出版決まる

 伊刈は「週刊インタレスト」の取材を受けたライターの吉岡に出版の相談を持ちかけた。すると「おもしろい出版社がある」とWIND出版の玉造社長を紹介してくれた。霞ヶ関ビルでの松島準教授の数理不法投棄モデル研究会が終わった後、伊刈はビルの二階にあるオープンカフェで玉造と落ち会い原稿を手渡した。玉造は長身でダンディな紳士だった。開口一番に伊刈とは同郷で地元で有名な進学校、一葉高校の卒業生だと自己紹介した。

 「これはうちで出します」玉造はぱらぱらと五分くらい伊刈の書いた原稿をめくっただけで言い切った。「この本はほんとはジャーナリストの仕事なんですよ。僕たちがだらしがないからあなたのような方に書いてもらわないといけないんです。でも一つだけ条件があります。実名で出版してください。犬咬市庁職員だということも隠さないでください。身の危険があるならボディガードをお付けします」実名出版が玉造のこだわりだった。官僚の匿名出版が多いことへのジャーナリストとしての反抗だった。

 「実名というのは考えていませんでした。その方がいいのなら実名でもかまいませんよ」

 「何か講演会のような機会はないでしょうか」

 「十月に環境シンポジウムのパネラーになる予定があります」

 「決まりですね。それを伊刈さんの作家デビューの日にしましょう」玉造の決断は早かった。

 伊刈は翌朝、出版を決めたことを安垣所長と仙道技監に報告した。

 「伊刈、講演会はいいが出版だけはやめとけ。出る杭は打たれる。県でも市でも同じだと思うけど、これまで本を出版した職員はみんな不遇で辞めているんだよ」仙道はのっけから反対だった。これは伊刈の将来を慮っての発言だった。

 しかし安垣の意見は違っていた。「いい本みたいですね。うちの市の総務課の根回しは私に任せてもらいたい。ただ伊刈さんはもともと県職員だから県の根回しも必要ですね」

 「所長、そこまでするのはどうかと」仙道が異を唱えた。

 「伊刈さん、この件は私に任せてください。それから技監はちょっと残って」

 「はあ」

 神妙な顔をする仙道を残して伊刈は所長室を出た。

 「技監のほうが伊刈さんとの付き合いが長いからわかると思いますけど、伊刈さんはこうと決めたら引かない人ですよ」伊刈が退室するのを見届けてから安垣が言った。

 「それはそうでしょうなあ」仙堂も異議はなかった。

 「だめだと言ったらきっと役所を辞めてでも本を出すでしょう。県庁の宝のような人をうちの事務所でお預かりしてるんです。無傷で県にお返ししなければだめですよ」

 「だからですね所長、そのためにも出版だけはせめてやめてもらわないと」

 「いざとなったら市長から知事にかけあってもらいます」

 「そこまでされますか」

 「そこまでする価値のある本だと思いませんか」

 「所長がそうおっしゃるなら、私はもう申し上げることはありません」仙道は首を振りながら所長室を辞した。

 安垣所長は産対課にはあえて内緒にして伊刈から預かった原稿を市長特別秘書の国定に渡した。前任の奥山所長から伊刈と産対課の確執を聞かされ、守ってほしいと頼まれていたのだ。伊刈の原稿は国定秘書からチームゼロが受賞した環境大賞事務局の杉本に渡った。原稿を一読して価値を理解した杉本は環境大賞の授賞相手を間違えたことを悟った。そして遅ればせに自身が主催する「エコインダスト研究会」での講演を不法投棄ゼロの真の立役者だとわかった伊刈に依頼してきた。

 「原稿をどこで手に入れられたんですか」伊刈は予想外の依頼に当惑した。「まだ市からも県からも出版許可が出てないんです」

 「それなら大丈夫。僕は市長特別秘書とは友達だからね。すごい本を書かれた職員がいますねと一言お祝いを言っておけばいいでしょう」どうやら政治家秘書には独自の情報ネットワークがあり、伊刈の原稿は既に出版前から秘書仲間に回覧されているようだった。

