封緘の夜

斑鳩彩/:p

daybreak

 インターホンが鳴り、布団から身を起こして玄関に出る。

 ドアを開けるとポストマンの帽子が浮いていた。文字通り、空中に。一言で言えば透明人間。それも正確な表現ではないが。なぜならこの街には私以外の人間はいないからだ。

 ポストマンは郵便鞄から封筒を取り出して私に渡す。何の装飾もない、質素な茶色の封筒だ。小さく書かれた送り主の名前は貴女のものだった。

 ポストマンは軽く会釈すると、早々にバイクに乗って去っていった。軽い排気音が無音の街に虚しく響き渡る。その残響もついに引き切り、視線を手元に戻した。

 癖のある丸文字。紛れも無い、貴女からの贈り物だ。

 待ちきれずに玄関先で封を切る。中に入っていたのはびっしりと文字が詰まった一枚の便箋だった。

『――調子はどうですか? あの日以来、こうして貴女と話すのは何年ぶりになるでしょう。あれから嬉しい事もたくさんありました。悲しい事もたくさんありました。その全てが輝かしい思い出に思えます。

 ――貴女と別れてから、私は新たな道を歩み始めました。失ったものは大きくても、得られるものはずっと広くなったように思います。模範解答や予定調和を切り捨て、私の思うままに生きる事ができるようになれました。

 ――もし過去の私がもう少し賢かったら、こんな結末にはならなかったのでしょうか。

 ――いいえ、どちらにしても同じです。私が私である限り、否応にも貴女との別れは訪れるものです。私と貴女どちらに罪があるのかと考える行程は無意味で、もしかして今を二人一緒に過ごせたかもしれない、なんて夢想するのはそれこそあの日への冒涜です。

 ――少し重たい話になってしまいました。本当はもっと楽しげな事を書きたいと思っていたのですが。かといって書きたいことを用意していた訳でもありません。当て所ない思いを、ただペンの赴くままに綴っているだけです。

 ――便箋を濡らすは心より溢れし透明な雫――なんて書くと格好良すぎですが。実際には私のとりとめのない愚痴のようなものです。でも、だからこそ意味があると思いませんか?

 ――そういえば、貴女は『繧√>縺阪g縺公園』を覚えていますか。小学校の帰りに皆でよく遊んだでしょう? 特に約束なんてしなくても、あそこに行けば誰か友達がいて、お互いの顔が見えなくなるまで息を切らして走り回りました。

 ――先日久しぶりにあの公園の近くを通ったら中で工事をしている最中でした。聞いてみたら危険な遊具があるので撤去しろと要請が来たとのこと。丸いクルクル回転する遊具とか、雲梯のアスレチックとか、かつての私たちの存在が削られていくようで悲しかったです。ブランコは錆びついたチェーンだけ安全なものに挿げ替えられていましたが、それはそれでやるせない心持になりましたね。

 ――公園が広くなったように感じたのは、単に遊具が減ったからだけではないのでしょう。安全の意味を知らずに喚いて、結局大事なものを失ってしまったわけです。本当に守りたかったものを。

 ――時にそれは一生戻る事のない溝を作り出します。まさに私と貴女のように。気付いた時には全て遅いのですよ。私は本当に愚かでした。愚鈍で、愚直でした。そのあたりは今も大して成長していないと思います。

 ――下らない雑談をしていたはずが、なかなか深い話になりました。やはり無意識の時こそ一番頭が回るようです。私はまだ書き足りないので、出来ればもう少し付き合っていただけると幸いです……

 そこまで手紙を読んで顔を上げる。

 もれなく目に入るのはがらんとした公園である。入り口の石には『繧√>縺阪g縺公園』と彫り込まれている。別に手紙の内容を意識してここに来たわけではない。漫ろに散歩をしていたらたまたま近くを通っただけだ。公園は記憶と寸分の差なく、いつかと同じように佇んでいる。今もそこには子供たちが居て、駆けっこをして、雲梯を渡り、回転遊具をカラカラと回していた。

 しかし、先にも言ったようにこの街には私以外の人間が存在しない。だからそこに居るのは、痕跡とか、影とか残滓とかそんなものに近い。元よりこの街は私の希望的観測に過ぎないのだ。

 公園のベンチに腰を下ろして一息つく。

 空を見上げると美しい星空が望める。無数の恒星が泳ぐ海原の中で、黒い月だけが朧々と燻っていた。美しく、冷ややかな情景だ。しかし、その美しさを大成させるのは皮肉にも暗夜に他ならない。

 永遠など存在しえない。それは時と乖離したこの街においても同様である。昼が存在するから夜がある。夜が終わるから朝が来るのだ。どちらが正しいなんて証明するのは不可能である。 

 落ちることのない月を見上げ、その光を一身に浴びる。夜色のドレスは月光を麗しく靡かせる。しかし、拡散した月光はたちまち色褪せて消えていった。

 劣化。

 ――一陣の風が吹く。

 私は驚いて空を見上げた。空が、動いていた。

 流れ星が落ち、細かな煌めきとなって降り注ぐ。その欠片が公園の遊具に触れた途端、それらは灰のように崩れ落ち、風に攫われて遠くへ吹かれていった。やがて煌めきが消えると、掠れた空き地が残るのみだった。

 残滓も何もかもが失せ、残るは天の月のみとなって、私は手紙が途中だったことを思い出す。

 まだ夜は長そうだった。

『――私と貴女の存在はとても奇怪で、許されるものではありませんでした。皆貴女の事を嫌って、殺そうとして。萎れた徒花のように。

 ――私は傷つきたくなかったから、皆の言葉を信じて――信じたふりをして貴女を憎みました。私だけが貴女を信じる事ができたはずなのに。

 ――失意と暴威の血溜まりの中でドレスを濡らした貴女を冷静に見つめ、そこに私の影を見た時、貴女の哄笑に含まれた悲愴の正体を知ったならば、私は貴女を憎むことができなくなっていました。

