掬い上げつつ、挑む。相手の攻撃をいなしながら迫る技だ。

 幾つもの乾いた音と共に、これまた幾つもの銀の光が彼女の周囲に瞬く。それは壁の角、地面から一メートル程の高さで壁に張った一本の『霧雨』を足場に屈み込んでいた沙衛門が放っていた、更なる『霧雨』の包囲によるものであった。

 朧は沙衛門が繰り出す『霧雨』を目で追う事をせず、自身の両腕による鎌鼬の展開と、体得した技の、沙衛門の察する所、およそひとつのみで、彼女を捕縛しようとしたそれを弾いてみせたのだ。

「見事だ」

 遺されている左目で朧を睨み据え、沙衛門が呟く。二人の距離は三十センチを切った。動きは同じく見えるも異なる技である燕子入巣に切り替え、朧が殺到し、角を出る。

 そこへ片膝を着いて発砲のチャンスを伺っていたルビノワが、すかさず彼女の右太ももに、構えていたレミントンM870の銃口をロックオン、発砲。反動を殺さず、本能的にそのまま後ろに転がった。

 だが、それが幸いした。何故ならばそれさえも後ろ殴りで、今度は鞭の如く振り下ろされた朧の拳が一閃したと同時に、真空に食い千切られ、只の輪切りの硬質ゴムの屑として空中に散らばったのだから。ドラム缶を鉄パイプで殴り付ける様な発砲による轟音の、その残響に続くよりも速く。

 ルビノワは経験によって、幸運にも顔を柘榴にされずに済んだのだ。


 沙衛門には己の肉眼でその散らばるまでの様子を捉える事が出来た。

 一瞬だけルビノワを見やった。一瞬で十分だ。怪訝そうな表情を浮かべていた。次の発砲のチャンスを伺っている様子のルビノワには拳の速度までは見えたが、散らばる様子は把握出来なかった、と見た。

 無理もない。

(ならば、俺が出よう)

「ルビノワ殿、別の狙撃の手はずを。場合によっては撤退しつつ機を伺う」

「了解」

 ルビノワの苦い声を左に捉えつつ音もなく地に降り立つと、更に己を取り巻く様に、幾重もの『霧雨』を展開した沙衛門が、ゆらりと前に出る。触れたが最後、それは朧を捕縛ネットの如く捕える技法であった。そこへ重ねる様にルビノワのレミントンM870が一発放たれる。朧の脇に固めていた右拳が僅かに跳ね上がり鎌鼬の気流が障壁として再度、硬質ゴム弾を虚空で切り刻んだ。

「な……!?」

 先程の発射弾が朧の手前で、彼女が放ったジャブで何故か自壊したと判断していたルビノワが驚愕した。


 右に位置しているルビノワの支援を嫌ったか、後ろへ二歩、三歩とバックステップで間合いを計る朧。これでルビノワは再び相手を射程外に逃した。

 沙衛門は歩みを止めず、その周囲から、樹木の根の発育の様子を早回しにして見せるが如く、『霧雨』によって編み上げられた歪な棘が、彼の数歩前の虚空を泳ぐ。

「ふっ」

 朧の吐息。彼女はそこから一転、龍形大劈の流れに入った。今度は斜めに虚空を薙ぎ払い、振り下ろす右手で『霧雨』をあえてかき集めんとした。朧の鎌鼬をはらむ腕に反応し、その両肘までを『霧雨』が覆わんとしたが、締め上げる事がかなわない。確実に質量を持った、朧が発している不可視の気流がそれと拮抗し、阻止していた。その頭上から逆さにしたざるの如く『霧雨』が強襲、彼女を取り込もうと収縮。

 が、そこで朧の両腕の鎌鼬が球状、そして爆発的に膨張、蜘蛛の糸の如き伸縮性をも誇る『霧雨』が大きくきしむ。それはまるで乙女の狂乱の怒声にも似ていた。

 それ程のきしみは沙衛門ですら耳にした事がない。


……いや、あった。沙衛門の脳裏に蛍の光の様に、心当たりが去来する。

 それはかつて師匠が山中での修行中に彼に一例として拝ませた、荒れ狂うツキノワグマと対峙し、それへ絡ませた『霧雨』を捕縛の網として使用した場合の耐久限界の様子であった。

(あれか!)

