ミステリは放課後に

ギア

ミステリは放課後に

「読むなら席に座ってください」

 あいつとの出会いはそんな言葉から始まった。

 図書室の本棚と本棚の間にある狭い通路で振り向いた俺は、その通路とほぼ同じ幅の台車に本が積まれているのが目に入った。山の向こうで疲れた顔を浮かべた小柄な女子が立っている。あまり手入れされていないように見えるぼさぼさの髪の毛は無造作に後ろで束ねられている。いかにも本好きを思わせる分厚い眼鏡からこちらへ向けられた視線は、あまり好意的なものではなかった。

「いや、面白いかどうか分からんから、最初のほうだけ確認してたんだけど」

「半分も読めば分かるんじゃないですか?」

 言われて手元を確認すると、確かにすでにページの厚みが左右でほぼ均等になるまでに読み進めていた。

「あれ?」

「面白い本と出合えて良かったですね」

 口元だけにっこりと微笑む。

 なんて凶悪な笑顔だ。

「ごめん」

「いいからどいてください。この列だけ片付けが終わってないんです」

 俺が後ずさった分だけ台車を前に押し出し、目の前の棚に戻すべき本を手際よく台車から選ぶ。俺は、自分の視線よりほんの少し上まである棚の最上段を見た。次に本を抱えている小柄な相手を見た。俺の背が平均よりそれなりに高いこともあるが、それを差し引いてもかなり小さい。相手が最上段を見上げているのをそうやって眺めていると、こちらにうざったそうな視線を向けてきた。

「そういうの止めてくれませんか」

「まだ何も言ってないぞ」

「手伝おうか、って言うのかと思いました」

「言おうと思った」

「カレー食べてるときに、横に座ってる人がいきなり手伝いましょうかとか言ってスプーンを手にしたらどうします?」

 相手が君みたいなかわいい子だったら迷わずお願いするよ、という頭のネジのゆるんだ回答を思いついたが、もちろんそれを口に出すような度胸はない。そもそも目の前の相手はそこまでかわいいというほどでもない。

「要するに余計な世話を焼くなと」

「初めて話が通じましたね」

 だからその笑顔はやめてくれ。

「笑えばかわいいのに、ってよく言うけど、その逆は珍しいな」

「いいからどいてくれませんか」

「ごめん」

 いい加減この辺で退散しておくか、と本を手にしたまま立ち去ろうとしたとき、後ろから、ちょっと!、と小声で呼び止められた。

「なんだ? まさかこの本まで片付けるとか言うんじゃないだろな」

「あんた、1年生じゃん! なんで、あたし、敬語使ってんのよ。馬っ鹿みたい」

 ああ、距離をとったから俺の上履きの色が見えたわけか。なるほど。ふちが緑色の自分の上履きを見下ろす。ついでに軽く首を伸ばして、台車の向こうにある相手の上履きを確認しようとしたが、それに合わせて相手は意図的に足元がこちらからは見えない位置へ移動した。

「おいおい」

「見なくても分かるでしょ、何色か」

「なんでやねん」

「あのさー、ここまでにヒントは全部出てるよ?」

 腰に手を当てつつ、ちょっとからかうように口の端を上げて微笑み、こっちを見上げる。あれ? こうやって見ると意外とかわいいな。

「あんただって、さすがにもうあたしのほうが上級生だってのは気づいてるでしょ?」

「あー」

 納得しかけたが、危ないところで気づいた。

「いや、だから俺、1年生なんだけど。上級生っつったって、2年かもしれないし、3年かもしれないぞ」

「あっきれた。もうちょっと頭使いなさいよ」

 口調は怒っているようにもとれるが、実際は妙に楽しそうだった。しょうがないので付き合ってあげることにする。無い知恵をしぼって考えてみた。んー。んん? あー、なるほど。本を脇に抱えつつ、ポンッとこぶしで手の平を叩く。

「そうか。2年生か」

 俺の回答に相手は、ちょっと驚いた顔を浮かべたあと、あらためて挑戦的なまなざしを向けてきた。

「その心は?」

「いや、そんなに背が低いんだから、2年か3年かで悩むくらいなら学年が低いほうに決まって……いってぇ!」

「アホか! ミステリファンなめんな!」

 勢いよく前に突き出された台車のへりが俺のくるぶしに直撃した。地味に痛い。

「最初にあんたに話しかけたとき、わざわざあたしが敬語使ったってことは、あんたが上級生の場合も考慮している、ってことでしょ!? ってことは当然、それより上がいない3年生ってことはありえないじゃない!」

 台車と本棚の狭い隙間をするりと抜けて、俺の傍に来た。読もうと思っていた本を取り上げた。なんとなく目がいった相手の上履きは2年生を示す赤色だった。

「『アクロイド殺人事件』~? あんたにアガサ・クリスティは早すぎる!」

 俺が読み途中だったその本は、振り向きもせずに正しい位置へと戻されてしまった。そして相手は、ドイルも捨てがたいけどやっぱりここは、などと呟きながら目を閉じたまま、棚に並ぶ表紙を次々と指先でなぞる。その感触だけで目的の本を見つけられるらしく、本棚から2冊の本を引っ張り出してきた。

「はい。基礎から始めないと悪い癖つくよ」

 手渡された本には「ポー短編集」と書かれており、2冊はその1巻と2巻だった。

「全部は読まなくてもいいかな。とりあえず『モルグ街の殺人』と『黄金虫』、あと『黒猫』だけでいいわ。時間があったら残りも読んでみて」

「いや、その、さっきの本、読み途中なんだけど」

「だからどうした」

「……なんでもない」

 その場を後にしようと背を向けたところで、再度、呼び止められた。

「あんた、名前は?」

狭霧さぎり狭霧さぎり正人まさと、1年3組の出席番号7番」

 これだけ教えればもう十分だろう、というところまで答えておいた。俺の返事に、相手はまた口の端を軽く上げる笑みを、ニヤリ、と浮かべた。

「了解」

「なんでだよ」

「あんたがそれを返す前に、他の作家に手を出さないように図書委員の間で根回ししとく必要があるから」

「おい、てめえ」

「ちょっと、あんた。いい加減、敬語使いなさいよ。あたし、先輩よ?」

「お前に使う敬語はねぇ!」


 悔しいことに貸してもらった本と、特に薦められた短編は面白かった。読み終えたとき、ふと、そういえば相手の名前を聞いてなかったことに気づいた。

 もしかしたら昔見た映画のように、貸し出しカードから分かるかもしれないな、と調べてみたが、それらしき名前は見つからなかった。

 まあ、縁があれば嫌でもまた会うだろう。そのときの俺は、そんな悠長なことを考えていた。

 その予想は間違ってはいなかったが、正直想像してたのとは違う形で当たることになった。

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