nyaa

水沢妃

第1話

 nyaaと鳴くそいつは小さな口から紛れもなく猫の鳴き声を出している。

 しかし、俺の目の前で段ボール箱に入れられたそれは、どう見たって猫耳の生えた幼い少女にしか見えなかった。

 小雨に濡れた段ボールは崩壊寸前。その中でくたびれたタオルに縋りつくように縮こまっている少女が上目遣いに俺を見ている。

 次に口から漏れたのは、人の言葉。

「あのすみません、通りすがりの方。」

「はあ。」

 思わず返事をして、いやいや待てと首を振る。

 深夜零時を回った真夜中。電柱に取り付けられた街灯が瞬く住宅街の暗い道。それに久しぶりに酒も入っている。いつもとは違うシチュエーションでおかしくなっているだけだ。こんなふうに人間が捨てられているはずないじゃないか。

 俺がそっぽを向いていると、そいつはもう一回nyaaと鳴いた。

 おそるおそる見下ろせば、相も変わらずうるうるとした目がこちらをまっすぐに見ている。

 もうだめかもしれない。俺は思わず、「どうしたんですか。」と声に出してしまっていた。

 三毛猫に似た耳がひょこひょこ動く。その後ろでシマシマの細いしっぽも揺れている。

「できれば、拾っていただきたいのです。」

「それはまた、どうして。」

「見てわかるでしょう。帰る家がないのです。雨をしのぐ屋根すらないのです。このままでは死んでしまいます。」

「傘あげるから、それでしのげない?」

「それではあなたが濡れてしまうではありませんか。」

 なんだこの子、やさしいな。

「じゃあ、近くに神社があるから、そこの軒先に避難したらどうかな。」

 俺が言うと、ねこ耳がしょんぼりとうなだれた。それから両手で右足を俺に見えるように差しだす。俺はそのとき初めて、彼女が丈の短いワンピースを着ていることを意識した。

「この通り、わたしはここから動けないのです。」

 その細い足には古傷の跡らしき白い筋がガラスの割れ目のように這っていた。よく見れば途中で折れてしまったように変な方向に傾いている。手を離すと、右足は力なくタオルの上に落ちた。