 明らかな耐久限界である。そればかりかその鎌鼬の膨張に反応した天井からの『霧雨』が、彼女に到達する前に収縮を完了させそうになった為、仲間内ではるいにしか明かせぬ秘伝を守るべく、幾条もの銀線に分解されたそれを、僅かに苦味を表情に浮かべた沙衛門が掌へと手繰り寄せる。

 腰を深く落としつつ、右手を前に、左手をその肘の辺りにたおやかに曲げながら、ゆるりと眼前へと朧は構えを取った。すかさず網戸状の『霧雨』を展開させ、今来た道へ沙衛門は飛ぶ。

 行き場をなくしたのか、逃さぬという意思の表れか、朧の両腕から前方へと、鎌鼬が威力の逃げ場を求め、彼女を囲む壁を、床を、天井を、轟雷のそれを思わせる破砕音を幾つも響かせながら、深い裂け目を刻んで穿つ。

「イッ!」

 武道でいう発声法、心意六合拳の発勁を放つ時の雷声を、朧はそこで発した。

 頭のホワイトプリムを、編み上げた太く長いおさげを、それをまとめた深い青のリボンが大きくたなびいた。



 パワーショベルによるそれを思わせる惨状が顕現、その下を、頭上から落ちる破片をサイドステップでかわし、朧が歩み寄る。

 どうにか鎌鼬の余波は凌ぎ切ったが、轟音で様子は知れる。沙衛門は呟いた。

「落盤まで……あれを捕縛か」

「撤退しますか?」

 そのざんばらボブカットの、頬の辺りまである前髪が覆っている沙衛門の顔の右半分。それを見て、ルビノワが問うと、彼女を落ち着かせる様に、沙衛門が己の左手を伸ばし、ショットガンのフォアグリップを掴む彼女の左手に、ぽん、と置いて、告げた。

「いや、まだ手はある。

 ルビノワ殿、朧殿と瓜二つのあれだが、骨折させるまでは許してくれるか?」

「まさか、それを避けようとして?」

「一応な」

 ルビノワは叫びそうになったのをどうにか堪える。

(死にかけたのよ!?)

と喚いてやりたかった。

 それも省みず、そこまでのハンデを相手に与えながら渡り合っていたというのか。


 何故だ。ルビノワの、とても大切な親友に酷似していたからか。


 短く息をつき、ルビノワは告げた。

「構いません。不可抗力です」

「ありがとう。

 よろしい、改めて仕掛けてみよう。相手との立ち位置は先程と同じだ」

「了解」

「それと、以前俺達に教えてくれたものが幾つかあったな。あれは今あるかな?」

 ルビノワが微笑んだ。

「勿論」

「ちょっと隙を作ってくれぬか」

「隙?」

「ああ、それをルビノワ殿が放り、炸裂する中を俺が行く。

 何を投げたかは俺のまなこが勝手に捉えるので気にするな」

「了解。カウント0と同時で」

「うむ」

 そう告げると、沙衛門の目は朧の気配へと向けられた。再度怜悧な美貌を取り戻したルビノワはポケットから取り出したそれのピンを抜く。

「行きます。3、2、1、0!」

 角の向こうへの投擲と同時に、沙衛門が『霧雨』を再度、網戸状に展開させつつ、飛び込んで行った。




 スタングレネード。沙衛門は視界の隅にそれを収めつつ、同じ様に捉え、衝撃に備えて耳を塞ぎつつ背を向けた朧の頭上を、崩れた壁を蹴って越える。破裂音が炸裂し、白煙が上がった。

 ルビノワと朧のかつての対処法の指導に倣って、両手で耳を塞いで口を開きつつ、相手を逆さで捉えた沙衛門の眼前の『霧雨』による障壁を、予想通り朧の鎌鼬が叩く。どう、と複数の穿つ様な音に朧の視線が頭上を舐めると、そこにはワイヤートラップを思わせる銀線があった。その内の一本が微かにたわんでおり、それに気付いた朧は何かが再度頭上を越える刹那、両肩を挟む様に叩いたのを察した。

