終活生

S N

第1話 はじまり

「おーい」

 そう呼びかける声が聞こえて目が覚めた。寝ぼけているせいか朦朧としている。辺りは暗く、目の前の誰かをぼやっと認識するのがやっとだった。否、待て。何かが可笑しい。

「ええっと、名前は?」

 目の前の人影が言った。

 まだピントが合わないのか暗いせいなのか人影は影のままでぼんやりしている。影が誰かは分からないが、名前を聞かれているので名乗ることにした。

「林野歩です」

 聞き取れるか取れないかくらいの声で答えた。

 自分の名前を答えながら状況を確認しようと努める。ここはどこだ、何をしていた、目の前にいるのは誰だ。全く思い出せない。まだ頭がぼうっとしているが、現状が可笑しいということだけは頭の中で理解できていた。

 頭の中で? 頭、ない。頭が、ない。頭がなければ体もない。手は、足は、どこへいった。さっき、いつものように目覚めて当然の如く目を開けたように感じたのはなぜだ。目も瞼もないだろうに。

 鏡か何か自分を映すものがあれば目があるかどうか確認できただろう。しかし、ここにはそんな物があるようには思えなかった。辺りは変わらず暗いままだった。

 声は出せる、ようだ。さっき答えることができた。口もないのに? それとも、自身が口になったのか。否、口だけでは発声はできないだろうから、声帯と口と舌と、あと気管とかだけになって、それでそれをそうして……そんな馬鹿げたことを考えながらも、話しができることを確認して少し安堵した。

 なにより意識して話せることが救いだった。話したいことを話し、それ以外は外部に漏れないように話さなくて良いということが救いだった。そうでなければ、どれだけの言葉を話し、どれだけの時間が経過するだろうか。考えただけで話さないことは不可能に思えた。今この瞬間も話し続けていなければならないなんて、恐ろしい。

 頭がないと自覚した瞬間にこれらのことを考えていた。とにかく、可笑しな状況であることは確かだった。あれこれ考えていても仕方ないので、相変わらずぼんやりと見えている人影に訊ねることにした。

「あの、どうなっているんです?」

 答えが返ってくるまで間があった。聞こえていないのか、あえて黙っているのか、と考えられるほどだった。短くも感じられるが、周りが静まりかえっているせいかとても長く感じられた。

「ああ、君、死んだの」人影はだるそうに言った。

「ここはあの世です」

 ようこそ、と出迎えでもするかのように言った。しかし丁寧さが足りず相変わらずだるそうだった。

 死んだのか。腑に落ちた、ように思えた。魂だけになったのだ。頭や体はなく意識だけが存在しているのだ。これが死なのか。特に悲しいとか、悔しいとか、怖いとか、そんなことは一切なかった。死んだという事実を何の抵抗感もなく受け入れていた。

 だが、なぜ死んだのか覚えていない。病死か、事故死か、それすらも分からない。死んだショックで死ぬ直前の記憶が飛んだためか記憶がないのだ。しかし、自分の名前を答えられたということは生前の記憶は在るはずだ。自分はどんな人間だった、家族は、大切な思い出は、思い出そうとしても思い出せることがないように、記憶は空っぽのようだった。なぜだか自分の名前しか思い出せなかった。

 あの世、ここが。暗い、光がない、霧の中にいるみたい、どこを見ても同じ、音が聞こえない。生きている世界ではありえない空間だ。確かにあの世だった。

「そういえば、あなたは誰ですか?」

 名前を聞き、あの世だと言った、この人影は何者だろうと気になった。同じく死んでしまった人か、否、天使、悪魔、もしかして神様、いやそれはない、そうであって欲しい。こんな誠実さを欠いている神様は嫌だ。

「あの世の案内人? いや、人じゃないから案内役?」

 自分もよく分からないというような態度だ。

 人ではなく、天使でも、悪魔でも、もちろん神様でもなかった。案内役、ということは天国にでも案内されるのだろうか。もしかして地獄かも。だが、すでにあの世ならここは天国か地獄かであるはずで、行くところなんて他にどこだろう。いったいどこに案内されるんだろう。生まれ変わるための場所に案内するとかかな。なんてことを考えていたら。

