第66話 別れ

イラステーは寝付けずにただ闇を見つめていた。

突然記憶がよみがえり、体が痙攣することが時々あった。

そんな自分が哀れであり惨めだと感じた。

こうして孤独に闇の中にいれば、いつかは溶けて何も感じなくなるのだろうか。

そうなれば楽かもしれない。

扉がゆっくりと開く音と同時に明かりが漏れ入って来た。

「イラステー、起きているか。」

ラドゥケスだった。

身の内に明かりがともるような希望が湧きおこり、イラステーはゆっくりと体を起こした。

「ええ。」

燭台を片手にラドゥケスはがそっと近づいて来た。

「あと数刻で出立する。一目会う時間ができてよかった。」

灯りを台の上に置くと寝台に座った。イラステーは少し端に寄った。

「あなたも体を休めないといけないのに…」

イラステーはかすれ声で呟いた。ラドゥケスは優しく微笑んだ。

「俺は大丈夫だ。

城の仕事ばかりで体がなまっていたくらいだ。

お前は眠れたか?」

イラステーは首を横に振った。

ラドゥケスはイラステーの顔にそっと手を当てた。

「暗闇が怖いか?」

イラステーは目を見張った。

「侵入者があってはいけないから窓のある部屋は避けた。

安全が確認できるなら明り取りのある部屋に移ってもいい。」

どうしてイラステーが闇を恐れていることがわかったのだろう。

彼女の疑問を察してラドゥケスは説明した。

「センテレウス将軍。エクトンと呼ばれていた方だが、あの方が教えてくれた。

暗闇の中で皆戦ったのだと。」

イラステーの頭にまた多くの記憶が沸き起こった。

目が辺りを伺ってしまう。不安が押し寄せてくる。

ラドゥケスはイラステーの両頬に触れた。

「ここは安全だ。イラステー、落ち着け。ここには敵はいない。」

イラステーは自分に言い聞かせるように何度も頷いた。

「すまない。こんなところに閉じ込めて。」

ラドゥケスはイラステーをそっと抱きしめた。

「恐ろしかっただろう。お前の傍にいてやれなくてすまない。」

イラステーは腕をそっとラドゥケスの背に回した。

しばらく会えない。彼の温もりを体に刻み込んでおきたかった。

「あなたにはもっと大切なことがある。大丈夫。」

ラドゥケスはそっと体を放してイラステーを見た。

「お前は物分かりが良すぎるな。男はもう少しわがままを言われるくらいが丁度いいんだ。」

「物分かりがよければ、あの時城まで来なかったわ。」

ラドゥケスが笑った。

「その通りだ。」

ラドゥケスはイラステーの額に自分の額を当てた。

「お前は強い女だ。だから安心してしまうことがある。

今朝、お前が味わった恐怖と悲しみを思えば1人にすべきじゃなかった。すまない。」

イラステーはラドゥケスから少し離れた。

今言うべきではないとわかっているが、彼以外に話せる相手がいない。

どうしても聞いて欲しかった。

「私、はじめて人を殺したの…」

ラドゥケスはイラステーの言葉にゆっくりと頷いた。

イラステーはそんなことかと一蹴されるかもしれないと思っていたが彼の反応を見て安堵した。

少なくとも軽んじられてはいない。

これがイラステーにとって大事な話であることがラドゥケスもわかっているのだ。

「だけど私は自分のしたことを見ていない。

ただ感触だけが残っているの。」

そう言った瞬間、手がまた感覚を思い出して震えだした。

イラステーは自分で自分の手を抑えた。

弱さは嫌悪すべきだと思って来た。

だがあのメラタイ以降、イラステーは自分の弱さばかり見せつけられる。

「あの記憶が体中を這うように湧き上がって消えないの。」

ラドゥケスはイラステーの両手を力強く包んだ。

「それは戦士の手だ。

お前は自分の力で大事な者を守ろうとした。だからこそ今苦しんでいる。」

それは普通の人間ならば当然なことだ、とラドゥケスは言った。

「俺にも覚えがある。」

イラステーは顔を上げた。

「あなたにも?」

「ああ。誰にでもあるさ。

この仕事に就いたらな。俺の相手は海賊だったが…」

「一生消えないの…?」

「どうだろうな…俺はもう慣れてしまった。」

ラドゥケスはおもむろにイラステーの片手をとり、口元に引き寄せて唇を当てた。

同じことをもう片方の手にもする。

そしてまたイラステーを抱きしめた。

「お前にはそんなことは慣れて欲しくない。

だからこの唇の感覚を覚えていてくれ。

もうその手に嫌な記憶を留めておく必要はない」

イラステーは泣きたくなった。

でもまだ吐き出したいことがあった。

これで最後にするからと心に誓った。

「私がエタンキア様の体を引きずってマルケ様のそばに置いたの。」

抱きしめたままラドゥケスが答えた。

「部下から聞いた。あれはお前がやったんだな。」

イラステーは少し首を振った。