 背後の気配に後ろ殴りのバックナックルを放とうとするが、肩に激痛。

「ぐ……」

 覚えのある苦痛にその桜色の唇が歪み、それから笑みの形になった。

 鬼岳沙衛門は、この時点に至るまで、朧の目が自分の動く速度に慣れるのを待っていたのだ。その上で、捉えられる速度を更に越えて飛び越えつつ、彼女の両肩を脱臼させていたのである。




「ちっ」

 両腕をだらりと下げ、舌打ちをする朧から一メートル半の間合いを置いて、沙衛門は立っていた。

 脱臼は慣れた者ならば自分で治せる。更にそれが拳法を体得している者だとしたなら、微塵も油断はならない。

 そして先程までの鎌鼬による凄まじい破壊力を拝んだ今、他の奥の手を放って来る可能性がある。

(『霧雨』での足の拘束は読まれておろう)

 故に、まずは両肩を外した。両手によるあれだけでもこのザマだ。両足に何が隠されているか分かったものではない。

(まだ出てはならぬ)

 その意思を含めて、バックアップのルビノワに見える様に手をかざした。

 下げた腕を預け、タイミングを合わせてはめられそうな場所が周囲の残骸の数ヶ所に見られた。それらから推測される様子を沙衛門は脳裏に描いてみた。

(どう動く?)

 朧の呼吸が伺える。恐らくは流派に伝わる呼吸法なのだろう。

 そう、彼は誤認してしまった。

 自分に向けて後転して来た朧の、憎悪を隠しもしない眼差しに揺るがぬ視線を返しつつ、スウェイから右へ身を翻し、朧を捉える。

 自身の肩を交互に叩いて様子を見ると、二度、三度とステップを踏んでみせる彼女がそこにいた。

(はめおった)

 それから両手を再びだらりと下げると、朧は歩み寄った。肩慣らしとばかりに、十字龍形横の技法に入った。摺り足で沙衛門は彼女と間合いを計りつつ、下がる。朧のそれは、先程までとは異なり、足の運びはそのままに、いわば手刀で腰から下までをガードしつつ、左右に受け流す様に斜めに振り下ろしながら捌く動きであった。そして、その振るわれる両手には、間違いなく鎌鼬。

 沙衛門はやり方を変えた。朧の手の軌道に沿う様に、網戸状に『霧雨』を随時五十センチ四方程展開しながら、不可視のそれの間合いを計る。倣うより慣れろだ。空気が銀線の網を叩く音が廊下をつんざく。

 そこへルビノワによる援護射撃が改めて開始された。今度は断続的に、ありったけぶち込む。轟音に次ぐ轟音を、軸回転で飛び退き、時にジャブ、フック、ガード、いずれも鎌鼬の奔流を携えた迎撃でそれをいなす。

 沙衛門は彼女に合わせて動くだけで良かった。彼からすればそれは児戯に等しい。

 不意打ちを狙っての沙衛門への攻撃を、引き続き『霧雨』の網戸状同時展開で迎え撃つ。

 いける。そこまで朧を引き摺り下ろせた!

 沙衛門の左足を狙っての下段後ろ回し蹴りをバックステップでかわす。そのまま繰り出される左の裏拳に『霧雨』の展開が障壁となる。沙衛門が中腰で前に出た。指の第二関節までを畳んでの左の貫手を朧の目に放つ。手を着いて後ろに転がりこれを回避、軸回転を止めた朧は逆の中段後ろ回し蹴りを放って来た。ダッキングで紙一重でかわす沙衛門。

 が、そのまま彼女が繰り出す右の裏拳を『霧雨』の展開でいなせたかと思いきや、朧は更に回転しての下段回し蹴り。刹那、一文字に張った『霧雨』を足場にとんぼを切って凌ぎ切ったと読んだ沙衛門の視界には、左の軸足をばねに、飛び蹴りを放つ朧の右大腿部とその靴底があった。後掃腿だ。それすらもどうにか左に首を倒してかわせた彼だったが、更なる彼女の左足による下段からの蹴り上げに、手の甲を外側にしての十字の防御ごと弾き飛ばされた。


(折れてはいない!)

