第62話 雨になる


 良かった、外の見張り兵はいない。きっと魔術師塔から私を戻すところを見られたくなくて、人払いしたのね。戻って来るときにも誰も見かけなかったもの。


 暗い夜の小道を、ラスティのいる薬草園目指して歩きながら、視線を上向けた。月が浮いている。誰も来ないよう見張っていて。秘密を守護する月の女神に祈り、視線を地面に下ろした。


「い……っ」


 月の光のおかげで周りはいくらか見えた。けれど、部屋に見当たらない靴を探す手間を惜しんで裸足で出てきたので、小石を踏むたび足裏が痛んだ。雪こそなかったけれど、地面は冷たくそれも辛い。


 ふらふらとおぼつかない足どりで必死に歩いた。息はすぐにあがった。時折立ち止まって呼吸を整えながら、少しずつ前に進む。早く、契約書をラスティに。アリアルスを守るのよ。


 大丈夫、あと、少し。ほらもう、塀が見えてきた。


 薬草園に入る背の低い木の扉を押すと、キィ、と小さく鳴った。その音を聞いた途端、なぜか無性に泣きたくなる。ラスティ、いるかしら。


 薬草の香りが濃厚に漂っていた。奥に向かうごと踏みしめる土が温かくなっていく。ここだけ夏のシファードみたい。ラスティの魔力だわ、心地いい。体に熱が伝わって脚を動かす力になる。

 彼の使う小屋が見えてきた。木戸はぴったりと閉じられていて暗い。


 ところどころ朽ちた古びた階段に足をかけると、木が軋んで音を鳴らす。手すりに肘をかけ体を預けながら、一段ずつゆっくりと昇った。気持ちばかりはやる。

 その時だった。あと少しのところに迫った入り口の扉、その向こうから、低い獣のうなり声がしはじめた。足を止める。


 反射的に振り返って背後を見たけれど、なにもない。月あかりに照らされた薬草が、風に吹かれ揺れているだけ。恐ろしいものなどなにも。

 

 ではこの声は、私に向けられているの。ジーン、私よ。そんな声を出さないで。悲しみが滲んで心に染みをつくった。


「誰だ」


 扉の向こうからもうひとつ硬い声が上がる。どきりとした。聞きたかった声なのに、警戒心のあらわなものだったから。


「……ラスティ……」


 名を呼ぶ声が震える。

 再び声がするより先に、ジーンのうなり声がやんだ。すぐに鍵を開ける音がして、扉が軋む音をたてて開いた。


「ラスティ」


 魔術師のローブを着た彼の驚いた顔を目にして、走って胸に飛び込みたい気持ちで一杯になる。でも体は思うように動かなくて、また一段階段を上がるのがやっと。


「どうした」


 扉のすぐ外の、屋根付きの露台部分に出てきたラスティは、私の背後に素早く視線を走らせてから私を見下ろした。その彼の顔色が変わったのが、月明かりの下はっきりと見えた。手が見えたのかしら、それとも頬が腫れている? ずっと鏡も見ていなくて、自分がどんな姿なのかわからない。


「お願いがあるの」


 でも、自分の姿なんてもうどうでもいいわ、胸にしまった契約書、これを彼に渡せれば。襟の隙間から指をいれ、筒状に丸めた羊皮紙を取り出した。私ここから出したものばかり彼に渡してる。そう思うと少し面白かったけれど、笑う力は残っていなかった。


「これを、お父さまに渡して……あなたしか、頼れなくて」


 黒く変わった指でそっと持ち差し出すと、彼は羊皮紙をひったくって取り、開いた。月の光を受けながら視線を落とし、眉根を寄せた彼は、数秒後無言のまま、ほんの小さな白い光を手元に出した。

 細い蝋燭より小さなあかりだったけれど、彼の顔が照らされここからも見える。赤銅色の目と髪。会いたかった。文字を追う彼の顔をじっと見つめていると、これで妹を守れるのだとほっとして、体から力が抜けた。

 がくりと膝が折れる。手すりに手を掛けようとして、すんでのところでとどまった。手すりが黒く変われば私がここに来たと知られてしまう。

 

「イルメルサ!」


 階段の途中で座り込んだ私の名を、ラスティが呼んだ。気が付くとラスティが私のすぐ横で屈み、顔を覗き込んでいた。気遣う視線。背中には温かい彼の手のひらの熱を感じる。


「大丈夫。もう、戻らないと。それ、お願い、きっとよ」


 声を出すのも気力が必要で、やっとのことでそう言って息を一つ吐いた。


「どう戻るというんだ、中に入れ。人目に付くと厄介だ」


 中なんて駄目よ。部屋に人が来る前に戻らないといけないの。そう言いたかったのに、ラスティは私の返事を待たなかった。

 彼のともした明かりが消える。素早く私を横抱きにしたラスティは立ち上がると、足音も立てずに小屋に入った。扉を閉める時、ほんの微かに木の軋む音がしただけ。


 次の瞬間には私は彼の腕に抱かれたまま、彼の小屋の中にいた。真っ暗でなにも見えない。けれどラスティは迷いなく、奥に向かって進んで行く。


「エーメが、癒し手を、呼ぶ、って……戻らせて、騒ぎに」

「戻る必要はない」

「でも、あ」


 ラスティが突然、触れているところから魔力を与えてきたので、それ以上なにも言えなくなってしまった。温かくて心地いい。凍えた大地に柔らかな陽の光が差したみたい。今これを拒否するなんて、できない。


