追われる獣

 大量の朝採り野菜が詰まった大籠を腕に抱え、ゼノは石畳みの道を歩いていた。


 仕入れの手伝いでダニエルと市場に行きはしたものの、人混みが大の苦手だったゼノは、馴染みの店主に長々と最近の繁盛ぶりを自慢するダニエルには付き合っていられなかった。

 昨夜から『羊の安らぎ亭』には宿の客室が足りないほどの宿泊客がいる。ヴァネッサとマリアンルージュの二人だけではとてもではないが手が足りないだろう。一刻も早く宿に戻るべきだ。

 そう考えて、ダニエルを市場に残して帰ってきたのだ。


 市場の賑わいとは対照的な静けさの中、坂道を登りきる。朝市へ出掛ける前となんら変わることなく、『羊の安らぎ亭』は道の端に静かに佇んでいた。

 すでに宿泊客も起床していることを考慮し、店の裏手に回り込むと、ゼノは勝手口から厨房の中を覗き込んだ。


 厨房はもぬけの殻だった。火のないかまどには手付かずのままの大鍋が置かれており、調理台の上に置かれた鉄板の上には冷めたマフィンが並んでいた。

 不気味な静けさに眉を顰める。大籠を足元に下ろし、敷居を潜り抜けると、ゼノは食堂へと足を踏み入れた。


 食堂内に宿泊客の姿はなかった。人気のない広間の片隅に置かれた丸テーブルに、頬杖をつき、ひとり物思いに耽るヴァネッサの姿があった。


「女将さん、何かあったんですか?」


 ゼノが声をかけると、ヴァネッサははっと顔を上げた。


「ああ、あんたか。お帰り。なんだかねぇ、みんな朝食も取らずにさっさと出て行っちまったんだよ」


 そう言って首を傾げ、ヴァネッサは納得がいかない様子で大きく溜め息を吐いた。


「憲兵隊が、ですか?」


 怪訝な表情でゼノが訊ねる。

 朝食も摂らずに憲兵隊が動き出す理由があるとすれば、遂行中の任務に関して何かしらの進展があったと考えるのが無難だろう。行方を眩ませた盗賊の残党とやらの手掛かりがみつかったのだろうか。

