にこごりのうわずみ

魚倉 温

「五月の雨と、彼女のこだわり」




 こぢんまりとした、日本家屋。黴と染みに彩られた白壁が年季物のふぜいで、壁の上と、その先に見える屋根の上にある瓦も、角がまるく、ほんのりと色褪せているように思う。私はべつに、建築、建物、日本家屋、そのどれにも詳しいわけではないけれど、漠然と、「あぁ、このお宅の住人は、地主だか、金持ちだかなんだろうなあ。」などと思うくらいには、立派な家だった。いわゆる豪邸ほどに白壁が続いているわけではないものの、小さいながらに手入れが行き届いているのであろう、印象を受ける。

そして、恐らくは家ではなく、離れか、または蔵なのだろう。屋敷の瓦の流れが途絶えた先にある瓦は、この雨の中であるからなんとなく、そう思うだけなのだろうけれど、すこし建物自体の瓦よりも色褪せているように見える。それがなんとなく、この邸宅でかつて死んだ女性の霊などが現れてもおかしくない、と、私の思考をそんなところに、至らしめた。ヤバい感じ、というわけではない。むしろそこそこ有名な日本画の片隅に描かれてでもいそうなくらい、情緒のある景色だと思う。


 幽霊と、雨と。たしかに頻繁にセットで使われるモチーフではあるけれど、今更怪談話にもなりやしないほどありふれたものだ。きっと踏んだり蹴ったりの今日のこれまでの諸々で気が滅入ってしまっているとか、初夏とはいえ、雨に濡れた身体がこのすこしの雨宿りの間に乾きはじめ、気化熱に体温が奪われている、そのぞっとそるような微妙な寒気とか、そんなような要素が組み合わさって、そんな気分になってしまっているだけだろう。あまりにばかばかしい、そして、この家の主に対してあまりにも失礼だと、背筋がほんのりと粟立つ恐怖心を、一蹴する。それに私は、この屋敷に立ち入っているわけではない。ただ突然の雨がために門扉の脇をお借りして、すこし、雨宿りをしているだけだ。たとえそういう霊的なものがほんとうにいたとしたって、私が呪われるような謂れはどこにもない。

 と、思いはすれども。離れだか蔵だか分からないそれの瓦、というか、その瓦の流れから読み取れる屋根をぼんやりと眺めて、それがなんだか、心なしか、傾いているように思えて。私はぞっとした。ここ最近にはそんな、建物が傾くほどの災害はなかったはずだし、そちらだけが古い、というわけでもなかろうことを考えて、愚かにももう一度、ぞっとした。


 「あまやどり、ですか。あらあら。」


 正直に言うと、霊などいない、祟られやしない、と考えている時点で、私の想像力はこの状況を、三文ホラーの一場面のように、思っていた。更に白状すると、今晩の入眠に支障をきたすかもしれない、なんて考えるほどには、怖がってもいた。だから、道路に向けていた私の背中越しにかかった声にびくりと、それこそ地面から三センチ程度は浮上したのではないかと思うくらいには驚いたし、全力疾走をしたとき、それも何かから逃げるためだとか、そんな必死さで走ったその時と同じか、はたまたそれ以上に早鐘を打つ心臓をなんとか宥めようと深呼吸をしながら、振り向いた。

 その突然の声の主は、あわい黄緑色のシンプルな着物に、白と紺の帯に、水色の紐を締めて、白い、ニットかレースのように編まれた繊細な羽織をまとった上品な女性だった。ひと目で彼女がこの家の主だと分かった私は、慌てて弁解を試みる。

 「あぁ、そう、そうです。急に降られてしまって。あの、ご迷惑をお掛けするつもりはありませんから、雨の止むまで、すこしだけ、ここをお借りしたいと思って。」

 「あらあら、そうですねえ。私もね、コンビニに立ち寄って、買ったんですよ。ビニール傘を。ええ、ですから、そんなにかしこまらないで下さい。お上がりいただいてもいいんですよ。ええ、そうですねえ。あたたかいお飲み物くらいですが、おもてなしも。」

 彼女の声にびくりと跳ねるほど驚き、更には言い訳じみたことばを、ぼろぼろと手から取り落とすように落ち着きなく連ねた私はさぞ見苦しいことだろうと思ったが、私のそんな様子など気に留めた風もなく、その女性はゆったりと微笑んだ。その言葉は、正直、私には願ってもないものだった。雨に濡れた身体の冷えはもう怪談話に怯えるどころの寒気ではなくて正真正銘の寒気に変わりつつあったし、もとより冷え性気味なものだから、そのあたたかい飲み物、というのが今、私のいちばん欲しいものであった。それに加えて、こんな立派な家屋に立ち入ったことなどないものだから余計に、その中を少しでも見られるというそのこと自体にも、喜びと興奮が溢れてきた。もっと正直に言うと、私は立派な建物、大きな建物にお邪魔するというそれだけで喜べる、インスタントな人間だ。喜ばない、興奮しないわけがない。けれどこんな、私が一方的に迷惑をかける形の初対面で、素直に頷いてしまってよいのだろうか、なんていう風に逡巡する私の心の中など、お見通し、とでも言うように、女性は微笑む。この人は聖母か何かだろうか。はたまた、余裕のある人間というのは、みなこんなふうになれるのだろうか。

 「ご遠慮なく、どうぞ、どうぞ。人と会った後ですからねえ。私ひとりですし、ええ。ちょうどさみしかったところですよ。」

 ゆったり、のんびりとした仕草でビニール傘を閉じる彼女の笑顔に背なかを押されるように、私は「ありがとうございます」と頷いて、彼女の邸宅の、それほど大きくはないものの立派な門扉を、くぐる。



―――

2018年5月刊行予定「ごちゃ混ぜアンソロジー」寄稿

詳細情報 twitter:@y_white_b(魚倉)

         @tsukasa_nabe(主催様)

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