海と平原の風

壇上あい ダンジョウアイ

テレトーヴァ

第1話 剣闘士サルト

「勝者サルト!」

審判員は高らかに叫んだ。

円形闘技場の観客から大きな歓声が上がる。

観衆がこのサルトと呼ばれる金髪の少年に惜しみない賛辞を贈った。中には罵声も聞こえるが、多くがサルトの味方だ。

燃えるような日差しとそれに負けない熱い喝采が、叩きつけるようにサルトに降ってくる。

サルトは荒い息と興奮にまかせて叫びたかった。

今勝利の咆哮ほうこうをあげれば群集は必ず答えてくれる。

それはさぞ気持ちがよいだろう。

しかし彼はその衝動を何とか抑えた。湧き上がる喜びの波を飲み込むと、ようやくサルトは軽く手を挙げ観客の声援に答えた。

観客は彼の反応に喜び、場は一層盛り上がった。

多くの観客は喜んでこちらに手を振る。サルトは努めて冷静を装った。

勝利は嬉しかったが、この無責任な観衆たちをサルトは好きになれなかった。

だが、同時に嫌われることも恐れていた。

サルトは彼らの恐さをここ数年で十分過ぎるくらい学んでいる。

だからこそ観客とはつかず離れずの距離を保つように努力してきた。

それでも勝利するたびに、胸の奥から爆発するように沸き起こる興奮と喜びは抑えがたいものであった。ましてやこんなにも多くの人間が自分ひとりに注目し、興奮の叫びを上げている様は、とても甘美で抗いがたい。この何ものにも代えがたい至上の優越感は一度味わえば誰もが癖になるはずだ。