 ――今日は久しぶりに星を見ました。私の街にも夜が来たのです。屋上に出て空を見上げると視界いっぱいに夜が広がりました。全ては当たり前にあった事。世界は何一つ変わっていなくても私が変わるだけで世界はこんなにも美しくなるのですね。

 ――でも、逆に言えば美徳なんて所詮私の心持次第で容易に変わってしまう、ちっぽけなものであるともいえます。自分の存在の小ささを知り、私は虚無感に襲われました。夜空に手を伸ばしても星に届きはしないのです。裁きの炎に身を焼く事すらできないのです。

 ――私は地を這いました。罪を贖うには痛みを伴います。身を削ぎ、血を流し、結果として私が得たのはただ平凡な『私』だけでした。それ以上でもそれ以下でもない。ただそこにいるだけの、透明な私。

 ――すっかり薄くなってしまった私の掌を月にかざし、その影の中にあなたの面影が無いか捜します。いつか、また貴女に会える日が来るのでしょうか……

 再び顔を上げると、今度は高校の前だった。当然の如く辺りには人ひとりとしていない。歩き慣れたはずの通用門は灰に塗れて、私を迎えてはくれない。

 門を抜けると、にわかに霧が立ち込める。延々と同じ会話を続ける残滓の脇を通り過ぎ、校舎への道を進んでいくと、玄関前が騒めいているのを感じた。

 見ると罅割れた地面の上に人が倒れていて、私は駆け寄る。しかし、近づいてみるとそれはただのマネキンだった。そのマネキンは鏡から這い出たように私にそっくりで、ただし全てがのっぺりとしている。背からは捩れた翼が生えていて、脱皮不全の昆虫を思わせた。

 うつ伏せに倒れていたマネキンを仰向けに起こすと、罅の入った小面の能面を顔に付けていた。能面を外そうと手を伸ばすと、触れた瞬間に弾けるように割れ飛ぶ。露わになった顔は先程の能面が張り付いたように微妙な表情で、しかしどこか晴れ晴れとしている。

 マネキンは見下ろす私に手を差し伸べる。その腕はとても弱々しくて、今にも息絶えようとしていた。結局、マネキンの手は私の頬を掠める直前に落ちた。

 ぽかりと開いた眼窩から一筋涙が零れ、頬を伝って地面に落ちる。湿ったコンクリートの罅割れから芽が生えたかと思うと、すぐに芽は成長していき、可憐な白百合の花を咲かせた。

 ――貴女のようだった。

 白みだした空が、夜の終わりをさやかに告げる。

 百合は風に吹かれて頭を振り、嗤う月は垂直に落ちる。

 望まれぬ者の悲歌梗概。その吐息は黎明に溶けて許されない。

 一面性。

 世界が傾いているのか、私が傾いているのか。

 心臓は薔薇の棘に縛られて、誰もが悲鳴を聞いただろう。それでもなお美しいとも人は言うだろう。

 私は便箋を手に立ち上がる。

 行こう。終わりの場所へ。

『――私は貴女を否定するつもりはないし、貴女を肯定する気もありません。

 ――ただ貴女の存在を受け止めて――この腕で受け止めて。

 ――一過性の幸福論に縋るのはやめにしました。

 ――償いではありません。私が私であるために貴方の存在が必要なのです。貴方のためを思ってとか、貴女が可哀そうだからなんて無責任なことは言いません。他でも無い私自身のために、貴女が必要なのです。それが私が背負うべき責任だからです。

 ――気が付くと、便箋の空白に終わりが見えてきました。思い付きで認めた手紙ですが、貴女に無事届くと良いのですが……

 ――最後に。

 ――愛していました。貴方の強かで艶やかな黒い髪を心から愛していました。貴方の冷ややかで偽りない黒い瞳を心から愛していました。

 ――また会う日まで。』

 屋上への扉を開けると、ゆるかに風が吹き抜ける。地平線に滲む朝日が眩しくて思わず袖で目を覆った。

 真っ白な屋上の真ん中に、真っ赤な躯が鎮んでいる。私はそれを一瞥して、茜色の差す方へ向かった。

 読み終わった便箋を封筒にしまおうとすると、他にも紙が入っているのが分かった。

 取り出してみると、それは一枚の絵だった。 

 朝焼けを切り取った世界の中で、天使と悪魔が抱擁していた。直濡れた両者の髪から白と黒の滴が落ち、二人の足元で小さな流れになる。二本の流れは灰の湖をつくり、そこで一人の少女が空を仰いでいた。

 絵を裏返すと、置き書きがあった。

『夜明け』

 私は微笑む。

 いよいよ頭を出した太陽を見下ろし、金色の光に感嘆の溜息を漏らす。夜色のドレスは陽光を吸い込んで艶やかさを失っていく。しかし、身体を包む温もりは確かな感覚だった。

 破牢。

 右手を掲げ、手の中から黒百合を取り出す。

 貴女から貰った封筒に黒百合を詰め、懐にしまう。帰りがけにポストに出しておけばきっとポストマンが届けてくれるだろう。その前にこの朝日を思う存分眺めたい。


 ――ふと思い出して、私は封筒を再び取り出す。

 そして裏面に『夜』とだけ書いて、またしまった。

 封緘の夜を貴女――いや、もう一人の私に。

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