参
ミヨが畑へ行ってしまうと、囲炉裏の間にはサノとナギの二人だけが残された。
饅頭は、すでに食べ終えたあと。茶も、今は底に茶殻が残るばかりで、喉を通るものはなにもない。
まったくの手持無沙汰。気まずい。
これからともに暮らす以上、相手を理解することも必要だろう。なにか話さなくてはいけない。
とは言っても。
会って早々白刃を見せつけてくるような相手の心に、どうやって踏み込めばいいというのだろうか。
いやいや、タツゴに抱いた印象と同じように、相手を誤解しているだけかもしれない。実は心根の優しい青年に違いない。饅頭を渡そうとしたとき、可笑しそうに笑っていたではないか。
——刀の煌めき。
「……」
慄然とする。
あの恐怖をすぐに拭い去れというのは、土台無理な話だ。俯き、時間が過ぎゆくを耐え忍ぶ以外にできることなどあるはずもない。
日がどれだけ傾いたか。
長い沈黙の後だった。
突然、ナギがすっくと立ち上がった。
「いぃ……ッ!」
すっかり肝を冷やしたサノだ。頭を抱えずにはおれない。
脳裏に閃く、刀を振り上げるナギの姿。罪の因果が思いもよらぬところから、自分を裁きに来たのだと確信した。
しかし頭上から降りてきたのは、刃でなく笑い声だった。
「おいおい。そんなに怖がらねぇでくれよ。さっきのは本当に悪かった。〈鬼〉の首ならいくらでも刎ねるが、人のを刎ねたりはしねぇよ」
充分物騒なもの言いだが、とりあえずこの首を刎ねるつもりはないらしい。
恐るおそる見上げると、ナギが手を差し伸べていた。サノはわけも分からず、その手を取った。
「あいっ……!」
思いの外強い力で持ち上げられ、肩が抜けそうになる。
「これから少し出かけようと思う。親父はまだ寝てるし。えっと、サノだっけ。お前も暇だろう。一緒にどうだ?」
「……はぁ。しかし、どこへ行くんで?」
「一緒に住むんだから、俺のことを知ってもらおうと思ってな」
訊ねてはみたものの、視線はそっと逸らされ、質問にも答えてはもらえなかった。
当惑するサノをよそに、ナギはそそくさと身支度をはじめる。
壁にもたせかけられた胴あてを身に着け、血濡れ袴に足を通した。腰に刀と角笛を吊るし、最後に肩から銃を提げた。
立派な〈鬼狩り〉の姿だ。ただそれだけで一糸を通すことも拒むような威厳が満ちる。
サノは一言も口を利けなくなり、最早一瞥を寄越すこともなく土間に降りたナギの背を追うしかなかった。
☯☯☯
祓川の上に渡された橋を渡る頃になって、サノはようやく口を利いた。
「……そ、その、村をお出になるんですか?」
「ああ。でも、すぐに戻るさ。サノは本当に流れ者らしくないなぁ」
そう言ったナギの口調は、笑いを含んでいるものの油断がない。一瞬たりとも視線が合うことはなく、辺りに睨みが飛んでいる。口許だけ笑い続けているのが、却って村をでる恐ろしさを物語っているようだ。
「そうだそうだ。畏まった喋り方はしなくていいぞ。まあ、歳はちょっと俺のほうが上だし、サノは居候の身分かもしれねぇけど、これから一緒に暮らすんだ。堅苦しいのはなしにしようじゃねぇか」
ナギの歩幅は広い。タツゴは護衛のために派遣された〈鬼狩り〉だったためか歩調を合わせてくれたが、ナギにそのような配慮はないようだ。ついて行くだけで息が切れる。言葉を整理するのにも時間を要した。
「えぇと、しかし……オレなんかは流れ者ですしね。少しは罪人らしく畏まった態度もとらねぇと」
「仏様にお咎めでも受けるってか? 饅頭を一つや二つ盗んだだけじゃねぇか」
