メディアにおけるAIの扱い


最近のやや過熱気味な「人工知能」に関する報道に対して気になることの一つは、報道する側が、まるで(すでに?)AIそのものに自我や嗜好性があるかのように扱っていたりすることだ。


アルゴリズムであろうがディープラーニングであろうが、今時点でのAIはまだ、「作った人間の設定」に沿って動いているに過ぎない。


小説の創作やコマーシャルの作成、果ては新入社員の面接やビューティーコンテストの審査員までAIにやらせてみているのはいいのだが、研究のために感情をシミュレートしてその変化を人間のように振る舞える『反応』を作り出したとしても、それは感情そのものを保有しているわけではない。


それはただの、膨大な組み合わせの先にある反応の一つに過ぎない。

少なくとも今のところは。


そこに、どんなに感情、意思、意欲、欲求のようなものを感じ取ったとしても、それは100%見ている側の誤解というか『思い込み』であり、壁の模様やシミに人間の顔を見いだすようなものに過ぎない。


よく、『黒い点が二つ並んでいれば、人はそれを顔と認識する』と言われるが、感情や意識というものも似たようなもので、人は、対象に思考や感情があることを、むしろ当然として捉える傾向がある。


それを、まるですでにAIが自我を持っていたり、独自の嗜好性を持っているかのように報道する感覚には、強い違和感と、視聴者の興味さえ引ければ(科学的な)事実はどうでも良いというか、気にも留めないという、恐ろしく危険な匂いを感じる。


取材や報道番組を作る側が本当に無知であれば仕方が無いが、それはそれで、そういう『報道番組』を作る資格というか、能力の無い人たちが知識を扱う番組制作を牛耳っているということになるわけで、別の問題を感じたりもする今日この頃だ。


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< ちなみに、AIやロボットの研究をしている方々が、『わざと』人間っぽい振る舞いや受け答えをさせている(それがプログラム通りの動きに過ぎなくても)のは、鉄腕アトムを夢見ているからでは無く、『どうやれば、ただの機械に心理的な近しさを感じて貰えるか?』を探っているからだったりする。>


< ちなみにちなみに、古くなった車のオモチャは、躊躇無くゴミ箱に放り込めるのに、『人形やぬいぐるみは捨てられない』という人は結構多い。>

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