それでもサルトはよく自制した。誘惑に負け、その快感を味わえば、奈落の底に叩き落されることを知っているからだ。

所詮、群集が求めているものはサルト自身などではなく血なまぐさい戦いとそれに打ち勝つ勇者であり、またはその娯楽性なのだ。

そしてその全てが刹那的であり、信頼するに足らない。

サルトはこうも考えていた。自身が注目されるのは自分の肩書きにもあると。

もし彼が軍隊上がりの鍛え抜かれた屈強なわが国(エオナ)の戦士ならば、こんなに注目されることはないだろう。サルトはその条件のどれにも当てはまらない。

体は華奢で成人したにも関わらずその姿は少年そのまま。勝ち進んではいるものの、試合内容はいつも辛くも勝利を得る綱渡りのような状態だ。


 神の加護を受けた少年剣士


そんな名前で呼ばれるようになり、サルトは鳩尾みぞおちに大きな穴を空けられたような恐怖を感じた。そう呼ばれるようになった出来事は今でもサルトを冷静にさせてくれる。


それは初めてサルトがこの大会メラタイに出場した年の出来事だった。

サルトはそこである戦士と出会った。出会ったと言っても挨拶を交わしただけなのだが、今でも彼を忘れることができない。

その男はサルトが来る数年前から出場し、少しずつ力をつけ成績を伸ばしていて、観衆たちのお気に入りの戦士でもあった。

そんな彼の経歴にもサルトは目を引かれたが、それ以上に嬉しかったのが彼のサルトに対する対応だ。

新参者で戦士としては誰よりも見劣りするサルトを、他の出場者は嘲り、からかい、脅しもしたが、その男だけはそんなことは絶対にしなかった。

それだけのことだが、サルトが彼に好感を持つ理由としては十分だった。

観客はこの人柄と努力を認め、彼を応援しているに違いないと当然のように思った。

サルトは心の中で彼を応援していることに気づいた。彼の試合は出来るだけ立ち会うようにした。観客も多くがその男の味方で、一緒になって彼の勝利を祈った。

サルトは優勝しか許されない。それは、サルトがこの大会に出ることを決意した時の誓いだ。

それはつまり、必ず彼と戦わなければならないことを意味していたが、それでも彼の勝利を願う衝動は止められなかった。

しかしその年の優勝者はサルトだ。サルトはついに彼と戦うことはなかった。

サルトが辛くも勝利を物にし、なんとか決勝への切符を手に入れた直後、彼の最後の試合は始まった。それに勝てば彼も決勝へと進み、サルトと戦うことになる。

彼の相手は大柄で、剣の技術こそ未熟だが武器はその腕力にあった。サルトの相性からすると、力任せの男に勝ってもらう方が有利だ。

しかし、サルトは応援する相手を変えるつもりはなかった。

サルトはその試合の終わりを今でも鮮明に覚えている。

試合は通常より長引いた。

もはや体力勝負のような戦いで、どちらのスタミナが切れるかの問題だ。

そんな試合もついに終盤を迎える。勝利の女神は大男に微笑んだ。

力任せの攻撃に彼が倒れた時、大男は剣を振り上げ相手の剣を打ち砕いた。

もはや抵抗の術はなかった。勝敗は決したのだ。

しかし大男は剣を止めなかった。大男は間髪いれず再び剣を振り上げ、彼の手首を切り落とした。

サルトは思わず叫んだ。

彼の手首は地面を打ちつけて落ちた。

先ほどまで体の一部だったものが砂にまみれる様はおぞましかった。

しかし、更に受け入れられなかったのは突然沸き起こった歓声だった。

サルトは弾かれるように観客席を仰ぎ見た。

観客の熱気が、サルトを押しつぶした。到底理解できない興奮が渦巻いていた。

サルトは逃げるように建物の中に隠れた。気持ちの整理ができなかった。

分かっているのは、今まで一緒に応援していると思っていた自分が情けないほど愚かであったことだ。

一瞬でもあの一部となり喜び、歓喜していたかと思うと吐き気がした。

奴らは人柄や努力なんて見てはいない。彼らを愉しませるおもちゃが欲しいだけだった。

しかし、彼らの反応は決して間違いではなく、むしろそういったことを求めて彼らはここに集まっているのだ。

この大会に出場する者は戦いの中で起きるあらゆる損失を訴えることができない。出場者はこの場に踏み入れる前にそう誓わされている。

命を落としても文句は言えない。

頭では分かっていたが現実として理解できていないことをサルトは改めて自覚した。しかし、それらを他人の試合で気づけたことは幸運だったのかもしれない。

彼らがいるから自分はここにいられる。自分が自らと飛び込んだ場所はそういう場所だった。同じ穴のむじなである以上、自分は綺麗でいられるはずがなかった。

しかし当時のサルトはまだ混乱したままで、それでも次の試合に出場し勝利した。大男は先ほどの持久戦で疲れきっていたし、相性的に小回りの聞くサルトの方が有利だった。気づけば男は倒れていた。両足首からは血が噴き出していたが、今になって考えると陰湿なやり口だったかもしれない。

気づかぬうちに意趣返しをしたつもりでいたのだろうか。

その時から、サルトは望まぬ名前を与えられた。

先ほどまで大男が得ていた声援は今やサルトに向けられていた。

そのことも気分が悪かった。

試合の後、サルトは自然にあの手首を失った男を捜していた。しかしついに彼を見つけることはできず、その後の消息もわからずじまいであった。

あれから彼は大会に姿を現していない。あの後生きながらえたのだろうか。

それでも片手を失い、不自由な生活を余儀なくされていることは確かだ。

そして剣士としての人生は絶たれたことはまちがいない。

サルトはこの数秒で数年分の記憶を思い返してしまった。心が冷えていくのを感じながら、歓声に答える手を下げ、走り出したくなるのを抑えながらゆっくりとその場から離れた。

