第29話 君の話す胸の内
俺がそう言ってから、数分の沈黙が流れた。
卯崎は顔を下に向けており、その表情を読み取ることは出来ない。
遠くでは依然として賑やかな音と光が溢れている。
日はとうに沈んでおり、人もまばらなこの辺りはまるで俺たち二人だけが世界と隔離されているように感じさせた。
その二人きりの世界の中で、俺は自分から話す事もなく、ただ目の前の少女の言葉を待っていた。
「……先輩」
やがて、卯崎の声が沈黙を破る。
「私の話、聞いてくれますか」
「ああ。元々俺が聞きたいって言ったんだしな。最後までしっかり聞いておく」
先ほどと真逆の立ち位置で、先ほどと同じようなやりとりをする。
俺の返答を聞いた卯崎は、すう、と軽く息を吸うとゆっくりと話し始めた。
「……自分で言うのも何ですが、私は、幸せな家庭に育ちました。仲の良い両親に囲まれてなに不自由なく過ごせていたおかげで、毎日が幸せでした。両親はことある毎に私を二人の愛の結晶だと言って、とてもかわいがってくれました」
語り始めたのは、彼女自身の過去。
「週末になると色々な場所に私を連れて行ってくれて、毎年一度は必ず家族旅行にも行きました。……多分、それはどこにでもある普通の家族のあり方で。でも私はそれで十分すぎるほど満たされていたんです」
それは一見すると楽しそうな、幸せそうな家族の話。
「私は当然のようにその幸せがいつまでも続くと思っていました。……だから気づかなかったんです」
でも、俺はその結末が決してハッピーエンドではない事だけは知っていた。
「今から一年前、私が中学三年生の時です。四月のある日、朝学校へ行く前に挨拶を交わしてから、私の前に二度と両親は戻ってきませんでした」
努めてそうしているのだろうか、卯崎は淡々とその事実を話している。
「後で聞いた話によると、両親は蒸発――どちらも別の恋人を作って家から出て行ったそうです。親戚の方たちがそう言っているのを聞いたとき、私はそれが信じられませんでした」
しかし、その仮面も容易に剥がれ落ちる。卯崎の言葉が徐々に震え出す。
「だって……だって、あんなに仲が良かったんですよ? あんなに私の事を大事にしてくれて、あんなに幸せそうだったんですよ? ……それなのに簡単に他の恋人を作ってしまうなんて、愛は、『恋愛』は、そんなに脆くて薄っぺらいものなんですか?」
誰に向けてか、投げかける疑問に答えるものはおらず。
「……それじゃあ私は、二人の愛の結晶であるはずの私は、一体何だったんですか。そんなに簡単に切って捨てられるような、どうでも良い存在だったんですかっ!?」
その叫びは、きっと本当に聞いて欲しい人には届いていなかった。
だから、せめて今この場にいる俺だけは全てを聞かなければならない。卯崎が初めて語った、誰かに聞いて欲しかったであろう胸の内を、誰も聞いていなかったなんて事にさせてはいけない。
俺は余計な相打ちは入れず、卯崎が話すのをただ黙って聞いていた。
「……もしも、『恋愛』が脆くて薄っぺらいものなら、そんなものは必要ない。絶対的な悪のはずです」
静かに、卯崎はそう口に出す。
「……でも、もしそうなのだとしたら、私が過ごしてきた、感じてきた幸せは全部まやかしだった事になります。……私は、そうは思いたくなかった。あの時間は本物だったと、そう信じたかったんです」
つっ、と。卯崎の瞳から一筋の涙が頬を伝った。
「私は恋愛が良いものなのか悪いものなのか、分からないんです。自分がそれをどう思いたいのか、分からないんです。……だから私は、それを知りたい」
一度あふれ出てきたものは止まらないのか、止めどなく流れ出る涙を拭いながら、卯崎はそう言った。
恐らく、卯崎桜の行動原理は全てここが元になっているのだろう。
恋愛を善だと思いたい心と悪だと断ずる心。それが矛盾し反発し合って、卯崎は持ち込まれる恋愛相談に対してその恋を進めるためにも破局させるためにも動こうとしているのだ。
いや、それだけじゃない。俺が初めて卯崎を見た時。彼女は告白してきた相手をにべもなく振っていた。それはまるで、告白される事それ自体を嫌っているようにも見えた。
それに対して、俺にはよく分からないラブレターもどきを渡したり、デートごっこに付き合わせたりと、恋愛に対して積極的な行動を見せていた。
