惨劇の記憶
その日、村は大賑わいだった。
村一番の美人であるソフィと村長の一人息子レオンの七日間にも及ぶ婚姻の宴。村中をあげて祝う盛大なその宴も六日目に入り、いよいよ明日、婚姻の儀が執り行われるのだから、村中がお祭り騒ぎになるのも無理はない。何と言っても、この村の
皆がお祭り気分で騒ぐ中、レティシアと姉のアリシアは集会所の離れにある一室で、明日の婚姻の儀のために花嫁のブーケを造っていた。
花嫁が手にする純白のブーケは、村の娘達が咲かせた月雫の花で造る。万病の治療薬の材料でもあるそれは、これから夫婦となる二人の幸せと健康を祈って贈られるものであり、純白の花嫁衣装と共に花嫁の純潔の象徴でもあった。
「わたしも綺麗な花嫁衣装を着て、素敵な
造りかけのブーケを両手で高く掲げ、夢見がちな瞳でアリシアが呟いた。
この村の住人は十三歳で成人として認められる。ちょうど宴が明ける次の日が、アリシアの十三歳の誕生日だった。
「おねえちゃんにはちゃんと相手がいるじゃない」
一足先に十三歳の誕生日を迎えた幼馴染みの少年を思い浮かべ、レティシアはアリシアを窘めた。
一瞬びくりと身を強張らせたアリシアが、頬をほんのりと赤らめて、うわずった声でレティシアの言葉を否定する。
「あ、あいつはダメ! 何日か前にふらふらっと村を出て行ったっきりで、さんざんお世話になったソフィの婚姻の宴だって言うのに、顔を見せもしないんだから」
「それはおねえちゃんに……」
言いかけて、レティシアは口をぐっと
「もう、バカなこと言ってないで手を動かして。夕刻の宴までに仕上げなきゃ」
照れ隠しも半分に、アリシアは作業の手を進めるようにとレティシアを促した。
村中をあげて祝う婚姻の宴ではあるけれど、夕刻と宵の宴に参加できるのは成人した者だけだ。十三歳に満たない子供は、日が沈む前におとなしく家に戻らなければならない。収穫の季節に入り、冬越しのための食糧を狙ってか、森の周辺を荒らす盗賊の動きも活発になったと専らの噂だ。例え村の中だとしても、子供が夜に出歩くのは危険なことだった。
「おねえちゃんが先に話しはじめたくせに……」
ぶつくさと不満を口にしながらも、レティシアはアリシアが形造った花束に小花をあしらい、美しくブーケを仕上げていった。
「これで完成ね! 明日の婚姻の儀が楽しみだわ」
出来上がったブーケを見て満足げに頷くと、アリシアは婚姻衣装に添えるように衣装棚の隣にブーケを置いた。
集会所では既に夕刻の宴が始まっているようで、心地よい笛の音が風にのって運ばれてきた。宴の席で振舞われるこの村自慢の香草料理の香りがふたりの鼻を擽り、夕食前の空腹を刺激する。その香りを胸いっぱいに吸い込んで、レティシアが長テーブルにずらりと並ぶご馳走を思い浮かべていると、先を歩くアリシアが集会所の小窓の前でふと足を止めた。
人狼は鼻が効く。この村の住人は各々の匂いもきちんと覚えており、個々を嗅ぎ分けることができる。当然、同じ村の住人ならば知らない匂いはない。けれど今、小窓から漂うご馳走の香りには、明らかに覚えのない臭いが混ざっていた。
アリシアとレティシアは互いに顔を見合わせると、その臭いの主を一目見ようと、集会所の中を小窓からそっと覗き見た。
初めて目にする夕刻の宴の席。色とりどりの織物の絨毯の上で、酒と料理と音楽に酔いしれた村の大人たちが騒ぎ寛いでいた。
その華やかな宴の風景の一角に、見慣れない男達の姿があった。揃いの制服を着込んだその集団は、それぞれが腰に剣を携えていた。
「あれって……人間……?」
レティシアが囁くように尋ねると、アリシアは口元に人差し指を立て、静かにするようにとレティシアを制した。
耳を澄まし、ふたりで会場内の会話に聞き耳を立てる。
どうやら宴に混ざった人間たちは、最近噂に聞く盗賊の討伐に訪れた王都の憲兵隊のようだった。輝かんばかりの金色の髪の若い男が先頭に立って、村長に協力を仰いでいる。
男は村長との話を終えると部下を二人連れて席を立ち、主賓席で宴を見守っていた
「我々は明日の朝、ここを発たなければならない。婚姻の儀で使われる花嫁衣装を今から見せてはもらえないか」
そう言って恭しく頭を下げた。
男の頼みを快く受け入れたソフィが、花婿に一言告げて席を立つ。ソフィの後に続くように振り返ったその男の顔は端正に整っており、透きとおった青空を思わせる碧い眼はとても美しかった。