 憲兵隊の急な動きに疑問を抱きながら、ゼノは食堂内を見回した。


「それで、マリアは部屋に戻ったんですか?」

「それがねぇ、なんか血相変えて飛び出して行っちまったんだよ」


 ゼノの問いに答え、ヴァネッサが項垂れて深い溜め息を吐いく。

 ふたたびヴァネッサが顔を上げたときには、ゼノはすでに広間から姿を消していた。



 床板を蹴るように勢いよく階段を駆け上がる。廊下の突き当たりまで直行し、ゼノは自室の扉を開け放った。

 呑気にソファで寛いでいたリュックが顔を上げ、血眼ちまなこになって部屋の中を見回すゼノに驚いて声を掛けた。


「お、おかえり。どうかしたのか?」

「マ……レティシアは? 彼女は今、どこにいますか?」

「レティなら、マリアと厨房に行ったっきり――」


 最後まで言い終える前に、リュックが勢い良くソファから立ち上がる。みるみるうちに、その顔色が青褪めた。


 盗賊を討伐憲兵隊。

 焼き討たれた人狼の村。

 人間に対し異常に怯えるレティシア。

 血相を変えて飛び出して行ったマリアンルージュ。


 何故、気が付かなかったのか。

 嫌な予感はこれだったのだ。


 ゼノとリュックは顔を見合わせると、競うように廊下へ飛び出した。呼び止めるヴァネッサの声に応えもせずに、食堂を駆け抜けて扉をくぐる。

 石畳の道路は、朝市から帰ってきた街の住人で溢れていた。


「レティのはわかりますね!?」

「当然だろ!」


 焦り混じりの強い口調でそう言い放ち、リュックが人混みの向こう――細長い路地へと向かって駆け出した。

 今、頼りになるのは、リュックの嗅覚だけだ。

 己の無力さにぎりと奥歯を噛みしめる。行き交う人のあいだを縫うように走るリュックを追って、ゼノは人混みの中へと飛び込んだ。



***



 街の人間に見捨てられた鉱山の跡地に、甲高い金属音が響き渡る。廃坑を封鎖していた鉄の錠が真っ二つに割れて弾け飛び、乾いた土の上に転がった。

 錆び付いた音を立てる鉄格子の扉を引き開けると、マリアンルージュは後方を振り返り、レティシアを手招いた。

 今朝の入浴のとき、マリアンルージュが人間ではないことを知らされていたとはいえ、まさか素手で鉄の錠を破壊するとは思ってもみなかった。

 呆然とするレティシアを余所に、マリアンルージュは洞穴を満たす闇の中へと降りていく。その姿が闇に呑まれて消える前に、レティシアは慌てて後を追った。


 頭上から降り注ぐ陽の光が、洞穴の壁面を照らしていた。傾斜の険しい岩肌に階段代わりに打ち付けられた腐りかけの板の上を、ふたりは恐る恐る降りていった。

 灯りのない暗がりで不安に駆られたレティシアが、先を行くマリアンルージュの服の端を握り締める。それに気付いたマリアンルージュは、はぐれないようにとレティシアの手を取った。

 降り立った穴の底は、ふたりが想像していた暗闇に支配された世界ではなく、緑がかった薄明かりに照らされた不思議な空間になっていた。


光苔ひかりごけだ。考え無しに降りてきてしまったけど、助かったね」


 そう言ってレティシアを振り返り、マリアンルージュはほっと息を吐いてみせた。


 頭上に張られた木の板からぶらさがる、点々と連なる壊れた旧式の照明器具の下を、ふたりは奥へ奥へと進んでいった。廃坑の通路は思っていたよりも広く、壁際に敷かれたレールの上には、土でいっぱいになったトロッコが停まっていた。

 無造作に放り出されたつるはしやシャベルに足を取られないよう気をつけながら、追手が迫ることを考えて、ふたりは足を速めた。

 薄緑色に不気味に照らされた通路は、奥に進むにつれて幾つかの道に枝分かれしていた。


「レティ、花を咲かせることはできる? 元来た道がわかるように、目印を残しておいて欲しいんだ」


 初めの分岐路に差し掛かったとき、マリアンルージュがレティシアに言った。レティシアはこくりと頷くと、岩肌に近付いて手をかざし、通路の片隅に月雫の花を一輪咲かせた。

 月雫の花は切り立った崖の上に咲く貴重な花で、一年のあいだ月の光を浴びて、収穫の季節の夜にだけ花を咲かせる。珍しい花であるが故に、道標には最適だった。

 道が枝分かれするたびに目印に花を残して、ふたりは洞窟の奥へと進んでいった。


 何度目かの分岐路を越えたところで、レティシアの耳がぴくりと動く。かなり距離はあるが、元来た道のほうから数人の足音と話し声が聞こえる。

 レティシアは足を止め、暗闇に耳を澄ませた。追手の数は三人――廃坑の外で察知したときのままだ。けれど、その足音は正確にレティシアとマリアンルージュの方に迫っていた。


 慌てたレティシアが、前方の通路へと視線を向ける。

 この洞窟は廃坑だ。このまま奥へ進んでも出口があるとは限らない。

 嗅覚と聴覚を研ぎ澄ませて、レティシアは洞窟の奥を探った。けれど、前方の澱んだ空気からは、出口らしきものの存在は感じられない。

 このまま進んでも追い詰められるだけ。そう判断して、レティシアはマリアンルージュの手を引いた。振り向いたマリアンルージュと、薄闇の中で視線が重なる。レティシアが不安な顔で見上げると、マリアンルージュは優しい笑顔をみせた。


「うん、確かにきみの言うとおり。奥に進んでも出口はなくて、追い詰められるだけかもしれない。だけどね、これは可能性の問題なんだ。憲兵隊長を名乗っているジュリアーノって人の実力は、おそらく本物だと思う。普通の人の喧嘩って感じじゃなくて、本当に訓練を受けてる憲兵の動きだったから」


