ゴッド・ブレス
蒼山皆水
第一部
プロローグ
黒い髪の女性が、きらびやかな建物の廊下を一定のリズムで歩いている。
女性は、この世界ではシェレンと呼ばれていた。
まだ少女と言っても差し支えない年齢。あどけなさの残る顔立ちは、今は無表情。そんな彼女の職業は秘書である。
「失礼します」
シェレンはノックをし、重そうなドアを開ける。
豪奢な壁には、たくさんの本棚と必要最低限の家具。高級な絨毯の敷かれた床は、そこそこ散らかっていた。
来週あたりに掃除をしなくては。シェレンの口からため息が漏れる。ついこの前に片付けたばかりなのに……。
ここはフェリク・ステラの国家元首、
書類の束や書物をまたぎながら、シェレンは部屋の真ん中に近づく。
「ディバル様。いらっしゃいますか?」
床に散らばる本を踏まないように気をつけながら、現
「ディバル様? いらっしゃらないのですか? 先日、またこっそり人間界に遊びに行ってたこと、バラしちゃいますよー? っと……」
一人の男が、机の上に突っ伏して寝息を立てているのが視界に入る。窓から入ってきたそよ風に、透明感のある青色の髪がふわりとなびいた。
「またこんなところで寝て……。風邪ひいても知りませんよ」
シェレンが呆れたように呟いた。
「ディバル様。起きてください。会議の時間ですよ」
肩を揺すると、
「ああ、シェレン。おはよう。……会議が、何だって?」
髪の色と同じ、透き通るような青い瞳が、半開きになった瞼の下から覗く。
「だから、今から会議の時間で、というかすでに開始時間を過ぎていて、あとはディバル様が揃えばすぐに始められる状態なんです!」
シェレンは語気を強めて言った。
「そうか。……ところでシェレン、二度寝してもいいかな」
「私の話聞いてました?」
眠そうに頭をかくディバルを、シェレンは一睨みする。
「冗談だよ。今日は次期
「ダメに決まってるじゃないですか! で、もう選出方法は決まってるんですか?」
「ああ、素晴らしいアイデアが五百個くらいある」
「もう! ちゃんと答えてくださいよ!」
「ははは。ホントに真面目だなシェレンは」
そんなやり取りを交わしながら、二人は並んで会議室へ向かう。その姿は、権力者とその秘書というよりも、不真面目な兄としっかり者の妹に見えた。
「それで、実のところはどうなんですか?」
シェレンの問いかけに、ディバルは会議室の扉の前で立ち止まる。
「そりゃもう、最高に面白いとっておきのが、一つある」
そう言うと、現
不敵に笑う横顔を見て、シェレンは暗澹たる気分になった。ディバルが、ろくでもないことを考えているような気がしてならなかったからだ。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
四月一日。日本。新年度の幕開け。ある者は進級し、ある者は進学し、またある者は社会に出る。そんな新しい門出の日の正午。
神の音は鳴り響いた――。
――少年は、自室で音を聞いた。
高級感の溢れる部屋。柔らかそうな椅子に座って、勉強をしている最中だった。
「次のページにいきましょう」
「……」
「坊ちゃま?」
高そうなスーツを着こなした、いかにも賢そうな家庭教師の男性が、心配そうに少年の顔を覗き込む。
「ああ、すみません。ボーッとしてました」
「疲れているのでは? 今日から高校生とはいえ、すでに高校一年生の範囲は修得できています。今日はもう休まれてはどうでしょうか?」
「大丈夫です」少年は首を横に振る。「それより、今の音は何でしょう」
「音、ですか?」
家庭教師が首を傾げる。
「……いえ、何でもありません。やはり疲れているようです。少し休みます」
「はぁ。かしこまりました」
――少女は、机の上でウトウトしながらその音を聞いた。
「ひゃっ!」
勉強中に眠たくなって、意識を手放しかけていた彼女は飛び起きた。弟たちに何かあったのだろうか。
急いで部屋を移動したが、彼らは何食わぬ顔で遊んでいた。
「今、何かすごい音しなかった?」
怪獣のような、モンスターのような、よくわからないおもちゃを戦わせるのを中断して、小学一年生の双子は姉を見上げる。
「姉ちゃん、何言ってんの?」
「音なんてしなかったよ?」
「そう?」
妹はどうだろう。ベビーベッドを覗くと、二歳になったばかりの妹は寝息を立てていた。
少女がホッとしたのも束の間。
「う、ううう……うああああん!」
けたたましい泣き声とともに、眠りから目覚めた。少女はすぐに駆け寄る。
「あー、よしよし。どうしたの。お腹空いた? それともオムツ?」
あやしてもなかなか泣き止まない。
後ろでは、弟たちが宇宙規模のバトルを繰り広げている。
妹を抱き上げて揺すっているうちに、先ほどの音のことは忘却の彼方へ消え去った。
――少年は、水族館でその音を聞いた。
驚いて、一瞬歩みを止める。辺りを見回すが、誰も反応している様子はない。
「まーくん、どしたの?」
隣で少年の腕をつかむ茶髪の少女も、不審そうに彼を見上げる。
「いや……。今、何か変な音が……」
「え? そんなの、全然聞こえなかったけど。それより見て! あのペンギンちょーカワイイ!」
少年は肩をすくめる。空耳だと思って、すぐに忘れることにした。
「そうだね。でも、君の方が百倍可愛いよ」
そんな恥ずかしい台詞を、涼しい顔でさらっと言ってのけた。
「やだぁ~。誰にでも言ってるんでしょ」
「そんなことないって。あ、次はあっち行ってみようか」
少年は爽やかな笑みを浮かべて、デートを再開した。
――少女は、図書館でその音を聞いた。
面白そうな文庫本を見つけて、読みふけっていたときだった。お気に入りの音楽が流れるイヤホンを片方だけ外して、視線をさまよわせる。
しかし、図書館の他の利用者は、本や参考書などに集中している。イヤホンやヘッドホンを着用している人間が多いが、そうでない人間も、音に反応している様子はない。自分の世界に没頭したままである。
空耳だろうか。首を傾げてから、少女はイヤホンを耳にはめなおした。手元の文庫本に視線を戻す。再び物語へと、意識を没入させた。
――少年は、
「始まったか……」
地上の人間たちを見下ろして、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「やっと、この時がきた……」
右目と左目で色の違う彼の双眸は、憎しみに彩られていた。
――
ベッドに寝転がりながらお気に入りの漫画を読んでいる最中だった健正は、思わず立ち上がった。
今まで聞いたことのある、どんな音とも似ていない。それなのに、どこか懐かしいような、不思議な感覚が体を駆け巡った。
心に直接響くような、そんな音だった。
二階にある自分の部屋から出て階段を降り、リビングで料理中の母に問いかけた。
「母さん。今、変な音聞こえなかった?」
「変な音? 別に、聞こえなかったけど……。気のせいじゃないの?」
「そっか……」
少し考えるが、何の音かも発生源もわからない。
「もうすぐお昼できるから、座って待ってなさい」
「はぁい」
椅子に座って昼食を待っている間も、違和感は拭えなかった。
しかし夜には、それがどんな音だったのか、具体的に思い出せなくなっていた。
次の日になると、音を聞いたこと自体も忘れてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます