第27話 ガウディールの庭
夜のうちにアリアルスに初めての手紙を書いてみた。ガウディールの山並み、窓辺にくる小鳥たち、雪の残る中赤い実をつける茂みと、雪の上に残るちいさなリスの足跡。そんな他愛もない毎日の様子を綴り、庭で摘んだ花の、薄い紫色の花弁を添えた。
「これをシファードに」
朝、水差しを持った召し使いを従えたいつもの女に手紙を見せると、彼女は訝しげにそれを見た。
「どなたに」
「シファードにいる妹に。寂しがっているだろうから」
嘘よ。本当は寂しいのは、私。幽霊だと笑われてからは庭に出るのも億劫で、ここ二日ほぼ部屋の中で過ごしている。疲れないおかげで体調はいいけれど、心はなにもしていないのに疲弊していく。
窓から覗く空もが毎日毎日どんよりとした重い曇り空で、私の気を滅入らせる手伝いに余念がない。
「お預りいたします」
「今日も曇りね、ガウディールには晴れる日はないの?」
「この時期は仕方ありません。バルバロスさまの魔力をもってしても、天候は動かせません」
「そう」
ラスティなら出来るかしら。
「今日はどのようにお過ごしに?」
「そうね」
服を着せてもらいながら考える。今日はどうしようかしら。
「城下の町には行けて?」
父と騎乗して通り過ぎただけだ。少し興味があったから言ってはみたけれど、聞く前から断られるのはわかっている。
「それは難しいかと。なぜ、町へ?」
ほらね。
「別に。城の中は、あちらもこちらも行くなと言われている場所ばかりだもの、町なら好きに歩かせてもらえるかと思っただけ……ところで」
屈んで服のひだを寄せている女を見下ろして言葉を続ける。
「あなたは私の侍女ではないのよね?」
「はい」
「私に侍女はつけてもらえないの? 結婚式のあとになるのかしら」
「恐れながらイルメルサさま、身分の釣り合う娘がなかなか見つからず。オースン司祭の姪をディラの修道院から向かわせているところでございます」
淀みなく答えられ、それが用意されていた言葉だとわかる。次のガウディールの女主人の侍女のなり手がいないとは思えない。私だから見つからないのだろう。動く死人と噂されている私の侍女になるなんて、良家の子女が望むとは思えないもの。
「そう」
遠方の修道院からここに向かっている女性の気持ちを考えると、少しだけ申し訳ない気持ちがする。なんとなく嫌だから、だけで部屋にこもっている自分が恥ずかしくなって、ぽつりと言葉をもらした。
「今日は庭に出るわ。お茶を外に持ってこさせて」
「かしこまりました。そう階下のものたちに伝えておきます」
部屋はまた静寂に包まれた。静かだわ。召使いたちのお喋りなど、一言も耳に入らない。みな、どこで話しているのかしら。
「少ししたら下へ行くわ。お前はお下がり、もうひとりでゆけるから」
私の言葉に女は頷いて、渡した手紙を手に部屋を出て行った。その背中を見つめながら、息をひとつついた。
ほうって置かれているようで、その実毎日の行動は制限されていて窮屈だ。ひとりで出歩ける場所は限られている。この棟の一階の隅にある小さな図書室。棟の脇にある、壁で囲われた小さな庭、そのくらい。
城壁や騎士たちの訓練場、魔術師の集う塔の方へ行こうとすると、どこからか召使いがあらわれて、やんわりと戻される。会いたいわけではなかったけれど、試しにバルバロスさまにお会いしたいと言ってみたときには、伺ってまいります、と下がったきりその召使いは姿を見せなくなった。断られたか、会ってももらえなかったかというところね。
今日は隙を見て、庭の奥の方へ行ってみよう。どこかから私をずっと見張っているのか、来て欲しくない場所にあらわれた時だけ注意されているのかを知りたい。幸い私は、気配を消すのは得意なのだ。
深緑のマントを羽織り足音を潜めて部屋を出て、静かに一階に移動した。廊下は暗く、使っている部屋から離れるとすぐに息が白くなり始めた。
表に出たところに若い兵士がひとり立っているときもあるけれど、今日はどうだろう。下について、外に出る扉を引いて開けると、扉は床に擦れざりざりと音を立てた。開いた細い隙間に体をねじ込んで表に出ると、今日は兵士はおらず、外に人影はなかった。ほっとする。
少し歩いて、庭に入る木の扉を押して中に入った。宿泊する来客用に作られた場所で、小さいけれど美しい。人工の池があり、溶け残った薄い氷が浮かんでいた。中の小径を進むとすぐに城壁にぶつかるけれど、ただ高い壁が続くばかりで、入り口も胸壁に続く階段も見当たらない。
城壁で影になっているところに、雪が残っている。近づいて足で触れると、ざくざくとかたい音がした。アリアルスが見たら喜びそうだわ。