審判員はすぐに次の対戦者の名を叫び、観客は与えられた次の出し物に心奪われていく。そして喧騒はまた一層激しくなった。

客席の影に入った瞬間疲れがどっと押し寄せてきた。なぜ自分はこんなところにいるのか。そんな疑問が浮かんだ時、答えとなる声がサルトの耳に届いた。

この喧騒の中でも、聞きなれた声は聴き逃さない。

その声はまた彼の名を呼んだ。

「サルト!」

10歳を過ぎたくらいの鳶色の髪と瞳の少女が、満面の笑みを浮かべ駆け寄ってきた。この場には似つかわしくない平和と安寧の使者だ。

その姿を眼に留め、はじめてサルトは心から安堵し顔を緩ませた。

「セラ…」

かわいい妹を勢いのまま抱き上げる。

「準決勝進出おめでとう!」

「ありがとう。」

サルトは喜んで少女の言祝ぎに答えた。

あの時もこうして妹を抱きしめたことを思い出した。

観客の狂気から逃れたあの時も。

サルトはこの小さな体に触れていれば邪気が払えるとでも言うように腕に力が入っていた。セラはそれを甘んじて受けた。

サルトがセラを降ろしたのは背後からの大きな歓声があがった時だ。

サルトは競技場の方を振り向いた。目は歓声の原因を追う。

しかしセラがサルトよりも先に答えを見つけていた。

「ラドゥケスだよ、ソモーリャの海男アカメイル、ラドゥケス。

今年の優勝候補者。」

歓声は勝利によるもので、そして勝者がそのラドゥケスなのだとセラは言外に告げる。

「アカメイル? 軍人か?」

「そうかもしれない。

めちゃくちゃ強いもん。」

サルトはやっと競技場を去る男を見つけた。倒れた敗者に目もくれず、サルトとは反対側へ歩いていく。お陰で顔を拝むことはできなかった。

サルトは表情を曇らせた。セラの表現が大げさであることを祈りながら、また自分の判断を大いに後悔していた。

サルトは、大会の開会直前まで村の仕事をしていたため、このメラタイの開催地テレトーヴァに到着したのが開催前日の深夜になってしまった。

そういったわけで、今年の試合の情勢が全く把握できていない。

今でさえ、セラに教えてもらうまで今年の優勝候補者の名すら知らなかった程だ。負けることが許されないサルトにとって、不安要素はできるだけ把握しておきたい。

もっと早くに来るべきだったな…、サルトは意識せずに呟いた。

その言葉を拾って、セラが慰める。

「今さら言っても仕方ないよ。今年の種まきは大変だったから。村の人には、これ以上頼るわけにはいかなかったし…」

サルトの家は大変貧しく、村や近隣の支えがあって何とか生活していた。

父は先の戦でサルトが7歳の時に亡くなった。

今は床に伏して居る母と小さな妹が唯一の肉親であった。

ここ3年出場しているこの大会は、患っている母の高価な薬と生活費のために参加している。賞金の額は確かに平民には余りあるものであったが、稼ぎ頭もなく病人を抱える一家には決して余裕があるとは言えない。

実際1年も経たず、蓄えはつきるのだ。

それはつまり、賞金がなくなれば一家がのたれ死にすることを意味していた。

サルトが、あくまで大会優勝にこだわり続けるのは、そのことを重々承知しているからに他ならない。それがたとえ命を懸けることになっても。

「そうだな…それでその男について、他には何かわかった?」

「それがね、そいつ今までの試合全部3分で勝ってるよ。お客のおじちゃんに聞いたの。」

サルトは見る間に表情を無くし、胃を掴まれたような気分になった。

ついに潮時が来たのだと自覚する。

サルトが欠かさず出場してきたこの大会も毎年自信があって参加しているわけではなく、出場している戦士たちをためめつすがめつ観察し、命からがら勝機を物にしてきたのだ。そしてついに今年、その命運も尽きたらしい。

荷物をまとめようかサルトは逡巡した。

優勝できないとわかっている大会に出場し続けることは自分の利益にならない。

危険しかそこには残らないからだ。しかし、ここで棄権すれば、来年の出場に差し支えるかもしれない。しかも、棄権は賞金を手にする可能性をゼロにするのだ。

賞金がなければ結局は野垂れ死にだ。

「でも困ったなぁ」

セラの気の抜けた言葉など聞いている余裕はなかったが、小さな妹はそれを知ってから知らずか話を続ける。

「ラドゥケスってとってもいい男なの!私、アカメイルって会ったことなかったけど、話で聞いたとおりの姿だったよ!しかも、海神も真っ青の鍛え抜かれた体!

男に免疫がないサルトが、あんなのと正面から戦える⁉」

なおも悩み続けるサルトであったが、頭の中で急にセラの言葉がまき戻された。

何を言われたか理解が追いつくと、サルトは慌ててセラの口を塞ぎ、人気のない所へ引きずり込んだ。

円形闘技場の内円を走る通路は、多くの支柱で支えられている。

人は多いが、支柱の数が勝っているため死角は多く、その影に隠れれば人の目に着くことはない。

「セラ!気がふれたのか⁉」

サルトは声を殺して叫んだ。セラは口を押さえられているが、その目に動揺はなかった。

サルトは周囲をそっと見回し、誰もこの会話を聞いていないことを確認した。

セラに、しゃべるなよ、と一言言って彼女を解放する。

と言ったそばからセラは先制攻撃を繰り出した。

「誰もいないから言ったの。これくらい大丈夫だよ。サルトは神経質すぎるの!」

イタズラ好きの笑みをおまけのように着けて言い切った。

サルトはいつもこの顔に弱かった。どんなシリアスな状況もこの顔で乗り切ってしまう少女をサルトは心の中で呪った。

しかし生真面目なサルトがこの小さな妹のそんな所に救われているのも事実だった。だからこそこんな遠方まで連れて来ているのではないか。

「そうかもしれない…」

苦しい生活の中、サルトは何度となく彼女の存在に救われた。

今回もそうであってほしい。サルトは祈るような思いで、可愛い妹の頭を撫でた。セラはサルトの胸中を汲み取ってか、それを静かに受け入れた。

「部屋へ戻ろうか…頼みたいことがあるんだ」

セラはイエスの代わりに満面の笑みで答えた。

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