 沙衛門は衝撃の勢いに任せ、猫の如く丸まって着地した。背を向けた朧が目の前にいた。怖気。その沙衛門の顔面を朧のしゃがみ込みながらの横中段蹴りが襲った。何とかそれを横に転がってかわした彼に鎌鼬の追撃。『霧雨』のカウンターが決まったのは僥倖でしかない。右の頬を切り裂かれた。

 そのまますれ違いつつ、沙衛門は前転した。二本の銀光が朧に向かって飛んだ。

 その二本の苦無を叩き落とそうとする朧の背後からルビノワが迫ったが、そちらを見ようともせずに無造作に朧が後ろ殴りの手刀を振るおうとしたその時、聞き慣れた声と共に、片手にウージー9ミリサブマシンガンをぶら下げたもう一人のメイド姿が沙衛門の後ろから現れ、戦闘の緊迫を破った。

「貴方の相手は私ですよ」

 そう言うなりそちらの朧が、もう一人の朧に向かってウージーを片手で構え乱射した。

 3.7キロの銃身を軽々と扱う朧はほぼ確実に本物の朧だろう。

 仰天しつつもそこはそれぞれが地獄を見て来た二人、身を低くしてウージーの射程からルビノワのサムズアップの方向に退避しながら、沙衛門は考えた。


 サブマシンガンは銃弾をばら撒いて弾幕を作る事に特化した銃器だ。その正面に立っていたにも関わらず、銃弾は素手の朧の身体にかすりもしなかった。

 くるくると軸回転し、後を追う様にたなびくフリルのエプロンとロングのスカート。軽やかに射線をかわしながら、ゆっくりと距離を詰めて行く彼女はまるで踊っている様だったがその周りを、千切れた服の布切れが舞う。それが更に舞う花びらの様に彼女を飾っていた。

 素手の朧が笑っている。一見無造作にかわしている様にしか見えなかったが、鎌鼬の奔流を互いにぶつけ合う事で、廊下の天地四方が刻まれ、穿たれて行く。

 素手の朧はそれを楽しんでいる。その姿を見て沙衛門は危うく心を奪われそうになった。何せメイド服はともかく、本体、その、彼女の豊かなボリュームの三つ編みにすら、かする気配を見せない。


 あっという間に25発の弾が出尽くした。空マガジンを床に落とし、二つ目を瞬時に装填すると再び相手の魂を食い尽くすべくウージーが、舞う朧を追った。

 二人は殆ど目の前ですれ違い向かい合い、離れては近付いて絶妙な間合いを計っている。

 朧は幾つマガジンを持っているのだろう。そしてその銃弾が尽きた時、二人はどの様な血の舞いを舞うのだろう。


「今の状態では戦闘に参加出来ません。別ルートから朧の部屋に向かいましょう」

 ルビノワは沙衛門に告げた。

 今の通路の突き当たりを右を曲がり、少し行けば朧の部屋だったのだが、今は近付けない。声をかける事も危なくて出来ない。きっと瞬時にけりが着いてしまうだろう。その結果を想像する事はルビノワには恐ろしくて出来なかった。