カラカラと陽気に笑うナギは、けれど、ちっとも陽気には思われなかった。ナギの声には常に、〈はぐれもの〉に備えた緊張とは別の、暗く淀んだなにかが感じられるのだ。それは家中にあった間、時折見せた空虚な瞳からも知れることだった。
お頭が悪に堕ちてから相手の機嫌を窺うようになったサノは、そういった感情の機微に敏感だ。
「頼むよ。俺、堅苦しいのは苦手なんだ。ほら、親父はあんな感じだからさ」
「はぁ、そういうことなら……」
「まだ腰が低いなぁ」
そう言ったきり、ナギは喋らなくなってしまった。
三叉路にさしかかると、ナギは迷いなく左へ進んでゆく。右に進めば中原村だと憶えているが、こちらの道がどこに続いているのかは分からない。見えるのは比較的標高の低い勾配も緩やかな山だが。
ナギが口を開こうとしないので、こちらから話しかけるしかない。サノは渋々口を利いた。
「これからあの山へ行くんですかい?」
「畏まった言い方はやめようと言ったじゃねぇか」
「あ、すんませ……ごめん」
「べつに謝るようなことじゃねぇよ。まあ、その通りだ。あの山へ行く」
急に口を利かなくなったので、てっきり気を悪くしたのかと気を揉んでいたが、答えが返ってきて安心した。短い吐息が漏れる。
山が近くなってくると、仄かに酸い匂いが漂いはじめた。なんの花の香りだろうか。
サノはしきりに鼻をひくつかせ、恍惚と目を細める。
匂いについて訊ねてみようか。一瞬、そんな考えが頭を過ぎる。
しかし血の気の多そうな〈鬼狩り〉のことだ。花の名前が返ってくるとは思えなかった。代わりに、無難な質問を投げておく。
「あの山に名前はあんのかい?」
「そういえば、正式な名前は知らねぇな。親父なら知ってるかもしれねぇが。みんなあれのことは墓山って呼んでるよ」
「墓山……」
おどろおどろしい名前だ。〈鬼〉が出ると聞くだけで、尻の穴の縮まるような思いがするのに、この辺りでは、いちいち肝まで冷やされる。
墓山には、一体どんな謂れがあるのだろう。サノは中原村の宿でタツゴから聞かされた〈予断ち〉や〈闇の森〉に関する血の気も凍るような逸話を思い出し、身構えた。
ところが、ナギはそこでまた口を利かなくなってしまった。背中につららの筆で文字を書かれるような恐怖が、ゆっくりと首筋にまで上ってくる。
沈黙が怖い。けれど、新しい話題も浮かばない。浮かんだところで、返ってくる言葉にまた不安を注がれそうだとも思う。結局、黙っていることしかできなかった。
幸い、墓山の麓へは、すぐ辿り着いた。北西の斜面に滑らかな樹皮の木々が群生している。夕焼けにも似て薄赤く咲いた花を見るに、百日紅だろうか。
一方、山道の築かれた西南の斜面に樹木はほとんど見られなかった。まばらに枝を伸ばしているのは、すべて白樺の木だ。雑草の緑が茂り、その間隙を穿つように無数の灰色の石が立ち並んでいた。それがなにかは、遠目からでもすぐに判別できた。
「……だから、墓山ってわけか」
ぼそりと呟くと、ナギが肩越しに振り返った。
「ああ。ここに俺の幼馴染が眠ってる」
口の中に鉛を押しこまれるような気持ちがした。
ナギの言葉に衝撃を受けたからではない。彼の目が、雷光の根元でわだかまる黒雲のごとく翳って見えたからだ。
サノは視線を逸らさぬよう努めた。
いや、できなかっただけかもしれない。そこに強い力が宿っているように感じられて。次なる稲妻を叩き落とさんとするような力を感じられて。
ナギがようやく正面へ向き直った頃には、辺りはすっかり墓場の様相を呈していた。灰の墓碑が並び、山道の端にぽつぽつと白樺の木が佇む。墓碑の幾つかからは線香の煙が揺蕩い、樺の枝に絡まり、葉先で解れ空へ抜けていた。先の酸い匂いの正体は、どうやらこれだったようだ。