「生まれたときからこうでした。これのせいで親に捨てられましたが、それでも今日まで何とか生きてきたのです。」

「やめろよ。同情しちゃうじゃんか……。」

 酒のせいか、いつもは出ない涙まで出てきた。感涙必須の映画を見ても泣かないのに。やっぱり今日はおかしい。

「それに今は猫の時間。朝になるまで待てるかどうか。」

 よく見れば、彼女の肩は小刻みに震えていた。

「猫の時間?」

「はい。人の言葉で言うと真夜中や丑三つ時といわれる頃のことです。元々わたしたちのいた世界に似ているために、未熟なものは本来の姿になってしまうのです。」

 わたしたちのいた世界。本来の姿。猫の時間。滔々と語る彼女の言葉は理解し難くて、俺はぼうっとした頭で、なんとか言葉をひねり出す。

「それ、喋ってる間に夜が明けそうだな。」

「連れて行ってくれれば、詳しくお話しできますよ?」

 青ざめた顔で、猫のように彼女は笑う。

 どうして、人はこういう時無理にでも笑うのだろう。いや、彼女はまず人じゃないけど。

 仕方がない。少しばかり、この子に付き合ってみるとしよう。 

「独身男の部屋に上がりこむ勇気があるって言うのなら、別に構わないけど。」

 少女はあごに手を当てて考えるふりを五秒ほどした。どうせもう心は決まっているくせに、律儀なやつ。

 そう思ったのだが、どうやら本当に考え事をしていたらしい。

「その場合、真っ先にベッドの下をチェックしても……?」

「なんで?」

「男の人の人柄が一番よくわかると聞いたことがあります。」

「……馬鹿か、お前。」

 俺は一つため息をついた。

 なにが、とはもちろん言えないけれど。

「そんな王道な場所に隠すわけないだろ。」



 家の門を開ける俺の背中で、nyaa! と驚く声がする。彼女に持たせた傘が揺れて水滴が飛び散った。

「一軒家!」

「そんなに驚くか。」

「独身男なんて言っていたので、てっきりアパートかと。」

「実家だよ。」

「……ニートですか? 引きこもりですか?」

「どっちもこんな夜中に出歩かないだろ……。」

 情け容赦なく言葉が雨のように降ってくる。一体どこでこんな知識を仕入れたんだか。

 玄関までの短い道に飛び石が並んでいるけど、こじんまりした家。少し広めの庭には小さいながら池がある。後で鯉に手を出さないように言っておかないと。

 この家は爺さんの趣味で建てられたものだと聞いている。そのころは羽振りがよかったんだと。

 玄関の引き戸を開けると、まず背負っていた猫を降ろして電気をつける。自分で動けないと言っていた彼女は廊下に上がると四つん這いになってずりずりと歩き出した。しっぽによってワンピースが持ち上げられていて、かなりきわどい。

「自分で歩けるじゃんか。」

「外でこんな格好をしていたら怪しまれるでしょう。」

 確かに、変なおじさんが寄ってきそうだ。

「猫の姿になれば三つ足で歩けるのです。ですが、この姿だとこうなってしまうので、基本的に外では歩けないのですよ。」

 はー、だから猫の姿に戻る朝まで待たないといけないのか。

 ……だめだ。完全に彼女のペースに乗せられている。

「すべてはわたしが未熟なのがいけないのです。」

 暗い廊下で立ち止まり、猫耳が垂れ下がる。口よりも多くのことを語る耳だ。俺が廊下の電気をつけるとびっくりして元に戻ったが。

「ちょっと待ってろ。」

「お部屋の片づけですか。」

「そんなに散らかってないし。変なものないし。」

 居間に彼女を案内し、俺は自分の部屋に向かった。彼女の新しい服を見繕うために、荷物を置いて箪笥を開ける。普段開けない下のほうの段の一番奥にしまいこんだTシャツを引っ張り出す。

 学生時代、友人が置いていった特大Tシャツ。男物なうえに元々そういうデザインなのか縦に長く、俺が着るとどうしようもないくらいどうしようもなくなるから放っておいたのだ。

 なぜこれを選んだか。必要ない、というのもある。けれど一番の理由は、全面に魚柄の印刷がされているからだ。しかも超リアル。

 猫に着せるのにこれほどいい服も他にあるまい。

 居間に戻ると、彼女は仏壇の前にいた。

 静かに手を合わせる姿は、人間のそれと変わらない。

 目を開けた彼女はすぐにこちらに気がついた。

「お家の方は、皆さんこちらにいらっしゃるんですか?」

「……ああ。そうだよ。」

 彼女はもう一度仏壇に向かって頭を下げた。

「お邪魔しております。息子さんは親切な方です。決して変態ではないので心配なさらぬようお願いします。」

「今から悪い人になってもいいんだぞ。」

 冗談めかして言うと、悲し気な目で「せっかく誤解を解いていたのに。」と言われてしまった。不思議なところで肝が据わっている奴め。

 持ってきたタオルとTシャツを渡すと、素直に濡れている髪を拭き始めた。それを見届けて、いったん部屋を出て台所に行く。戻ってくると、彼女はしっかりTシャツを着ていた。片方の肩だけオフショルになってしまっているが、丈は膝より少し下ぐらいになっている。そのままだとただサイズの合っていない布をかぶっているように見えるので、俺は昔弁当箱を包むのに使われていた大きめの布を細く折り、腰のあたりに巻いてやった。

「おおー!」

 彼女は膝立ちになって喜んだ。

「喜ぶのはまだ早いぞ。後ろを向け。」

「後ろ?」

 素直に背中を見せた彼女のしっぽが服の下からのびていて、俺の目の前でふわりと曲がる。それを傷つけないように払ってから、だいたいのあたりをつけて腰より少し下の生地を持ち上げた。