「綺麗な
ほうっと溜め息をついて、レティシアはうっとりと呟いた。この村にはあのようなまばゆい金色の毛を有する者はいない。金色の髪なんて、お伽話のなかだけに存在するものだと思っていた。
「レティ、ぼーっとしてないで急いで!」
急に手を引かれ、我に返ったレティシアは、再び離れへと連れ戻された。アリシアが離れの扉を閉めるのと同時に集会所の扉が開き、来客を案内するソフィが表に現れた。
すでに陽は沈んでいた。アリシアもレティシアもまだ子供で、夜に出歩くことは禁止されている。見つかってしまえば、両親にこっぴどく叱られてしまうだろう。けれど離れに隠れていれば、ブーケ造りに夢中で日が暮れたことに気が付かなかったと言い訳もできる。
機転のきくアリシアに感心しながら、レティシアは扉の覗き穴から外の様子を確認した。
灯りを手にしたソフィが、こちらに向かって歩いてくる。国の治安を守る憲兵を相手にすっかり安心している様子のソフィは、真っ直ぐ離れに目を向けたままだった。
「ところで、人狼である貴女達も、婚姻前は純潔を守るものなのかな?」
「……え?」
金色の髪の男が唐突に問う。振り向いたソフィの背後に男が一人回り込み、声をあげようとした口元を掌で覆う。男の手から逃れようと身を捩りもがくソフィを、男達は無理矢理に離れの陰へと引き摺り込んだ。
雲間から射す月明かりの下で、男達は剥き出しの黒土の上にソフィを抑え付けた。かちゃかちゃと軽い金属音を響かせて、華奢なその身体に金色の髪の男が覆い被さる。ありったけのちからを振り絞るように抵抗したソフィの爪先が空を掻き、一瞬動きを止めた金色の髪の男は、自身の頬に指先で触れると、堰を切ったように拳でソフィの頬を殴り付けた。そのドレスを引き裂いた。
白いドレスが引き裂かれ、穢れのないソフィの肌が、蒼白い月の下に曝け出される。
レティシアもアリシアも、目を見開いたまま動くことができなかった。
目の前で何が起こっているのか、思考が空回りするばかりで理解が追いつかなかった。
抵抗する術を無くした花嫁に向かいって打ちつけるように腰を振る、月の光に照らされた金色の髪の男の影が、悍ましい悪魔に見えた。
やがて大きく身を震わせ、欲望を吐き出した悪魔は、おもむろに腰に携えた剣を引き抜くと、ちからなく横たわる花嫁の胸元にその切っ先を突き立てた。
ふたりが恐怖に駆られ、動くことができないまま、幾許かの時が流れた。
扉の外に居た男達はソフィの亡骸をその場に残し、何事もなかったように立ち去った。
やがて夜の闇に耳障りな呼び笛の音が鳴り響き――。
あの悪夢が、はじまった。
***
朝市で賑わう往来を避けるように、レティシアは裏路地へと逃げ込んだ。
人混みに紛れて身を隠すこともできたはずだった。けれど今のレティシアには、村を襲った憲兵隊を名乗る男達も、街の住人も関係なかった。
人間は信用できない。いくら助けを求めようとも、彼等は憲兵隊の言葉を鵜呑みにし、異種族であるレティシアを引き渡すだろう。
この街でレティシアが信じられる存在はふたりだけ。そのうちのひとりであるマリアンルージュは、あの悪魔を前に、宿に置き去りにしてきてしまった。もうひとり、助けれくれるはずのリュックは、今もあの宿の一室でレティシアの帰りを待っていることだろう。
ふたりの助けが望めない以上、レティシアは追手から逃げ回ることしかできなかった。ただひたすら人目を避け、人間の声や臭いから遠ざかるように細い道を駆け抜けた。
錯乱して闇雲に動き回ったために、レティシアは今、自分が何処を走っているのかもわからなかった。
石畳で舗装されていた道路はいつの間にか剥き出しの地面へと変わり、人が暮らす民家はどこにも見当たらなくなっていた。曲がりくねった一本道の両脇には
奴等に見つかれば、たちまち捕らえられてしまう。辱めを受けて、
あのときレティシアを守り、身代わりになった姉のように。
***
逃げ惑う人狼の叫声が響く混乱の最中、殺戮者の手はふたりが身を潜める離れへと向けられた。
逸早くそれを察したアリシアは、床下の小さな貯蔵庫に小柄なレティシアを押し込んで、
「絶対に声を出してはダメ。
そう言って、怯えて震えるだけのレティシアに最後の言葉を託した。
「“わたしを選んでくれて、ありがとう”って……」
