異世界商売
三倍酢
第1話
品物を囲む人垣に、思わず叫びたくなった。
「う、売れるぞ! どんどん売れる!」
ドラッグストアや廉価店にあるような雑貨に、人だかりが出来て、銀貨で六枚や十枚といった商品が、飛ぶように売れる。
くすんだ銀貨だが、六十枚で小さな金貨一枚の価値があり、元値の五倍から十倍の利益が出てる計算になる。
儲けることが、これほど快感だとは知らなかった。
「はいどうぞ、毎度あり!」
チャリンと鳴る銀貨の重みが心地よく、これなら幾らでも働けそうだ。
隣では、店先を貸してくれた、ルクレツィアが手伝ってくれている。
「ありがとうございます。ええ、この商品は今日だけです。明日からは、私のお店に来てくださいね」
異世界人の俺と違い、彼女にはこの街での生活がある。
だから、ここでの商売は今日限り。
定期市が立ち、旅人も特別に多い日だが、一千戸に満たぬ小さな街で、用意した数百点の商品がなくなる勢いだ。
この国には、もっと大きな街が幾つかあって、首都である王都の戸数は十万を超え、近隣でも屈指の大都市らしい。
そこなら、この十倍どころか、百倍だって売れるかもしれない。
「この商品は本日限りだよ、しっかり見て、買っていってね!」
店頭販売の経験はないが、威勢にも熱がこもる。
なんと言っても、全部売れれば、金貨にして八十枚以上、金の重さだけで百万円は軽く超える。
もし何十倍も売れるなら、幾らになるか。
商品は無尽蔵と言って良い、俺の母世界、日本でいくらでも買えるから。
俺にしか手に入らない物が、競争もなしに売れる。
いっそこの世界へ住み着く、なんて考えも浮かんでくるが、今は目の前に集中しよう。
この好機を、逃すわけにはいかない。
全ての始まりは五日前。
その時は、軽く地獄を見ていた。
パソコンのディスプレイを前に、焦り混じりのぼやきがこぼれる。
「う、売れない……どんどん下がる、どうすれば良いんだ……」
暗号通貨、新時代の暗号理論を用いて、ボーダレスの普及と使用を目指すデジタル通貨。
日本に入ってきた時は、知りもしなかったが、最近になって広くもない俺のアンテナに引っかかった。
かかった理由は、働いていた下町の工場が、閉める事になったこと。
実質は倒産だったが、社長はすまないねと言いながら、金一封をくれた。
退職金代わりの五十万と、高校を出てから貯めた百五十万、この全財産を新興の暗号通貨に投資してしまった。
後発のそれは、投資よりも投機、ギャンブルに近かった。
それでも、資金の要る株や、FXよりは安全だと思っていたのだが……。
俺、高寺サガヤは、これにすっかり嵌ってしまった。
仕事も探さず、チャートの激しい動きに一喜一憂。
このところ下降気味だが、買った時からなら三割くらい値上がりしていた、昨日までは。
目標もあった、何とか資金を二倍にして、妹を大学に行かせてあげたいのだ。
全寮制の高校に通う妹のカノは、俺と違って本をよく読み、勉強もできた。
親父は、子供の頃に住んでた家を売って、妹を高校に入れてからは顔も見てない。
母親は、もう顔も思い出せない。
そんなある日、先進国の財政部門の、お偉方が集まる会議があった。
俺は知らなかったが、暗号通貨が重要な議題だったらしい。
――流通実態の無い暗号通貨を規制か
――投機的取引を抑えて、安定と信頼を構築
これ以後、俺の持ってる暗号通貨は下がりっぱなしで、売れもしない。
人生最初の大勝負でいきなり負けるのか、小さな勝負でも負け続けだったのに……。
なんとか冷静になろう。
安値でも売らないと、来月の家賃も払えなくなってしまう。
茫然自失の暇はなく、パソコンに向かってキーボードを叩こうとした時、ツンツンと、何かがお尻にあたる。
何だ? いや誰だ、尻をつつくのは。
尻? PCを低いテーブルに置いて、カーペットに直座りしてるのに?
「うわぁ! な、なんだ?」
突然、床が抜けた。
便座のない便器に座ったかのように、尻が吸い込まれる。
必死に何かを掴もうとしたが、顔の前で腕が交差しただけだった。
落ちながら、床が抜けたのでなく、穴に飲み込まれた事に気付く。
体勢は前屈に近い、くの字になってる。
「こんな変な事故で死ぬなんて……いや、アパートの一階分を落ちたくらいでは死なないか」
危機に際して脳みそが働いたのか、ほんの数メートルの落下が長い。
「これで怪我をすれば、アパートの施工主から慰謝料出るかな、それとも大家か。いや待って、その前に手持ちの暗号通貨を売らせて!」
そこまで頭が回った時に、重力が逆転した。
つま先が床に着いたが、支えきれずに頭からダイブする。
めきりっ! と顔の中心を、したたかに打ちつけた。
激痛と共に、鼻血が流れ出すのが分かった。
それ以上に、頭から首へと貫いた衝撃に耐えきれず意識が遠のき、思考の切れ端が頭をかすめる。
これまで、あまり良い人生じゃなかったなあ。
もし生まれ変わるなら……
願いは最後まで言えず、気を失った。
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