「ここにいてくれ」


 ラスティはそうささやくと、私を腕に抱いたままどこかに腰掛けた。部屋の中は真っ暗でなにも見えなかったけれど、音でわかる。寝台に腰掛けたんだわ。

 いてくれ、なんて言われたら甘えてしまう。自分の弱さが恥ずかしい。少しだけよ、ほんのしばらくだけ。ひとりで立ち上がる力が回復するまで。


「手をどうした」


 彼の膝の上に座り、肩に頭を預け黙って彼の魔力を受け取っていると、そんな言葉が降ってきた。手、やっぱり見られていたのね。


「とても頭にくることがあって……そうしたら急に指先から、真っ黒に変わっていったの」


 ラスティの魔力は絶え間なく私の中に流し込まれ続けていた。手はまだ黒いままなのかしら。暗くてみえない。でも光のもとでは、こんな風にラスティの腕の中にはいられない、そんな気がした。


「そうか」


 ラスティが言ったのはそれだけだった。言葉の代わりみたいに、私の体に軽く回されていた彼の腕が動いた。彼の左手が、私の右の二の腕から肘……滑るように降りてくる。手に触れるつもり。気が付いて体が強張った。指先の痺れが強くなる。


「駄目よ触らないで、危ないわ。強く触れたものは土みたいに崩れていくの」


 ぐるる、部屋の反対の暗闇からジーンが唸る声がした。


「平気だ」


 ラスティの手が手首の辺りに触れた時、ひりつく痛みに襲われた。痛い。火傷を負ったのを忘れていた。小さな呻き声がもれ、ラスティの動きが躊躇いがちに止まる。


「痛むのか」

「バルバロスさまの魔力で焼けたところがあって」

「焼けた?」


 怒気を含んだ声と共に、突然宙に光が浮かんだ。眩しい。一瞬目を細め、また開く。思いがけず近くにラスティの顔があって動揺した。見えるとやっぱり、恥ずかしくて落ち着かない。

 でもラスティはそんな風に思っていないのか、私の手をそっと持ち上げると目を細め、検分するように凝視した。

 彼の与えてくれた魔力のおかげで、黒い部分は手のひらの中程あたりまで後退していた。白く戻った私の腕の中程の、赤く焼けた部分がひどく目立つ。


「腕だけか」


 言うが早いかラスティの手のひらで傷が覆い隠される。いけない。その手を避け首を横に振った。


「治さないで。火傷が消えていたら怪しまれる」

「頬も腫れている。ぶたれたのか、バルバロスに?」


 私の懇願を無視して問われ、言葉に詰まった。ラスティの目の奥に静かに揺れている怒りに、喜びと不安を同時に呼び起こされた。


「すまない、そばにいればこんな目には……俺がお前を庇いすぎていると見咎めた魔術師がいたんだ。怪しまれぬため距離を取っていた」


 毎晩フラニードといたことを言っているのだとすぐにわかった。弁解してくれて嬉しい。気にかけてくれていた証拠みたいで。ずっと胸の中で燻っていたいたもやもやした暗い思いが、ひと吹きで消え去った。


「平気よ、ラスティ。もう、大丈夫」


 体をひねって、ラスティの腕の中から逃れ立ち上がった。満たされていた温もりが消えて寂しかったけれど、その気持ちを誤魔化し笑ってみせる。


「私のことはもういいから、それをシファードに届けて……ありがとう、今まであなたがいてくれてとても、とても心強かった」


 断ち切る。森を抜ける時に。彼の訪ねて来てくれたあの夜にも。もう何度もしてきたことをもう一度やった。

 ラスティは寝台に腰掛けたまま、どこか呆然として言葉をなくしているように見えた。立ち去ろうと彼に背を向ける。


「……諦めるのか」

「諦めるのじゃないわ、望みが叶うのだもの」


 アリアルスも、シファードの領民たちの生活も守られる。心からの望みだったはずなのに、口にした言葉はどこか虚に響いた。


「領主の娘としてやっと役に立てる」


 自分を納得させるため言葉を足す。それでもまだ、心を示すには足りなかった。


「死ぬことが? 二度と故郷に戻れないんだぞ、ここの土の下に永久に留めおかれる。俺は……おれはいやだ、お前が……」


 ぎし、寝台の軋む音がした。大きな黒い影がひとつ伸びてきて、私の影と重なった。ラスティが後ろに立っている。

 やめてラスティ、なにも言わないで。私を惑わせないで。


「自由になりたいの」


 ぎゅうと目を閉じて声を絞り出した。ああそうだ、私の真実本当の気持ちはここにあったのか。


「やるべきことを捨てて逃げても囚われたままになるわ。私、自由になりたいの。鳥みたいに、雲や風みたいに」


 そこまで言って振り返る。今ならラスティの顔が見られる。ラスティは私を見ていた。厳しい顔をした優しい魔術師。あなたのことが好きだった。


「死んだら雨になる。そうして戻ってくるから」


 雨になれば好きなところに落ちて行ける。シファードにも、ラスティの庭にも。彼の頬や唇にでも。


「また会えるわ」

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