 過去に憲兵隊と対峙した経験があるのだろうか。マリアンルージュは記憶の中のとジュリアーノの動きを照らし合わせているようだった。


「一対一なら、わたしでもある程度は戦えるよ。でも、レティは戦えないよね? 少なくとも三人はいる追手を相手にするには、このままでは状況が不利すぎるんだ。レティが人質に取られたら、わたしは応戦できなくなってしまうから。だから今は、身を隠せる場所を探そう」


 小さな子供に言い聞かせるようなマリアンルージュの言葉にレティシアが小さく頷くと、それに応えるように、マリアンルージュも大きく頷きを返した。

 迫り来る追手への恐怖に駆られながら、レティシアは廃坑の奥へと進むマリアンルージュの背中を追った。


 やがて突き当たった分岐路で、やまなりに積み上げられた土の隣にトロッコが横倒しになっていた。一方の通路は天井付近のわずかな隙間を残して土の山に塞がれており、ぱっと見た限りでは行き止まりにも見える。


「ここを越えて、あの隙間を埋めてしまえば、行き止まりに見せかけて追手を巻くことができるかも……」


 僅かに考え込んで呟くと、マリアンルージュはレティシアに目を向けた。視線の意図を察し、レティシアが素早く土の斜面を登る。土の山と天井とのわずかな隙間を通り抜けると、レティシアは振り返り、マリアンルージュに手を伸ばした。


 マリアンルージュは登って来なかった。

 土の山の上のレティシアを見上げ、にっこりと微笑むと、レティシアに向かって手を差し出した。


「さっきの花を一輪貰える?」


 そうだった。うっかり道標を残すのを忘れていた。

 レティシアは急いで月雫の花を咲かせると、その花をマリアンルージュに投げ渡した。そしてふたたび、急かすようにマリアンルージュに手を伸ばした。


(はやく! 足音が迫ってるの!)


 声の出ない口を動かして、レティシアは必死に訴えた。けれど、マリアンルージュは土の山を登ろうとはしなかった。

 ゆっくりと首を横に振り、人差し指を口元に当てて、「静かに」と口を動かしてみせた。

 月雫の花を朱紅い髪に挿して飾り、マリアンルージュはレティシアを見上げて囁いた。


「レティ、きみはそこに隠れているんだ。絶対に声を出しちゃ駄目だよ。わたしがを引き付けるから、足音がここから離れたら、元来た道を戻るんだ。追手は三人だけとは限らないから油断しちゃ駄目だよ。外に出られたらなんとか逃げ延びて、ゼノとリュックにこのことを伝えて」


 言い終えると同時に身を翻し、マリアンルージュはもう一方の通路へと走り出した。湿った土を蹴る足音が、今までよりも鮮明に耳に届く。


 レティシアの脳裏に、あのときの記憶が鮮明に浮かび上がる。貯蔵庫に隠れるようにレティシアに告げ、犠牲になったアリシアの笑顔が――


「――!」


 声にならない声をあげ、レティシアはマリアンルージュの名前を呼んだ。けれど、マリアンルージュは戻っては来なかった。

 あふれる涙を手のひらで拭い、レティシアは土の山の陰で小さく身を丸めた。追手の足音と匂いは、すぐそこまで迫っていた。


 追手はマリアンルージュを追うだろうか。

 レティシアに気が付いて、土の山を登って来たりはしないだろうか。


 不安と恐怖でガタガタと震える肩を抱き、レティシアは息を潜めた。

 やがて近付いてきた複数の靴音が、分岐路で立ち止まる。やまなりの土の壁を一枚隔てた向こう側から、三人の息遣いが聞こえてきた。

 追手は明らかに土の山を怪しんでいる。三人の追っ手のうち、ひとりが土の山に足を掛けた、そのとき。

 壁の向こう、もう一方の通路の奥で、何かが地面に転がる乾いた音が鳴り響いた。


 ふたたび靴音が鳴り、追手の気配が遠ざかる。マリアンルージュの狙い通り、三人の追手の足音は隣の通路へと遠ざかっていった。



(ごめんなさい……ごめんなさい……)


