あの時のあの場所の

ロッドユール

第1話 あの時のあの場所の


  

 食いしばる歯に滲む血と、溢れる血の涙の源泉を、私はこの身の内に受け続けていた。それはどこまでも悍ましく汚れた圧倒的暴力だった。

 今日も規則正しい泥のついた軍靴の音が聞こえて来る。

 私を抉る男たちの汗臭い欲望。それはこの身の終わりまで続いた。


 私という連続に今日も穴が空く。

 全ての痛みの連続と、全ての苦しみの連続がそこにある。それはもう遠い物理的時間の彼方に終わったはずだけれど、今でも私の魂の一番の内側から、繰り返し繰り返し何度も何度も私を犯し続ける。

 痛み、痛み、痛み・・、

 この痛みの永遠と、それが永遠であるという痛み。その二つともに私は絶望しなければならない。


 赤い日の丸が揺れる。もうそれは動き出してしまった。もう誰にも止められない。誰も知らない終わりまで。


「私には全く分からない・・」

「あなたが一体何にそんなに苦しんでいるのか」

「そんなに簡単に分かってたまるもんですか」

 私の記憶は現実なのよ。


 病んだ狂信者の宴。感染する愛国。狂人が権力を握って走り出す。


「私はそれは違うと思うの」

「でもあなたは見ていないでしょ」

「えっ?」

「私は見たのよ。あの時、あの場所を」

「私は・・・」

「あなたは見ていない」

「でも・・」

「あなたは見ていない。何も」

「私は見たのよ。はっきりと、この体で」

 あの血溜まりの凄惨という人間の本質を。


 私はもう歩けない。

 人間は筋肉ばかりで歩くわけではない。骨格ばかりで歩くわけではない。人は歩く一歩一歩にさえ、希望がなければならない。踏みしめるその一歩には、生きている「意味」がなければならない。その一歩には、価値が、意義が、明日が、なければならない。


 襤褸の屍。君が代だけが虚しく漂う。


 ただそれは終わった夢ではない。

「それは誰も侵すことの出来ない普遍的絶対の歴史」

 それは確かにあったのだ。あざとい言葉にいくら靄をかけられても、それはその向こうに確かに「あった」のだ。

 そして、それは今も「ある」。


 切り刻まれた魂の鬱積。やさしかった魂の慟哭。

 私は修羅道を行く鬼。血の涙を流す夜叉。


 戦争は終わってなどいない。あの戦争は決して終わってなどいない。


 グゥゴー、グゥゴー・・・


 戦争は今も私の耳元で鳴っている。


 グゥゴー、グゥゴー・・・


 豆腐を憎しみで握りしめたような、あの感触の無い、届かない悔しい思い。

「お前、もう、気が狂ってしまうぞ」

 もう、狂ってしまいたい。

「お前、もう、死んでしまうぞ」

 もう死んでしまいたい。

「生きていることの歓びを感じたのは、もういつの頃だったかしら」

 私はどこかで望んでいる。私という生きた全ての完全な消滅を。


 私の心臓は流れ込む苦しみの淀みに、もう鼓動をやめてしまった。


 私の血は悲しみを流し過ぎてもう色を失ってしまった。




 ・・・、



 ただもう終わってしまったはずのあの場所に




 ただ日の丸だけが今も


 赤く燃えている。

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