05_書き留めよ汝の思うままに

 ガステイルさんの気球は興奮をぐっと抑えた群衆に見守られながらゆっくりと高度を下げて、無事ラピス広場の石畳に着地した。安堵か感動か、溜め息のような小歓声が広場に沸き上がる。残り僅かだった供給源がやっと停止、球皮から気が抜け始めて、久々に地面を踏んだであろう操縦士の青年――私に作戦の一端を担わせてくれた技術士が気球の籠から降りてきた。彼が「もう大丈夫」と軽く手を挙げて報告するのを見るなり大勢が彼の元へ駆け寄り集まって行く。


「はぁ……」


 気球と一緒に気の抜けた表情で気の抜けた声を出してその場に座り込むガステイルさん。それを見た私も同じことをした。今更足が震えて立っていられなかったのだ。疲れも緊張もあった。ウノさんのお店から飛び出して気球を追って、走って、技師の人から重要な役割を貰って、それからガステイルさんを追いかけてまた走って。あんなに思い切った行動を自分がするとは思っていなかった。できると思っていなかった。お気に入りのペンも投げるし慣れない大声も出すし初対面のジバルさんを出し抜くようなことまでするし……。


「おい、アンタ」


「はいっ、あ……」


 少し胸を張った独特な姿勢で立つジバルさんがこちらを睨んでいる。


「この辺の奴らは僕のことを下の名前で“ジバル”って呼ぶんだけど、」


「ごめんなさい、ラスターノさん……」


「いいさ。ジバルの方が呼ばれ慣れてる。で、アンタは?」


「……え?」


 綺麗にそろった茶色の前髪が揺れる。私が一瞬返答に詰まったのでもう一度揺れる。


「アンタの名前だよ。教えてよ」


「あ、はい、ナギサ・ガーネットです……」


「覚えたぜ。ガステイルさんも、さっきは悪かった」


 気の抜けたまま自分たちのやり取りを見ていたらしいガステイルさんは、表情を緩めてジバルさんに手のひらを見せた。


「多分そろそろ記述士がやってくるだろうから、僕は操縦士と話を合わせに行くよ。ガステイルさんも後で来てくれ」


 咄嗟に自分が帽子を被っていないことを確かめた。認識通り銀のペン印が付いた帽子は鞄の中にしまってある。するとジバルさんの言う記述士はやはり私のことではないはず。


(そっか……)


 この気球の一件はちょっとした騒ぎになっているのだ。となれば、どこかの記述士たちが聞きつけてやってくるのも不思議なことではない。気球を無事に降ろしたあの技師は間違いなく記述士の取材を受けるだろう。だからジバルさんは“嫌な方向に”情報が傾かないように技師の元へと助言に行く。……ジバルさんは中々頭が回るようだ。気球を安全に導いたあの技師さんも聡明だったし、あちらは大丈夫だろう。


「……」


 衣服の一部にペンマークを付けた男性が気球を中心に形成された輪に向かうのが見えたが、どうも喧騒が遠のいていく。


「……おい、…………ちゃ……」


 ガステイルさんの声が何か言っているような。眠いのだろうか、私は……



* * * *



 目を覚ますと、不思議なことに柔らかいソファーに横になっていた。“不思議なことに”と零れたけれど、はて私は何をしていたんだっけ? 目を覚ますと……? 寝ていたのだっけ。


「あ。起きた。おーいウノー」


 髪の長い女性が一瞬私の顔を覗いて、それから誰かを呼ぶ。ウノ……ウノさん……?


「アタシがあなたを運んだからね、男たちには触らせてないから安心して。ウノ忙しそうだな、どれ」


 上体を起こしたらひざ掛けが床に滑り落ちた。すたすたと女性が歩き去っていくのを見届けて、ここはどこなのだろうとぼんやりした記憶を整理する。落ち着いた色使いの……どなたかの部屋。


「ナギサさん……!」


 ドア枠から覗いたウノさん、すぐにこちらに駆け寄ってきた。


「おぉ、おぉ……」


 ガステイルさんも。……あれ?



 どうやら私は疲れて気を失っていたらしい。驚いたガステイルさんがジバルさんを呼んで、ジバルさんが彼の知り合いのさっきの髪の長い女性――チャミさんという方らしい、チャミさんを呼んで、チャミさんはウノさんと知り合いなのでひとまず私をここへ運んで。そう、ここはウノカフェの一室なのだ。ガステイルさんの顔を見て思い出し始めた記憶は、彼の言葉と自分の言葉を照合するようにして一字一句欠けていないことを確かめられた。


「……じゃあ、コルはまだ広場に?」


「はい……私の……」


 ウノさんとガステイルさんが少々険しい表情で情報を交わしている。コルというのがあの技師の方の名前らしい。どうやら自分の思った通り数人の記述士に囲われて、ジバルさんと広場に残っているようだ。記述士たちは武器を持ち合わせていないけれど、運が悪いとある種の権力や特権を振り翳してくる。


「……ですね。店番はチャミが代わってくれてます。ガステイルさんは……」


「ああ私は広場に戻るよ。側車に私を乗せてきた記述士が外で待っているんだ。きっと腕組みをして地面に足をコンコンしているだろうさ」


 軽い冗談でウノさんの表情を緩めるガステイルさん。


「ナギサちゃん、私は元々記述士を悪く思っているわけじゃない。ナギサちゃんのような記述士もいると分かった。これから広場に戻るが、今度是非ナギサちゃんの書いた記事を読ませてくれ」