 胸の内で繰り返し、唇を噛み締める。

 土の斜面を駆け下りて、レティシアは薄明るい坑道を、入り口へと向かって駆け出した。



***



 どれくらい時間が経ったのか。

 光苔の緑がかった弱々しい光と、月雫の花の香を頼りに、レティシアは坑道を走り続けた。

 すでに息は細切れで、足取りも覚束なかった。小石に蹴つまずき、湿った土の上に何度か倒れて転がった。膝や腕に血が滲んでも、レティシアは構うことなく走り続けた。

 ただの足手纏いで居続けるのはもう嫌だった。

 一刻も早く、助けを呼んで来なければ。


 レティシアを逃がすためにマリアンルージュが犠牲になるなんてことは、絶対にあってはならなかった。もし、マリアンルージュがアリシアのように、あの男達に蹂躙され、殺されてしまったら、きっとこの先、レティシアは一生、自分自身を許すことができないだろう。


 やがて、涙で滲んだレティシアの視界に、陽の光が映り込んだ。円を描く光の輪の中に、岩肌に打ち付けられた、腐りかけた板張りの階段が見える。

 ぐっと奥歯を噛み締めて、レティシアはぽっかりと空いた穴の真下に駆け寄った。

 頭上を見上げ、五感を研ぎ澄ます。風の音が聞こえたけれど、人の気配は感じられなかった。

 階段を駆け上がり、陽の光の元に飛び出せば、澱んだ空気が消え去って、心地良い風がレティシアの肌をくすぐった。


(必ず、助けを呼んでくるから……)


 沈黙する廃坑を振り返る。

 遠くに望む居住区で、正午を知らせる鐘塔の鐘の音が響いていた。



***



 昼下がりの鉱山地区の街へと続く坂道を、鉱山夫たちが列を成して歩いていた。

 廃坑から続く坂道を駆け上がってきたレティシアは、坂道の上の鉱山夫たちを目にして思わず足を止めると、素早く土嚢の陰に身を隠した。


 ――人間は恐い。信用できない。


 身体中を恐怖が突き抜け、全身がガタガタと震えだす。両腕を抱き、レティシアはその場にしゃがみ込んだ。


 ――もうだめだ、街へは戻れない。


 諦めかけた、そのとき、レティシアの脳裏にマリアンルージュの言葉が過ぎった。

 憲兵隊を名乗るあの男達が街に来たのはつい先日のことだったはずだ。そんな短期間で、奴等が街の住人と手を組めるだろうか。

 鉱山夫に紛れて街に行くことができれば、追手の目から身を隠すことができる。これは、レティシアが憲兵隊に見つからずに街へと戻る、又と無い機会チャンスだと思えた。

 顔を上げて立ち上がる。

 ごくりと息を呑み、土嚢の陰から飛び出すと、レティシアは遠ざかる鉱山夫の列へ向かって、坂道を走り出した。


 街へ戻ったら、なんとか身を隠しながら路地裏を通り抜けて、リュックが待つあの宿に戻ってみせる。


 レティシアが意を決した、そのとき。

 鉱山夫の列からふたつの人影が抜け出し、廃坑へと続く坂道をレティシアの方へと向かって降りてきた。

 両眼を大きく見開いて、レティシアが足を止める。がくがくと膝が震えだし、呼吸が乱れ、全身が総毛立った。

 制服をきっちりと着込んだふたりの男は、震え上がるレティシアに目を止めると、その顔にに似た不敵な笑みを浮かべた。

 踵を返し、元来た道を引き返そうとしたものの、追手に背を向けると同時にレティシアの喉元が縄のような何かに締め上げられた。

 叫びにもならないかすれた息を洩らし、レティシアが喉を掻きむしる。首に掛けられた縄が喉に食い込み、呼吸が妨げられた。視界が霞がかり、天地が逆転する。

 体勢を崩したレティシアは、そのまま勢い良く後方へと引き倒された。

 

 ――ああ、わたしはなんて運が悪いの。


 ここで殺されてしまったら、レティシアを逃がすために犠牲になったアリシアと、今もその身を投げ打ってくれているマリアンルージュに、なんと言って謝ればいいのか。


 薄れゆく意識のなかで、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。

 その声が彼女自身のものなのか、他の誰かのものなのか、レティシアにはもうわからなかった。


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