俺は自分の事をよく知っている。俺は自分の事を過大評価も過小評価もしない。だからはっきりと言える。
卯崎が俺にだけは恋愛に積極的なように見せていたのは、決して俺に好意を寄せていたからではない。
多分、ただの気まぐれだったのだ。不安定な彼女の心が、偶々俺といるときは恋愛を『善』だと思う方に傾いていただけ。それだけだ。
「……なあ、卯崎」
だが、それはここで俺がなにも言ってはいけないと言う理由にはならない。
呼びかけた俺を、卯崎が涙に濡れた瞳で見つめる。
「……お前さ。ちょっと焦りすぎなんじゃないか?」
素直に感じている事をそのまま口に出す。
「お前の話を聞いて、お前が不安になる気持ちも分かる……なんて、口が裂けても言えない。俺はお前じゃないからな。……でも、それでも。他人の事なんかどうでも良いって思っているようなお前のやり方はやっぱり間違っていると思う」
本当ならここは、お飾りみたいな建前を並べ立てて卯崎を慰めてやる場面なのかも知れなかった。
だが生憎、俺はそう言うスキルは持ち合わせていない。俺には自分勝手な善悪を他人に押しつける事しか出来ない。
なら、そのやり方で卯崎桜と向き合うしかないのだ。
「自分の目的のために他人を傷つける。それは俺からしてみれば『悪』なんだよ」
「……それじゃあ、どうすれば良いんですか。私にこのまま、一生分からないままでいろって、そう言うんですか!?」
「そうじゃない。さっきも言っただろ。お前は焦りすぎなんだって」
喚く卯崎を宥めるようにそう言ってから、俺は続けてこう続けた。
「いいか、お前より一年年上の人生の先輩からのアドバイスだ。一回立ち止まって、深呼吸でもしてみろ。恋愛が何かなんて、そんな哲学的な問題、一年や二年で答えが見つかるわけないだろ。それを本当に知りたいと思うなら、もっとどっしり構えて気長に考えろ。お前は落ち着いてるように見えて、実際は落ち着いているように見せかけているだけのせっかちなんだよ」
言っているうち、俺は自分自身に言葉を投げかけているように感じられてきていた。
なにが『善』でなにが『悪』かなんて分かるはずもないと、早々に問題を放棄しそこから目を逸らしていた。
けれど、それは少し考えて分かるような単純な話ではなかったのだ。もっとしっかりと、目を逸らさずに真剣に向き合い続けるべきだったのだ。
そんな事を今更ながらに思っていると、卯崎が俺に言い返すように言葉を吐き出す。
「……じゃあ、私はどうすれば良いんですか。私に出来る事なんて、今で精一杯なんです」
「なら、俺を頼ってくれよ」
「……ぇ」
「別に一人で解決しなきゃいけないような事でもないだろ。別に俺じゃなくてもいい、困ってんなら誰か信頼できる人を頼れ。……それで、いつかお前自身が納得出来るような答えを見つければ良い」
人は一人で生きていかなきゃいけないなんて言うルールはない。人一人に出来る事なんてたかが知れているのだ。自分が出来ないことはいつまでも自分で背負い込んでないで他人に任せてしまえば良い。
俺の言葉を聞いた卯崎は、涙のたまった目を大きく開いたかと思うと、不意に目線を逸らして尋ねてきた。
「……それで、私にも見つける事が出来ますか」
「さあな。俺にもまだ俺の知りたい事の答えが見つかってないからな。……まあでも、人生は長いし、いつか見つかるだろ」
「なんですか、それ」
卯崎は涙混じりの声で呆れたようにそう言うと、ぽつりと言葉を漏らした。
「……どうして、そこまで私に構うんですか」
「どうして、か……」
そこで俺は言葉に詰まった。
どうして俺は卯崎に自分の過去を話し、挙げ句の果てに説教じみたことまでしているのだろうか。卯崎のためか、つぼみさんのためか。はたまた俺自身のためか。
考えても答えは出なかった。なので、俺は咄嗟に思いついた事を口にした。
「……ほら、俺はお前に脅されてるからさ。俺がお前に構うのは俺の個人情報の流出を防ぐためだ」
「……ふふ。今更言うんですか、それ」
俺の馬鹿みたいな理由に、卯崎は笑った。
「……本当に、馬鹿なんじゃないですか、先輩」
涙を流しながら、笑った。
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