「本当はサルトよ。」

ラドゥケスは何も反応しなかった。

何を言っているのか図りかねているのだ。

「あの時、私は何も考えられなくなった。

そしたら体が勝手に動きだしたの。

メラタイの試合中もよくそういう感覚になったの。

サルトは私の父の名なの。

父の名を借りたら、父が傍にいてくれているような気がしてた。」

「男の死体を絨毯で巻いて運んだのも…?」

イラステーはぎこちなく頷いた。

ラドゥケスは何も言わなかった。

「私が気持ち悪い?」

イラステーは自分が気持ち悪いと思っている。

あんな状況で、冷静に動ける自分は心がないのではとさえ思える。

イラステーはラドゥケスが何も言わないことに不安を覚えた。

「ラドゥケス…?」

イラステーがラドゥケスの目を覗くと、彼はそっと微笑んだ。

「今、御父上に感謝していたところだ。」

イラステーは目を見開いた。

「今、お前が生きているのもその御父上のお陰に違いない。」

イラステーは胸が熱くなった。

イラステーはラドゥケスに抱き着いた。

「私がいなければマルケ様は助かっていたかもしれないっ…」

ラドゥケスは背中をさすってくれた。

「それはない。むしろ助けられたんだ。

センテレウス将軍から全てを聞いた。

お前が奴らと先に交戦していなければこちらは全滅していた。」

ラドゥケスが小さく息を吸った。

「それに、それを言うならクレウス将軍を殺したのは俺だ。」

ラドゥケスが手を止めた。

「クレウス将軍をエオナイに呼び寄せることを陛下に進言したのは俺なんだ。」

イラステーはラドゥケスの顔を見た。

「それは違うわ」

ラドゥケスが怪訝な表情を浮かべる。

「マルケ様は王都ここに戻ってきたかったのよ。

ずっと一緒にいたからわかる。」

エオナイに向かう旅路でも感じた。

馬を駆るマルケ様は何かに導かれるような、追い求めるような、そんな姿だった。

「あの方はここにいるべき人だった。

あんな辺境の村にいる人ではなかった。」

ラドゥケスの強張った顔が少し緩んだ。

「なぁイラステー、だとしたら俺たちがあの方の死の原因を、自分たちに求めるのはおこがましいのかもしれないな。」

イラステーは、はっとしてラドゥケスを見た。

イラステーは口を開いて、そしてまた閉じた。

ラドゥケスはこの話題は終わりだとばかりに、これからのことについて話し出した。

「イラステー、お前はこれからしばらく王宮で暮らすことになる。レアソンがもうここへ来たな。」

イラステーは頷いた。

女官たちがイラステーの体を拭き清め、清潔な服へ着替えさせてくれた。

もちろん普段ならそんなことはさせないが、心身ともに疲れ切っていて断る気力がなかった。

その直後にレアソンが来てくれたのだ。

レアソンはあの柔らかな雰囲気でイラステーの身を案じ、必要な手助けをすると言ってくれた。

「あなたが頼んでくれたのね。」

「王宮での暮らしは窮屈だからな。

世話役が必要だ。

確固たる地位がない今は特に。」

イラステーの胸に不安がよぎった。

「ラドゥケス、私はマルケ様に会えるかしら…?」

ラドゥケスは表情を暗くした。

「あの方の死を公表するかも慎重な判断が求められてる。

もしかすればその事実もほうむられるかもしれない…。」

イラステーの顔に影が差すとラドゥケスの表情も曇った。

だがしばらく思案気な顔をするとラドゥケスは意を決したようにイラステーを見た。

「今しかない。」


深夜だが城の各場所には松明が焚かれていた。

イラステーはラドゥケスに導かれるままある部屋にたどり着いた。

部屋の入り口には衛兵が立っていた。

「シーラリスだ。中に用がある。」

衛兵はイラステーをちらりと見たが、有無を言わさぬ上司の物言いにただ従うしかなく、ただちに脇に寄り扉を開いた。

ラドゥケスはイラステーを先に中に入れ、自分も入った。

中は暗く、明かりもついていなかった。

「いいか。」

何を聞かれているのかはわかっていた。

イラステーにマルケの死を受け入れる覚悟があるのか確認したのだ。

答える代わりに繋いでいた手をぎゅっと握り返した。

ラドゥケスは自分が持っていた灯りを持ち上げた。

仄暗い中に浮かび上がるように彼の顔が見えた。

イラステーの目に涙が迸った。

声にならない声でマルケの名を呼んだ。

「マルケ様…」

ラドゥケスは止めなかった。

イラステーはマルケに縋りついた。

その皮膚は冷たく硬く強張っていた。

イラステーは彼の顔に手を添える。

死んでから初めてみる彼の顔だった。

いつも寄せていた眉間の皺は無く、マルケの顔はマルケではなかった。

肉体に魂が宿ってこそ、その者をつくるのだとイラステーは悟った。

ここにはもうマルケはいないのだ。