 だから出来る事をしたい。るいの事も心配だ。

 その考えに沙衛門は頷き、二人は静かにその場を離れた。




 るいに通信を試みたが応答が無い。インカムを外したのだろうか。

 ルビノワは懐から一枚の地図を出した。沙衛門を見る。

「大丈夫だ。俺はるいが無事でいる事を信じる」

と頷いた。

「私もです」

とルビノワも頷く。信じる以外に何があるというのか。

 朧の部屋の方向を地図で確かめると、ルビノワはその方向の壁に、喩えるなら豆腐一丁程の大きさの、ねずみ色の長方形の塊を貼り付けた。

「ルビノワ殿、それは?」

「壁をぶち抜いて行くんです。その方が早いから」

「それは爆発するなのか?」

「そうです。でも使うとは思いませんでした。これが済んだら朧に謝らないと」

 沙衛門は目を丸くした。


 朧の部屋の壁が派手に吹き飛んだ。彼らの記憶した通り、廊下沿いの壁際にベッドを配置するほど、朧は愚かではなかった事が、内部の様子で再確認出来た。

 騒音と埃が舞う中、沙衛門とルビノワは壁の残骸を乗り越え、るいの姿を探す。

 果たして彼女は、朧が普段使用するベッドの上に倒れていた。沙衛門が飛び付き軽く揺する。

「るい。しっかりしろ。るい!」

 どうやら気を失っているだけの様だ。しかし何があったのだろう。ルビノワは傍に寄った。

「一寸失礼。見せて頂けますか?」

 そう言って彼女を素早く調べ始めた。気絶と言うよりは何かで眠らされた様だ。

 クロロフォルムだろうか。頬を軽く叩くとるいが

「うう……」

と言いながら目を醒ました。 沙衛門が支えて起き上がらせた。沙衛門とルビノワの手を取って彼女は力なく告げた。

「……朧ちゃんは? 彼女はどこですか?」

「今向こうで交戦中です。

 あなたに怪我は?」

「何も。

 私は何やら変な物を染み込ませた布を嗅がされて、眠らされてしまいました。申し訳ありません」

「何を言うんですか。無事で良かったですよ。

 沙衛門さんも心配していたんですから」

「るい、済まんが再会の祝福は後だ。

 何があった?」

「今、あの二人は戦闘中だと言いましたね」

「ええ」

「なら止めて下さい。あの二人はどちらも本物なんです!」




 二人が争っている方へ三人は走っていた。

 即刻争いを止めなくてはいけない。ルビノワは先ほどのるいとの話を反芻していた。




「どういう事ですか?」

「この屋敷には妙な力が働いている事はご存知ですね?」

 ルビノワは頷いた。

「あの二人は元々一人なんです。

 朧ちゃんはこの場所に入って二つに分かれたそうなのです。つまりは、どちらも本当の朧ちゃんです。

 ただ、私達の前で日頃元気に振舞っている彼女は、昔の彼の事を無理に忘れようとしている。それで切り離されたのが、私と一緒にいた朧ちゃんだそうなんです。

『辛い思い出だけを背負わされて皆の前にも出られず、いつもひとりぼっち。とても苦しい』

と言ってました。

 可哀想な子なんです。だから止めさせて」




 そう、るいは言った。

 一概には信用出来ない話だが、この朧スペースなら有りうる。そういう場所だ。

 ルビノワはこの場所を滅茶苦茶に破壊したくなった。


 何時の間にか銃弾は切れた様で、空を切る音だけが進行方向からしていた。

 たまらずルビノワは叫んだ。

「もう止めて! あなた達は二人で一人なのよ!!」


 その次の瞬間、ばしっ、と濡れた布で叩いた様な音がルビノワ達の耳に届いた―




 角を曲がってルビノワ達が見たのは倒れた朧を抱き起こす朧の姿だった。

 抱き起こされている方は右肩から袈裟懸けに切り裂かれ、見た目からしてもう駄目だった。助からない。

「ああ……!」

 愕然としながらるいが声を漏らし、縋り付かれたルビノワがそれを支えつつも、自身も震えているのを感じ取った。

 弱々しく、抱き起こされている朧が口を開いた。

「これで、楽になれる……あたしも、あなたも……」

「何故こんな事を……」

「だって一人ぼっちはもう嫌だよ……。

 皆の前に出ても自分だと気が付いてもらえない。皆が知っているのは……こっちの私だけ」

