結局、大事なのは「仁」?

義を探すうえでその思考の基準となるのが、自分自身に内在する「良心=仁」である。


あらゆる「情報=知」を咀嚼し、分析したとしても、何を「善」とし、何を「悪」とするかは自らの「仁」による。


だから結局、大事なのは「仁」ということになる。


それは儒教思想にしても間違いなくそうなのだが、老荘思想に於いてはさらに「仁」よりも大事なものがある。


もっと言えば、

仁よりさらに高位の「天意」、即ち「自然の中」に善悪の判断基準を置いている。


老荘的には「知」同様に「仁」もまた移ろいゆくものである。

「悪」も「善」も存在しない。

ただ、人間社会がそう位置づけただけ、というのが老荘の立場だ。


従って、至上の善とは「自然状態」のことをさす。


これは性善説、性悪説の話にもなるが、

老荘は「天意」に重きを置き、

孔子や孟子は「仁」に重きを置く。


孔子や孟子は「性善説」として、人間の良心を信じている。

それを「教育」で大きくしていくことが大事だ。


としている。


老荘だと、それすらも「教育」の必要は無い。

生まれたままの自然な心に本当の善が宿っているのだ。


としている。


時代は巡って「性悪説」を説いた荀子などは、

生まれながらの人間の良心などは信じていなかった。

だから「仁」を「教育」する必要がある。


としている。


立場の違いは有れ、結局彼らが頭を悩ませたのは「善と悪の境界」を教育されるべきなのか、自然発生的に身に付けるべきなのか、ということだ。


前述したが、義をコントロールすることはとても危険なことなのだ。


従って、教育するということは非常に難しい。


かと言って、自然発生も現実味がない。


だから「考え続ける」ということはとても大事なのだ。


善悪や正義は「学問」であるべきなのだろう。

法律やドグマは必要なのかもしれないが、一人ひとりにとっては「学問」であった方が健全だろう。

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