山の中腹にまで来たところで、ナギが足を止める。つられてサノも足を止めると、思わず息まで止まりそうになった。
胸に巣食った臆病の虫どもが飛び立ったからではない。
ナギの肩越しに見えたものが、あまりにみすぼらしく、哀れだったからだ。それがナギの言っていた幼馴染のことだと直感的に理解したからだ。
その墓とはとても言い難い、平石と板切れの前でナギが膝を折った。そして合掌とともに閉ざされた口をひらいた。
「……十二年前だ」
「……」
サノは決して口を開かず、息を殺した。石臼で磨り潰したようなその声を、自分の息が吹き飛ばしてしまうような気がしたから。
ただナギの隣に立って、次の言葉を待つことが、血塗れの心にゆいいつ捧げられる包帯に違いないと思えたから。
「俺はすべてを失った」
声に応えるように、サノもまた膝を折った。板切れに刻まれた歪な文字は、かろうじて「ナミ」と読むことができた。
「俺はこいつを想ってた。風呂だって一人じゃ焚けなかったくせに、立派に恋慕の念なんか募らせてやがったんだ。それを〈鬼〉に奪われた。目の前で。美しい思い出になるはずだった場所でさ」
横目でナギの様子を窺うと、彼は目を瞑らず、ただ手だけを合わせていた。その視線が据えるものは、きっと遠い昔にあるのだろう。
「もう、ずいぶん時が経ったし、喪ったのはたった一人だ。大切な人を亡くした〈鬼狩り〉なんて、村にはいくらでもいる。亡くした相手が一人や二人じゃねぇ奴なんかも少なくねぇ」
ナギがおもむろにこちらを見た。その目がなにを訴えかけるのかサノには解らない。まったく解らない。
彼の言葉から解るのは、襤褸のように古く傷んだ悲哀であるはずなのに、その瞳に映るのは、ただただ深い闇だけだった。感情という形をとらない、無にも等しい深淵の暗がり。それが果てしなく続いて見えるだけだった。
お頭の顔色を窺って培った能力など、なんの役にも立たなかった。かけられる言葉などあるはずがなかった。無力だった。
「それでもあの日失ったものは、あの日から失った時間は、誰と傷を舐め合ったって癒えやしねぇんだ」
ナギは、そう言うとすぐに目を逸らし、ようやくその瞳に悲壮を湛えた。
「お前も気を付けろ、サノ。西野村はそういう場所だから。お前は色んな道を拓ける。だけど少しでも道を違えれば、あるいは決断が遅れれば、俺みたいになっちまうかもしれねぇ。後悔は
その時一羽の鳥が、北の方角から飛び立っていった。ぱたぱた、ぱたぱた。まるでなにかから逃げるように。
サノはナギの言葉を重く受け止めつつも、その言葉に真摯に応えられるだけの態度を知らなかった。
オレはこれから、どんな人生を歩んで行けばいいんだろう。
都で乞食をするしかなかった自分が、過酷な世界で命を賭して戦う〈鬼狩り〉たちとともにどう生きるか。迷いは尽きそうにない。
そして今、隣でひたすらに手を合わせ続ける青年のことは、まだまだ理解するのに時間がかかりそうで——理解できてはいけないとも思えた。
はっとして空を見やると、すっかり茜色に包まれていた。視界の端では、薄闇がぼんやりと世界を包み込もうと手を伸ばしているところだった。
「すまん。つまらん愚痴と説教になっちまったな。帰るか」
ナギが恥ずかしげに頭を掻き立ち上がると、長銃と胴あてがカチャカチャと茶化すような音をたてた。長銃や刀の固定紐の具合を確認してから、ゆっくりと小さな墓に踵を返す。
サノもまた墓山に一時の別れを告げ、遠方にうかがえる村を見た。
空の茜色が降ってきたかのように、村のそこここで篝火の炎が揺れ始めた。
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