狼狽するレティシアに向けて歪に微笑むと、アリシアは静かに貯蔵庫の蓋を閉めた。
暗闇の中でレティシアは耳を塞いだ。やがて、扉が軋む音が室内に響き、背筋を凍らせるような不気味な笑い声と、アリシアの悲痛な叫びが耳に届いた。
床の上で続けられる残虐な行為から逃避するように、レティシアは耳を塞いだまま、幼い日に姉と口ずさんだ歌を、声にならない声で歌い続けた。
焼け落ちる小屋から這い出して、姉や仲間の遺体から目を背けながら、無我夢中で森へ逃れた。奇跡的にリュックと再会し、人間の街で僅かな希望を見出し、ようやくあの悍ましい記憶から解き放たれることができると思っていた。……それなのに。
悪夢はまだ、終わっていなかったのだ。
***
小石に足を取られ、レティシアは地面へと倒れ込んだ。どれほど走り続けたのだろう。疲労のためか恐怖のためか、膝が震えて立ち上がれない。
もう駄目だ。あの金色の髪の悪魔からは逃れられない。
アリシアやソフィのように、わたしもあの悪魔に蹂躙されるのだ。
レティシアの頬を、一筋の涙がつたった。
清々しく晴れ渡る、雲ひとつない青い空を、レティシアはゆっくりと仰ぎ見た。
「レティ! レティ!」
繰り返し名を呼ばれて我に返った。レティシアの瞳に映ったのは晴れ渡る青空ではなく、泣きそうな顔で息を切らすマリアンルージュだった。
「やっと見つけた。レティ、まだ走れる?」
確めるようにそう言うと、マリアンルージュは後方を気にしながらレティシアの手を引いた。
脚の震えは止まっていた。大丈夫、まだ走れる。
レティシアはマリアンルージュの顔を見上げ、大きく頷いた。
「レティ、落ち着いて。音と臭いに集中して。ここは風下だから、きみなら彼等の動きを察知できる」
レティシアを勇気付けようとするマリアンルージュのその声は、微かに震えていた。
おそらく、マリアンルージュはレティシアの記憶を垣間見たのだろう。浴場でのマリアンルージュの言葉を思い出し、レティシアは思った。
マリアンルージュも怖いのだ。それでもレティシアを守るために、この広い人間の街を走り回り、レティシアを見つけ出してくれた。
ふたりで逃げ延びるために、今自分にできることをしなければ。
繋いだ手を握り締め、レティシアは耳を澄ませた。
足音が聞こえる。近付いてくるのは二、三人。臭いから察するに、それは最も最悪な状況だった。
あの金色の髪の悪魔が、一本道の向こう側からふたりの居場所へと近付いていた。
「行こう」
レティシアと瞳を合わせ、状況を把握したマリアンルージュが道の先を視線で指し示す。緩やかに降る坂道を、ふたりは駆け出した。
***
レティシアを守りたい。
マリアンルージュのその気持ちは本当だった。
竜気を使って戦えば、或いは、炎のちからを使えば、彼等を退けることができるかもしれない。
けれど、『羊の安らぎ亭』でジュリアーノが見せた実力は相当のものだった。男と女の身体的な能力の違いもさる事ながら、マリアンルージュはゼノほど竜気の扱いにも長けてはいない。
相手が生身の人間である以上、一対一なら望みはあるかもしれないものの、レティシアを守りながらとなれば状況は一変する。三人か、それ以上の人数を相手にすることを考えれば、状況は圧倒的に不利に思えた。一人の相手をしているうちにレティシアを奪われ、盾にされてしまえば、そこで勝敗は決してしまうだろう。
なんとか有利な状況を、せめてレティシアだけでも安全な状況を作り出さなければ。
祈るようにきつくまぶたを閉じると、マリアンルージュは覚悟を決め、顔を上げて目を見開いた。
ふたりが辿り着いたその先に現れたのは、人の手を離れた仄暗い岩の洞穴――閉鎖された廃坑のようだった。
見渡す視界の端に、横倒しになった壊れたトロッコや、柄の折れたつるはしが映る。鉄の錠で閉ざされた地中へ続く穴の他に、身を隠す場所など何処にもなかった。
***
走り去る朱紅い髪の女の後ろ姿を眺めながら、ジュリアーノは僅かに考え込んだ。
記憶の中で、森に飛び込んだ小さな影と逃げ出した幼い少女が重なった。
「こんなところに隠れていたとは……」
その整った顔に不敵な笑みを張り付かせると、彼は愛撫するように腰に携えた剣を指先で撫であげた。
――獲物は二匹。全身の血が滾る。
さあ、狩りの時間だ。
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