イラステーは必至で嗚咽を抑えた。

だが止めようと思っても止まらなかった。

本当に大事な人を失ってしまった。

もう二度と言葉を交わすことはできない。

もう二度と教えを乞うこともできない。

イラステーはないまぜになる感情を抑えつけ、マルケに最後の礼を尽くそうと努めた。

「本当にお世話になりました。

マルケ様に助けて頂いたご恩は一生忘れません。

どうか約束の地で安らかに。」

大陸では死後、真っ当な人間は約束の地に向かうのだと信じられている。そこには苦しみも悲しみもないのだと。マルケは間違いなくたどり着くだろう。

できればその傍にはあの方もいればいいと思った。

だがイラステーは口に出すのを控えた。

マルケはどう思っていたのかわからないのだから。

イラステーは自らの体を引き剥がすようにマルケから離れると、胸元で組まれた両手に視線が吸い寄せられた。

イラステーは無意識にその手首を掴んで動かしていた。

胸が跳ねた。

「どうした。」

ラドゥケスがイラステーの傍に立った。

「パルトよ。」

イラステーはラドゥケスを見た。

「これは私の村に伝わるお守りなの。

私がマルケ様に手紙とともに送ったものなの。」

マルケの胸元にそれは縫い付けられていた。

イラステーは両手で顔を覆った。

ラドゥケスはイラステーがまた悲しんでいるのだと思い、慰めるように肩を抱いた。

「イラステー、お守りはただのお守りだ。

避けられないものもある。」

イラステーは首を振った。

そして顔を上げてラドゥケスを見た。

「違うの。これはエタンキア様のパルトなのよ。あの方が作ったの。」

ラドゥケスが意味を図りかねて怪訝な顔をした。

「マルケ様に私がこっそり送ったの。

私が作ったものとエタンキア様が作ったものと。

これはエタンキア様が作った方よ。」

ラドゥケスは目を見開いた。

イラステーは再びマルケの手元に視線を戻した。

「偶然でもいい。それでもいいの…」

最後は独り言のように呟いた。

マルケはもう何も答えてくれない。

それでもイラステーにはどこかで2人のことを信じたい気持ちがあった。

イラステーはゆっくりラドゥケスに向き直り、泣き笑いの顔で言った。

「でも私のパルトがないわ…。

きっと別のチュニックに縫い付けたのね…」

「イラステー、それはこれか。」

ラドゥケスはチョッキの下に着ていたチュニックをグイと引き出して見せた。

イラステーは驚きで言葉が出なかった。

「先日、クレウス将軍から頂いたんだ。村に伝わるお守りだと。」

それは紛れもなくイラステーの作ったものだった。

「私は誰が作ったかも書かなかったわ…」

「おそらくわかっていたんだ。」

イラステーは再びマルケを見た。

マルケは多くの疑問を残して逝ってしまった。

マルケが何を思い都を去ったのか、この10年何を考え過ごして来たのか。エタンキアのことをどう思っていたのか。

しかしイラステーの頭の隅にハバシルのあの優しい女性の顔が浮かんでしまった。

泣き顔すら隠す優しい女性だ。

全ては単純ではないのだ。もう推し量ることしかできないけれど。

それでも今はもう躊躇わずに言える。

「マルケ様。あちらでどうかエタンキア様をよろしくお願いいたします。」



部屋に戻りイラステーはラドゥケスに向き直った、

「ありがとう。お別れが言えてよかった…」

ラドゥケスは何も言わずにイラステーを見ていた。

もう時間なのだと悟った。

イラステーは動揺すまいとした。

「気を付けて。」

しかしイラステーの瞳は揺れた。

彼がそれを見逃すはずがなかった。

ラドゥケスはイラステーを抱きしめた。

「絶対に戻ってくる。だから祈っていてくれ。」

イラステーは腕に力を込めて頷いた。

ラドゥケスが体を放した。イラステーは心の奥に広がった喪失感に気づかないふりをした。

そうしてついに彼は去って行った。

イラステーは声を殺して泣いた。

大事な人は去って行く運命なのかもしれないと思う。

イラステーは自分のために泣いた。

誰にも見られず流す涙は自分のものだ。

イラステーはひたすら祈った。

愛する男がどうか自分の元へ戻ってきますように。

その希望無しにイラステーはもう生きていたいとは思えなかった。



ラドゥケスは港まで馬でかけた。

誰にも見られぬように仄暗い道を走った。

昨日一日かけて自分とエクトン、そして連れの2人を受け入れてくれる商船を探した。

出奔の準備まで僅かだ。もう3人は船に乗り込んでいるだろう。

ラドゥケスは馬を走らせながら丘にそびえる王宮を仰ぎ見た。

その姿を目に焼き付けると、もう二度と振り返ることはなかった。

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