 それから、丁寧に記述士としての私を気遣ってくれた。ウノさんにもういくつか伝えてガステイルさんは急ぎ足で部屋を後にする。


「ナギサさん、焼き菓子とか紅茶とか……じゃなくてこんな時はお水ですね、お水もそこに置いてありますから、ゆっくり休憩していてください。ちょっとチャミに『ナギサちゃんは大丈夫そうだ』って報告してきます……!」


 すぐに戻ると添えてウノさんもお店に戻って行った。

 ぱたんとドアが閉じたわけではないのに、ふわりと静寂が訪れて、穏やかに風を通す窓から遠くの微かな音が聞こえるようになる。木組みの棚にぽつんと置かれた小さな円柱形の金属の置物が目に留まった。淡い西日を反射して、きらきらと鈍く輝いている。

 記述士としての一応の道具がしまってある肩掛けの鞄は丸テーブルの短い脚に立てかけてあった。テーブルの上には小さな浅籠に詰められた多分絶品の焼き菓子と、……良い香りがする、赤銅色のカップには何か思いが込めてありそうなハーブティーと、透明ガラスに心配が込めてありそうなお水まで。


「ありがとうございます……」


 思わず皆にお礼を言う。今誰も聞いていなくとも声に出して。後で本人たちの前でも絶対に。もぞもぞとソファーを離れて、引っかかって転ばないように身体の感覚を少し確かめて、丸テーブルの横に座った。コップを手に取って一口だけ水を口に含むと、ふぅ、と短く息が漏れる。ハーブティーをいただいて、今度は安堵の溜め息が長く伸びた。



「記述士……か」


 ガステイルさんの言葉に配慮が見えたように、記述士は必ずしも人に良い印象を与えるとは限らない。書き手≒伝え手として透明であることは根底に持つはずだけど、立場があって時には上位の意図があって、どうしてもインクが滲むこと、タイプライターに向かう手が止まることがある。自分の信頼する“師”はそんな場面をどうやって乗り切ってきたのだろう。


「や、元気になった?」


 と、髪の長い女性が戻ってきた。


「チャミさん……はい、おかげさまで……」


「あれアタシの名前ウノから聞いた? ナギサちゃんが気になってちょっと見に来ちゃった。んーでもちょっと浮かない顔だね。どうしたのさ」


 丸テーブルの反対側に座るチャミさん。どんよりした何かに思考が向かい始めていたが、さてどこまで話そう。いや、どこから、どこまで話せるだろうか。


「えーっと……記述士のことを考えていて。……私、記述士なんです」


「らしいね、ウノから聞いたよ」


「チャミさんは、記述士のことをどう思っていますか?」


「立派だと思うよ。お宝探し人みたいなもんだろ」


「お宝……」


「冗談。あんまり記述士の記事は読まないんだけど、ちらっと読んだ時は書きたいことを書けないんだろうなって思った。“皆様へ”って言っても作家とは違うし」


 チャミさんの整った顔立ちを印象付ける切れ長の目が少し細まった。書きたいこと、か。


「ナギサちゃんはどうして記述士になったの?」


「私を育ててくれた人が記述士でして……」


「……なるほどねえ。その人は素敵な記事を書いてる?」


「……はい。とても素敵で、正しい記事を書く人です」


 師は利益のために書かない。権力のために書かない。


「じゃあさ、ナギサちゃんの思う素敵な記事と、その人の書く記事は同じ方向というか、色合い? をしているかな?」


「んー……」


「……っていうのが、知り合いの頭がいいやつの真似」


「えぇ……?」


 流石に少し悪びれる様子でチャミさんは焼き菓子を一つ手に取った。


「ごめんごめん。全部答えなくてもいいよ。……これ美味しいな。でも私が今聞いたことに、ナギサちゃんが考えようとしてたことのヒントがありそうな気がしてさ」


 確かにチャミさんの問いかけは階段を降りるようにどこかへ向かう感覚があった。


「ちょっとメモさせてください」


「おー、記述士さんの筆記が見れる」


「……あ」


 鞄に伸ばした手が止まる。


(そっか……)


 普段ペンを差してあるはず位置に使い慣れたペンが無い。ガステイルさんが持っていてくれているだろうか。……いや、あの子はちゃんと役目を果たしたのだ、予備のペンもある。


「どした?」


「いえ、ちょっとペンを無くしちゃって……でも別のがあるので大丈夫です」


「気球のドタバタでかな。思い当たるところは?」


「えっと……」



 ペンの件は後でガステイルさんに聞くことになった。「真似でもいいなら」とチャミさんは質問を続けながら、上手い具合に彼女の調子も混ぜて私の話を聞いてくれた。階段を降りるような言葉、背筋が伸びるような言葉、暗がりにランタンの灯をかざすような言葉。それからチャミさん節の効いた言葉。それらをノートに並べて、私と“記述士としての私”の輪郭をなぞっていく。チャミさんは意図を汲んだり俯瞰したり踏み込んだりがとても上手で、まるで武芸者が身軽に踊るようにそれを手伝ってくれた。


「何が正解かわからない内は書きたいものを書けばいいんじゃない。ナギサちゃんが面白いと思ったもの、美しいと思ったものをそのまま書いていれば、読んで何かを感じ取ってくれる人はいると思うよ。注目を集めたいだけの退屈な記事よりずっといいさ。ああでも売れるかどうかは別なんだよねえ。うー、そこは大変だね……」

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