 そう言って彼女は自分を黙って見つめている朧の頬に血濡れの右手を這わせた。

「私は私で……この子じゃない。それなのに皆で

『朧、朧』

って。

 本人は私の事に気が付かない。何故だかあなたの前には今まで出られなかった。

……暗い廊下で私はいつも一人で考えた。そして結論が出た。

『私はあなたの忘れてしまいたい辛い思い出だけを抱えた分身なんだ』

って。

『だから何時も辛い気分なんだ』

って」

 抱き起こしている朧の顔から、血の気が引いて行った。

 抱えられる朧が続ける。

「だから、多分、あなたの前にだけは出られなかったのよ。

 あなたが思い出を昇華しようとしないから。

 あなたが私を受け入れようとしないから。

 皆とあなたが楽しそうにしている間、私はいつもドアの隙間からそれを眺めていた。泣きながら。

 私も、混ぜて欲しかった。あなたの影でもいいから、皆と楽しく話したかった。

 でももうそれもおしまい。

 私が死ねばあなたの辛い思い出も一緒に持って行ける。

 あなたはもう今まで程には苦しまずに済む。その代わり、心のどこかに何かを失った感じが残るのよ。

 ざまあみろだわ」

「ごめんなさい……」

 抱きかかえている方の朧は、ボロボロと涙を流しながら口を開いた。

 るいの双眸からも涙が零れ落ちる。


 ルビノワと沙衛門は、苦痛を堪える様な表情で、見届ける事しか出来なかった。




「私はそれでいい。今は凄く清々しい気分。

 だって全く気が付いてもらえないで寂しく思う人生に比べたら、例え憎まれてでも記憶に残っている方が

『私はここにいたんだ』

って思える。誰かの心の中に抱いていてもらえる。

 廊下の隅で丸くなって眠る寂しさに比べたら、それはどれほど暖かいか。

 それが欲しくて、私はあなた達の罠に自分から飛び込んだのよ。

『もう何も要らないから、何も望まないから、神様、いるのだとしたなら、どうか、どうか、私にそれを、それだけを下さい』

って祈ってね。そうして今、私はそれを手に入れようとしている。

 この痛みも、それまでの時間待ちのドキドキした苛立ちの様なものだと思えばどうって事無いわ」

 抱える朧が訊ねた。

「……私に何かそれまで出来る事は?」

「そうね……ならそれまで抱きしめていてよ。

 それくらい、いいでしょう?」

 朧は彼女を優しく抱きしめた。

 彼女の髪に頬ずりし、頭を何度も撫でた。

 何度も……優しく。

 抱えられた朧が瞳を閉じ、告げた。

「……ああ、暖かいなあ……こんなのは本当に久しぶり。

 だって何だか寒いもの。こんなのは傭兵をやっていた頃の入院生活以来だわ。

 あなたも覚えているでしょう? 冬で寒かった夜の事とか」

「覚えていますよ。

 本当に寒くて

『このまま死んでしまうのかな』

と思ったら寂しくなって泣いちゃったりして」

「ふふふ……そうね。

 点滴を打たれながらベッドの中で縮こまって。でも何だかその冷たさが心地よくもあったっけ……。

 ああ……何だか暗いわね……ねえ、そこにいる?」

「いますよ。

 ちゃんとここにいますよ」

 朧は泣きながら微笑し、優しく呟いた。

 その途端、彼女の胸に抱かれた朧が苦しげに震え出した。

「ね、ねえっ。

 わた、私がっ……私が、わた、しが、死んだら、さっ!」

「大丈夫。聞こえていますよ」

 そう言って上がる彼女の手を優しく、力強く、朧は握った。

「あ、あのっ、ゆ、幽冥牢屋敷っ、屋敷のっ、ひっ、日当たりのいっ、いいっ、所にっ、おはっ、お墓をっ、建ててっ、ちょ、頂戴っ!」

「ええ、必ず」

「うううううっ、寒いようっ! 寒いのはもう嫌ぁ……っ!!」

 口の端から血を流しながら、朧は泣き叫んだ。

「ああ……!」

 それを眉間に深くしわを刻みながら、朧は抱きしめた。

 しゃくりあげながら抱きしめる事しか出来なかった。




……しばらくして、彼女の震えがおさまった。

 真っ白い顔で、彼女は口を開いた。

「騒がせた、わね。もう、平気。

 いい?良く聞いて?