「え。」

 と彼女の驚く声と、台所用の少し大きめのハサミのじゃきりという音が重なった。一拍遅れてしっぽの毛が総毛立つ。

「な、なにをしたんですか。しっぽ切ろうとしてたんですか!?」

「違う。しっぽの穴をあけたんだ。」

「あな!?」

 飛び退いた彼女が、おそるおそる尻のあたりを探る。すぐにハサミで開けた切れ目にたどり着いて、素直に尻尾を出した。穴の位置はちょうどよかったみたいだ。

「これで四つん這いになっても変じゃないだろ。」

「……はい。」

 猫耳がうなだれた、と思ったら、いっしょに顔も見えなくなった。

「ありがとうございます。」

「いいよ。どうせいらない服だし。」

 友人に報告する気もない。相手も「お前の服、猫耳少女にあげたから。」とか言われても……いや、でもあいつそういうアニメキャラ好きだったような……、やっぱりやめておこう。

「もう遅いから寝なさい。そして朝になったら神社の軒なりなんなり、好きなところに行きなさい。」

 しっぽをくねらせてふわふわと動いていた彼女は、俺の投げやりな言葉にぴたりと動きを止める。

「話、聞かなくていいのですか。」

「いいよ、別に。」

 正直もう眠いし、

「俺は、ちょっと喋っただけだけど、知ってるやつを見殺しにしたくなかっただけだしな。」

 言葉にしてから、ああそうだったんだと気がついた。

 この子のためじゃない。俺が嫌な気持ちになるのが嫌で。

 なんて自己中なやつだろう。

 案の定、彼女は猫耳を垂らして力なく「そう、ですか。」と寂し気に呟いた。俺は気まずくなって立ち上がった。

「毛布取ってくる。」

 彼女はもう一度、今度は俺の目を見て「ありがとうございます。」と、はっきりした声で言った。


 朝になって居間を見てみると、そこに猫耳少女はいなかった。やっぱり夢かと思ったが、ちゃぶ台の上には与えた毛布と服がきちんと畳んで置いてある。

「夢じゃなかった……。」

 残念ながら、そのことをかけ回って喜べるような歳でもない。

 庭に続く窓を開けた。小さな縁側の向こうに石がぽつぽつ続いていて、その先に池がある。よく見れば朝日が反射してきらきらと瞬く水面の光を捕らえんと、小さな生物がうごめいていた。

 ……生物?

 放ってあったサンダルをつっかけて庭に出る。

「お前、まさか。」

 池の縁にいた三毛猫が、ふっとこちらを振り向いた。くねくね動くしっぽ。泣きそうにうるんだ瞳。どことなく昨日の少女を思わせるそいつは、小さくnyaaと鳴いた。

 ひょこひょこと不思議な動作でかけ寄ってきた小動物を両手で抱え上げる。胴をつかまれて、そいつは前足を上に上げた。

 俺は池の中を覗きこむ。

「朝飯取ろうとしてるわけじゃないよな……?」

 さらに前足がぴんと天を向いた。確かに昨日と同じように鯉が三匹泳いでいる。無実らしい。

「お前、ここにいる気か。」

 こちらの言葉は通じているのか。「nyaa」という返事にうなだれる。

「……まあ、いいか。」

 どうせさみしい一人暮らし。誰の許可を取る必要もない。

 心配そうにこちらを見つめる猫を地面に下ろしてやる。

「いいよ。お前の好きなだけ、ここにいな。」

 そう言うと、彼女は嬉しそうに尻尾を振った。

 

 彼女の名前を聞き忘れていたと気がついたのは簡単な朝ごはんを用意してやった後のことだった。

 まあ、人型になったら訊けば……。いや。あんなの酔っぱらいの妄想だ。そうでなくては俺が変人になってしまう。たとえ今の隅っこに毛布と服が畳まれていたとしても、あれは夢であったと誰かに言ってほしかった。

 俺の憂いをよそに、足の悪い猫は満腹になったのか、畳にごろりと横になった。

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nyaa 水沢妃 @mizuhi

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