「あ、あと、まだあの世じゃない」

 思い出したように、否、思い出して言った。

 さっきはあの世だと言ったのに、なんて大雑把な案内役だろうと呆れた。

 案内役は何やら書類に目を通していたようだった。目が慣れてきたのか、ぼんやりだった人影が人と同じ形をしていて、書類を抱えているのが分かった。

 案内役が言うには、ここはあの世に行く前の空間らしい。ここでは色々な取り調べを受けるらしい。書類をパラパラと捲りながらとても面倒くさそうに教えてくれた。

 しかし取り調べを受けられるかどうか、こちらは記憶がないのだ。さっきから名前しか思い出せない。不安しかない。やる気のない態度といい、大雑把な性格といい、案内役の案内を信じていいのか疑問に思う。そもそもきちんと取り調べができるのかも怪しいと思った。少し死んだことを後悔したかもしれない。

「これから君には生前の記憶を見てもらうね。本人確認のためだからさ」

 一通り書類に目を通した案内役は言った。

「でも、記憶がないんですけど」

 記憶を見ることが取り調べなのか。しかし、記憶がないのに生前の記憶を見せてもらったところで、自分の記憶だと判別できないのではないか、本人確認になるだろうか。この案内役は大丈夫だろうかと増々不安になった。

「ん? それでいいの」

「え、いいんですか」

 全くもって良いとは思えない。死んでいるとはいえ初めての経験であり、この先に何があるのか分からないのだ。生きているよりも不安なのだ。生きていれば必ず死ぬ、死ぬということが分かっている。だが死んだあとのこの世界は未知だ。これからどうなるのかは全く分からない。しかも案内役は頼りない。不安要素しかない。さすがに心配になってきた。

 もっと説明してほしいと促すと、仕方ないなと案内役は溜息まじりに話し出した。

 案内役が言うには、死んだ人間の魂は一度記憶を消される(消されるというよりは、見えなくする、思い出せなくすると言った方が適切なようだ)。この空間で生前の記憶を覚えていると、いわゆる人間界に戻ろうとする者が出てきてしまい面倒だからだと言う。記憶が全く思い出せないと困るのではないかと訊ねると、案内役の質問によってその事柄を思い出すと言う。だから名前を答えることができたのだ。そして本人確認のために生前の記憶を見せるのは、何千何万の質問をするより手っ取り早いからだそうだ。

 本人確認とは、死んだ人間の肉体と魂が一致しているかの確認である。肉体にある記憶を魂に見せ何事もなく自分の人生を受け入れて、改めて自分が死んだと認識できれば、その記憶を持った肉体の魂であるという証明ができ、あの世に行ける、そうだ。もし記憶を見せて拒絶反応(どんな反応かは分からないがすんなりといかない場合)が起これば、それは他人の記憶、肉体だから前の段階に戻され案内役側の仕事が増え、面倒らしい。

 とにかく、簡単にはあの世に行けないような複雑なシステムになっているのだ。間違えて死んでいない人間の魂をあの世に逝かせるわけにはいかないからだ。

 そして、ここは最終の本人確認をする空間だと言う。

「君は面倒くさい性格だね。そんなに心配しなくてもどうにかなるもんでしょ。もっと楽に生きれば良かったのに」と言った。

 余計なお世話だ。

「魂には性格があるんだよ。記憶は消されても性格は残る。そして、その性格は生前のまま。だから君は多分、相当な心配性だったんだね」

「そんなことはない、と思いますけど」

 ざっくりしすぎた話に苛立っていてやや強い口調になった。

 案内役は肩をすくめる。

 案内役が粗雑な説明しかしないからこんなにも心配するはめになっているのだ。どんな性格の人であれ、この状況では心配するのが普通だと思った。

「あ、記憶を見る前にいくつか質問するから、答えて」

 また思い出して言った。

 生年月日は? 身長は? 体重は? 足のサイズは? 立て続けに案内役が訊ねる。それに次々と答える。本当に自然と答えられる。思い出そうとしても思い出せなかったのに、不思議でならない。

「OK」書類に書き込みながら案内役が言う。

「これから始めるけど、まぁ、始まればわかるから」

 説明すらしないとは呆れた。なんて面倒くさがりなんだ。詳しく説明しろと言ったら、君は本当に面倒だね、なんて言って機嫌を損ねそうだ。それに、またお節介を言われるのも嫌なのでここは黙っておくことにした。

 まあ、何が起ころうとも関係ないか、既に死んでいるのだから。もう投げやりだ。

 ふうと息を吐く。

「目を閉じて、そうしたら始まる」

 なるようになれ。

 目を閉じる、ことをイメージする。

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