第26話 別離

明朝にハグノスの屋敷から、迎えが来るということだった。

エタンキアがあの場を去った後、マルケは静かに話し出した。

「イラステー、今からでも遅くない。ここから去れ。あれのことは私がどうにかする。もともとお前には関係のないことなのだ。今後10年いや、もしかすれば一生彼女のものとして生きていかなければならないかもしれない。私のために人生を棒に振る必要はない。」

マルケはそう語りながらも、もうどうすることもできないのだと、イラステーは悟っていた。

イラステーが逃げれば彼女がどんな手段に出るかわからない。

そんな危険を冒してまで逃げるわけにはいかなかった。

イラステーはこれから迎える暗雲立ち込める未来について努めて考えないよにした。

その代わり彼女について思考を巡らせた。

あの女性はマルケにとってどんな人だったのだろうか。

だが今は尋ねることはできない。

イラステーはマルケの言葉に答えた。

「棒に振るわけではありません。私はマルケ様にただ恩返しがしたいだけなのです。それに牢獄に捕らえられるわけではありません。

きっと、便りぐらいは出せます。」

イラステーは気丈に答えた。

やっとマルケはイラステーを視界に入れた。だが表情はまだ硬い。

「彼女がそんな時間をあたえるだろうか。」

「なければ作るまでです。人目を盗んででも、屋根の上に隠れてでも。

どんな辛い仕事でも、マルケ様の特訓より辛いものはありませんから。」

マルケは笑おうとして、失敗した。

そして片手で両瞼を覆った。

「こんなかたちでお前を手放すことになるとは…本当にすまないことをした。」

その声は震えていた。

イラステーの頬に涙がこぼれた。

「こんなことならあの時、意地でもソランの元に留めておけば…」

イラステーが考えないようにしていたことだ。

しかし、イラステーは自分で道を選んだのだ。

「そんなことをおっしゃらないで下さい。

これもきっと神様のご意志です。悪いことにはなりません。

どうかソランにも心配しないようお伝え頂けますでしょうか。」

イラステーはマルケの悲しみに飲み込まれまいとした。

急いで自分の涙をぬぐう。

「もちろん、あの方にもこのことは内密にお願いいたします。」

マルケはイラステーを見た。

「シーラリス将軍か。」

「はい。あの方の邪魔にはなりたくない…。」

「わかった…。」

マルケはやりきれない表情を浮かべた。

「イラステー、今この国はとても不安定だ。

もし何かあれば、すぐに故郷に戻るんだ。

その時にはお前を縛るものは何もないのだから。

逃げて生き延びると誓っておくれ。」

やはりマルケは国と命運を共にするつもりなのだ。

だがそれは覚悟していたことだ。

「はい。」

イラステーは頷くしかなかった。

これが最後の言葉となるのかもしれないのだから。



まだ仄暗い朝に、イラステーはマルケと王宮の門に立った。風が海のにおいを運んでくる。きっとハグノスの館もそうに違いない。

気づけば、朝の静かな町の中を闊歩する、蹄の音が響いてきた。馬にまたがった私兵らしき人がやってきた。その男は馬から下りることはせず確認事項だけを告げた。

「お前が今日からハグノス家に使える使用人か?」

「はい。」

男は名乗りもしなかった。

あごで着いてこいと合図をする。

イラステーは歩き出す前に、マルケに向き直り深々とお辞儀をした。

この10年間、師として、父として、多くのことを与えてくれた。

その方に恩返しができるのだ。そう考えれば悲観的に考える必要はどこにもない。

「どうかお体を大事にして下さい。ご無理なさいませんよう。」

マルケはその無骨な手で、自分の顔を覆い嗚咽をもらした。

マルケのそんな姿を見たのは、初めてだった。

「…すまない。イラステー。」

イラステーの目にも涙が滲んだ。

自分は何故泣くのだろう。

これが今生の別れになるからだろうか。

それとも自分の哀れな人生を嘆いているのだろうか。

それは、出してはいけない答えのような気がした。

「いいえ、そんなことをおっしゃらないで下さい。ここに来ることを選んだのは私自身でございます。そしてこの10年、本当に幸せな日々でした。

感謝してもしきれません。」

マルケの目は覆われたまま、イラステーを見ることはなかった。

イラステーは歩き出した。

ハグノス家に仕える。それは誰もが羨む地位に違いなかった。

堅牢で美しく、入れば二度と出ることの叶わない檻。

10年、もしくは一生出ることの叶わぬ門をくぐるため、イラステーはただ静かに朝霧の中に消えていった。

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