 伊刈が本を出版するという情報は県庁総務課の人事班にも届いた。人事班は職員のネガティブ情報を収集する諜報ネットワークを構築している。一方で職員の有能さには全く関心がない。有能な職員は人事・総務・企画を固める自分たちの学閥(東大+地元国大)にしかいないと最初から決まっているからである。学閥外の職員の有能さは有害さでしかなく無視できないほど有能=有害なら駆除するしかない。とくに出版は内部情報の暴露や職員間の誹謗中傷など人事事件の火種になることが少なくなかった。出版は人事にとってネガティブ情報の極みだった。しかしたまたま県庁総務課人事班長の小野寺は伊刈と入庁同期だった。

 「今のところ伊刈さんは市の職員だから出版を認めるも認めないも市の人事の判断だと思うけど、もしも県にいたらどうなるかな」総務課長の蜜井が小野寺に意見を求めた。

 「自分は同期ですからわかります。あいつは辞めても本を出すでしょうね」

 「なるほどそうですか。残念ですねえ、どうせ出すなら県職員として出してもらいたかったですねえ」

 何か出版許可書のようなものが出るのかと期待して待っていたが何も書類は出ず、伊刈が本を出すことはいつのまにか既成事実化していた。

 県市の総務部門のOKが出たとWIND出版に伝えると編集担当の月代との打ち合わせが始まった。時間がないなか文章をぎりぎりまで削り込み最初の原稿にはなかった政策提言の章をまるまる書き加えた。印刷所への出稿直前に「不法投棄コネクション」というタイトルが決まった。

 現場のルポルタージュの域を超えて伊刈が証拠調査と会計検査で明らかにした不法投棄シンジケートの全容を解明した画期的な本がとうとう出版されることになった。この構造は末端の実行犯トリオ、穴屋、一発屋、まとめ屋から始まって、正規ルートで受注した産廃を不法ルートへ流出させる中継センター(中間処理施設、積替保管場)、ブラックマネーを操る金融業者、リベートをせしめる仲介ブローカー、背後の暴力団など多彩なプレーヤーから成り立っていた。不法投棄の全体構造を支配する黒幕は暴力団の資金源となっている最終処分場だった。不法投棄問題を解決するために一番必要だとされた最終処分場が実は不法投棄の黒幕だったというミステリーの定石どおりの結末だった。しかし連続ミステリーさながら、その背後には姿を見せない闇のフィクサー(最高権力者)がおり、そこから先は政治の闇とつながっていた。

 職務情報守秘義務のために固有名詞を一切削除したドキュメンタリーをおもしろくする工夫として伊刈は数字にこだわった。たとえば穴屋はいくら儲かるのか具体的に数字を紹介した。穴屋は一ヘクタールの山林を二千万円で手に入れる。重機代、仮設道路用鉄板代、目隠し用万能塀、燃料代、作業員の日当などの経費に一千万円かかかる。ダンプ一台の捨て料は二万五千円、四千台でちょうど一億円だ。一台三十立方メートルとして投棄量は十二万立方メートル、比重を○・七として約十万トンになる。暴力団へのみかじめ料は五千万円。穴屋の手取りは二千万円、利益率は二十パーセントだ。ぼろ儲けのようだが、許可のある最終処分場の粗利は四十から六十パーセントにもなり不法投棄よりもはるかに儲かった。この許認可プレミアムがあるからこそ産廃業者はみんな最終処分場にあこがれた。こうした表と裏の業界構造を詳細に記述することで固有名詞のないドキュメンタリーは魅力たっぷりの画期的な作品に仕上がっていた。

 不法投棄するといくら儲かるかという具体的な数字が書かれた現役産廃Gメンが書いた不法投棄ドキュメンタリーは想像以上の反響をもたらすことになった。出版と同時に歴史的な話題作になり「不法投棄対策のバイブル」とまで呼ばれるようになるのである。同時に伊刈は「ミスター産廃Gメン」と呼ばれるようになった。しかし作家デビューによってこれまでとは比較にならない暗くて深くて危険ゾーンへと追い込まれていくとは伊刈自身思いもしなかった。

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