それにしても、いくら美しいとはいえ代わり映えのしないまだ冬の庭で、ひとりで過ごすというのはすぐ飽きる。ジーンがいれば慰めになるだろうに。ふとそう思った時だった。どこかで犬がひと鳴きした。その声が城壁にぶつかって大きく響き、私を驚かせる。
ジーン。
そんなはずはないのに一度そう思ってしまうと、急に恐ろしいほどの孤独感に襲われた。城のどこかに狩猟用の犬がいるのだろう、初めの声に呼応して、複数の犬の声があたりに響きはじめた。
手が震えた。心臓の鼓動が速くなり、息があがる。寂しい、怖い。私はどうなるの。ずっとこうやって、死ぬまでここに捨て置かれるのだったら、どうしよう。少し前まで、ラスティの庭であんなに自由だったのに。あそこに帰りたい。蝶になって、鳥になって、飛んで行けたらいいのに。
「イルメルサさま」
茂みの向こうから女性の声がした。お茶を持ってくるよう命じていたのを思い出す。背筋を伸ばし、ぐっ、とお腹に力を入れて声を出した。
「ここにいます」
「お茶をお持ちいたしました」
「長椅子に運んでおいて」
「かしこまりました」
声の主が離れていく気配がする。大きく息をついて気持ちを整えてから、小径を戻る。今は茶色のとげだけをみせている薔薇の茂みをいくつも通り過ぎた。初夏には美しく咲くだろう。
人工池の脇の長椅子のところに、男女一人ずつ、二人の召使いがいてお茶を用意してくれていた。何度か見た顔だけれど、話したことはない。
「随分と犬が騒いでいたけれど」
組み立て式の小さな机を出している男の召使いに話しかけると、その肩がびくりと震えた。まさか私が話しかけてくるとは思っていなかったのか。
「バルバロスさまとガイルさまが、これから狩猟に行かれると聞いております」
「そう、その準備なのね。狩り場はどちら?」
「城の裏の山を進んだ奥にある谷に、鹿がおります」
言われ、城近く続く山の岩肌を見上げた。確かに鹿のいそうな山ね。ともかく、これからあの親子と騎士や兵士はいくらか出かけてくれる。城の中を出歩きやすいかもしれない。
「鹿ね」
熊はいないのかしら。今年は熊が多いと、盗賊の市で男が話していた。ふ、と、熊の皮を頭から被ったラスティの姿を思い出した。
「鹿がお好きで?」
「え?」
組み立てられた机でお茶を注ぎながら、召使いの女が恐る恐る聞いてきた。顔をあげ女を見ると、彼女はさっと視線をそらしながらも答える。
「笑っておいでだったので」
「ああ、そうね……好きよ」
渡されたお茶は、香草を山羊の乳で煮出したもの。北方の蛮族の飲み方だそうだけれど、ここに来て気に入ったもののひとつだ。一口飲むと、少し癖があるけれど、うっすらと甘い味が口に広がる。
細い湯気を上げるお茶を手に持って、しばらく池の氷を眺めていた。池に映る姿で、二人を下げていなかったのを思い出した。
「下がっていいわ、部屋にはひとりで戻ります」
「かしこまりました」
命じると、あからさまにほっとした顔をした二人が、膝を曲げ挨拶をしてすぐにそそくさと庭を出て行く。そんなに嫌かしらね、私といるのは。
しばらくそうして座っていたら、犬たちの声が移動し始めた。出かけたのだわ。いつもの静寂が戻って少ししてから、立ち上がってそっと庭を出た。
◆◆◆
「厳しい二人がいないでくれると、気楽だね」
「しっ、女中頭は残ってるんだよ、お喋りはやめときな……」
いつもは静かな城の通路から、召使いたちのお喋りの声が聞こえてくる。普段はおふたりが恐ろしくて口を噤んでいるのね。
「ああ、他に働き口はないもんかね。ただでさえ、領主が厳しくて大変だというのに、シファードの行き遅れが女主人におさまるなんて」
「やめときなって、どこで誰が聞いてるかわかりゃしないよ」
裏口から忍んで入った城の中で床をみがく召使いの口から自分の陰口を聞いて、私はようやく少しほっとした。よそよそしい態度で黙って怯えられているよりましだもの。
「あんたもそう思ってるだろ? あたしゃ一回あっちの棟に行ってんだよ、青白い顔でふらふら歩いてるのを見たときには心臓が止まるかと思ったね。足音も、生きた人間の気配もしないんだから」
「やめなって」
陰口を聞かされている方の女は、しきりにまわりを気にしている。女中頭が怖いのだろう。まあ、女中頭というのは恐ろしいものだものね。
まだ続く女の愚痴を背中に、今まで近づけなかった魔術師たちのいる棟の方へ足を向けた。今日は明らかに警備が手薄で、あちこち行けそう。
薬草の生えた庭があるといいのだけれど。もしあれば、そこではラスティの庭にいたときみたいに気分がよくなれるかもしれないから。
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