 彼の事はもう忘れなさい。こういう事になるのを彼だってきっと望んじゃいないわ。

 だからもし

『自分があの時』

とか思う事があったら、私の事を思い出す様にしてよ。

 初めは連動して、彼の事も思い出す様になるでしょうけど、すぐにそんな事は無くなる。

 私の事だけを覚えている様に、きっとなれる。

 だからそうなって頂戴。

 それなら私もあなたを陰ながら支える事が出来る。あなたの悩みの相談にも乗ってあげられる。

 あなたの事を良く知っているのはあなたの周りの人達だけじゃない。

 だからせめてそれくらいの場所を、私にも開けておいてよ」

 抱く朧の双眸が見開かれる。

「私を……助けてくれるの?」

「助けは、多い方がいい、でしょう?

 全く……自分が、は、傍から見てて、こんなに目も当て、当てられない奴とは思わなかったわ。いい反省、材料なのよ、私達は……お互いに。

 そゆ、事で……」

「……ちょっと?」




……もう喋らなかった。




 さっき初めて会ったもう一人の自分。それは静かに薄くなり、消えて行った。

 もう何の重みも無かった。




 彼女の顔を思い出してみる。

 思い出せる。

 彼の顔を思い出してみる。




……思い出せない。

 見事にかき消されていた。輪郭さえ浮かばない。




(……助けてくれたんだね。

 ありがとう、そして……さよなら)




 朧は最早、『彼女』が決して、一人、凍えながら立ち尽くす事はない、闇の奥へ続く廊下を見やると、そう心の中で呟いた。




 幽冥牢が事情を知らされ、その数日後。

 ささやかながら、幽冥牢、朧、ルビノワ、るい、沙衛門の五人だけで彼女の葬式を行った。

 屋敷の敷地の外れに、広大な草原があったのだ。そこは日当たりも良く、『彼女』のリクエストには持って来いだろう。

 それぞれがはなむけの品を棺に入れてやった。朧は自分の一番のお気に入りのメイド服を入れた。




 昼過ぎにそれは終わり、

(屋敷に帰るか……)

と幽冥牢が歩き出そうとすると、その袖を喪服姿の朧がちょい、とつまんだ。

「はい?」

「ちょっと戻る事になるんですけれど、お話が。付き合って下さい」

「あ、うん。OK。

 皆、ちょっと戻ってておくれな」

「主殿、朧ちゃん、どうかゆっくりして来て下さい」

 ここ数日、『彼女』の事で取り乱す事が続いており、今日もまだ目が赤いるいが穏やかに告げた。

 ルビノワ達に少し切なげな微笑を向け、朧は、また別の屋敷の外れの、小高い丘の方へ幽冥牢をいざなった。

 その二人の後ろ姿を、ルビノワが優しく微笑しながら見つめていた。




 暖かいと言うより、暑い。そんなその年の春。風が二人を撫でていた。

 先ほど形だけではあったが、埋葬を終えた『彼女』の墓の前である。

「日当たりの良さはバッチリだねえ。ここならきっと満足してくれるんじゃないのかな。『彼女』も」

「そうですねえ。今日は気持ちのいい風が吹いていますから、良く寝られますよ、きっと」

「うん……そうだ。ねえ、朧さん」

「何ですか? ご主人様」

「提案として少し日付的に問題があるかなとは思うんですけど」

「言ってみて下さいよう」

「『彼女』の命日には、皆でここにハイキングに来るというのはどうですか? 皆で『彼女』を囲んで楽しく弁当を食べるんです。

 そういうのを考えたんですが、どうかな、と」

 現場に立てず、事情にうろたえ、幽冥牢なりに激動の数日だった。その上での提案だったのだが、それを聞いて、それまでどこかぼんやりしていた朧の瞳が、ゆっくりと、喜びに見開かれた。

「大賛成ですよう!」

 所在なさげにだらりと下げていた幽冥牢の手を取り、ぶんぶんと振る。揺られながら、幽冥牢も笑顔を浮かべ、告げた。

「後でみんなにも話してみましょう」

「じゃあ私はその日の為に、腕によりをかけて美味しいお弁当をご用意しますねえ。楽しみだなあ。

……あなたもそう思うでしょう?」

 くるりと『彼女』の眠る方へ振り返り、優しく微笑しながら朧は訊ねた。




 優しい風の吹く、暖かい昼下がり。

 その風の中に『彼女』の楽しそうな笑い声が聞こえた様な……そんな気が、朧にはした。

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