第191話 友達

現れたのは直人だった。カオスなこの状況の中で、彼は真っすぐアニイを見ている。

強い殺気や威圧感は放っていない。彼はただ立っているだけだ。


そしてようやく喉を絞められていたダメージから回復した摩耶。

うっすらと見えてくるその姿を見て、何故ここに直人がいるのかと問いたい摩耶だったが、口から上手く言葉が出てこない。


そして向かい合う直人とアニイの二人。


一人は金色の瞳に絶世の美貌を持つ怪物。

そしてもう一人は、その手に一本の黒刀を握っている。


「あれをやったのはアニイか?」


その男の視線の先には、死んだであろう打ち捨てられた傭兵の姿がある。

そして人間を殺害したという事実は、アニイが人間と共に歩む権利を失ったということでもあると両者は共に知っていた。


「アニイ、お前に恨みはない。⋯⋯だが、分かってるはずだ。俺達が一緒に居られる条件はお前が人間に手を出さないことが条件だと。それを破ったなら、どんな理由があってもアニイを俺は斬らなきゃいけない」


鞘から、直人はゆっくりと刀を抜いた。


それを見た摩耶は思った。何故、そんなことが出来るのかと。

相手は紛れもない怪物で、騎士王すらも圧倒する化物だ。まさか直人がアニイと戦い、そして勝つことが出来るとでもいうのかと。


ところが、アニイはそれを聞いて軽く微笑んだ。

それはこの状況をしてもなお異彩を放つほど美しかった。


「⋯⋯きっと、そう言うと思ってた」


「それは、絶対に変えられない。悪いなアニイ」


アニイは何も抵抗しなかった。

ただ微笑んで、その時が来るのを待っている。


そして直人は、刀を抜いた。

目を閉じるアニイ。彼女は最後に襟を捲って彼女自身の首を露にした。


「斬って」


「分かった」


二人のやり取りは、たったのそれだけだった。

ピュッという風切り音は確かに摩耶の耳にも届く。


その瞬間、直人の持っていた黒刀は超速で抜き放たれた。

それは紛れもない抜刀だが、一度掠るだけで骨まで両断されてしまいそうな恐ろしい覇気を纏い、それを直人は力むことも殺意を露にすることもなく、何の予兆も見せることなく放った。それが出来て当たり前のことであるかのように。


が、その時誰しもが予想せぬ方向に事態は動いた。

その刀の矛先は間違いなくアニイの首だと誰しもが思っていただろう。


ただ一人、直人を除いて。


ザシュッ!と音を立てて黒刀はその鋭利な刃を突き立てた。

しかしその刃先が向けられたのはアニイではない。


「⋯⋯でも、俺がアニイを斬る必要はない」


直人の手から黒刀が消えていた。

そして刃が突き立てられた音は、全く別の所から聞こえてきた。


カタカタと少しだけ揺れながら斜めに突き刺さっている黒刀。

その刃は何故か、死んでいる傭兵の胸元に突き刺さっている。

そしてそれは直人が意図して起こした行動であり、事故ではなかった。


直人は抜刀の勢いそのままに、刀をそこに向けて投げたのである。


「だって、アニイは人を殺してないからな」


マキも摩耶も、そしてアニイも直人が言っている言葉の意味を分かっていなかった。

しかし直人は決して虚言を言っているわけではない。


すると直人はツカツカと刀が刺さった傭兵に向かって歩く。

そして倒れ伏すそれの傍らに立つと、刀の柄に手を掛けた。


「その理由はこれだ」


直人は刀を抜いた。

そして返す刀で、再び刀を振る。


そして何と直人は、倒れている傭兵をその一撃で両断した。

ならば温かい臓腑と血液が流れ落ちるかと思いきや⋯⋯そうではなかった。


「⋯⋯はは、何てこったい」


マキはそう言葉を漏らす。

そして直人は切断したそれを見ながら言った。


「マキさんもこれで見て分かるはずです。これは高度な技術で作られたロボットだ」


切断された胴部の断面に見えるのは、無数のコードと金属やセラミック、ゴムのような部品で構成されたパーツ。そして綺麗に斬られた半導体と電子基板。

何とアニイに投げられたそれは、人間ではなくロボットだったのだ。


「きっとここから逃げ出したのも皆ロボットたちでしょう。人間に限りなく近い思考を持つAIを与えられ、機能も人間と同等かそれ以上。このロボットは途轍もない技術と才覚の総合芸術です。マキさんや、壊したアニイすらこれがロボットだと気付かなかったのもこれらがいかに完成度の高い物かをよく示しています」


するとマキは足音を立てながら直人の元に向かう。

そして彼の足元に転がるそれに目を通した。


「直人。何でこれがロボットだと気づいたんだい?」


「⋯⋯強いて言うなら、人特有の『暖かみ』を感じなかったからです」


きっと今まで潜り抜けてきた修羅場の経験が、直人に人ならざるものか否かを判別させたのだろう。


「本職のアタシが、君の勘に負けるとは情けない話だよ」


マキはいつにも増して興味深そうにロボットの構造を見つめる。そして時間にして数十秒ほどだろうか。彼女は軽く溜息をつくと言った。


「こいつを作ったのはアタシなんか足元にも及ばない、正真正銘の天才だ。造形、プログラム、溶接、配線からパーツ設計、全てが悪魔が作ったような代物さ」


「マキさんでも再現できないようなものだと?」


「再現なら出来るかもしれない。でも、これを一から作った奴がこの世にいるだなんて思いたくないくらいさね」


そう語るマキの顔は、目の前の傑物に圧倒されているわけでも、また自身の技術力を上回る存在に対して畏怖の念を抱いているわけでもない。

その目はまるで宝物を見つけたかのようにキラキラと輝いていた。


「何度死のうと思ったか分からない人生だけど⋯⋯改めて生きてて良かったと思うよ。生きてたおかげでアタシは今コイツに出会えたんだからさ」


マキは純粋に目の前のそれに感嘆していた。

熱っぽくそう語るマキの目は、技術者としてこのロボットに秘められた技術の全てに感嘆するようにキラリと光っている。


「早速持ち帰って分解するよ。楽しみだねえ、一体どんなメカニズムで動いてんだろう? ターボバッテリーか、燃費の問題があるから並列で動かしてるのかな? でもこのボディは⋯⋯⋯」


ブツブツとロボットの残骸を見てひとりごとを言い始めたマキ。

こうなったらもう誰の言葉も彼女の耳には入らない。

自分の言葉もマキが落ち着くまで届くことはないであろうことを知る直人は、軽く肩を竦めると黒刀を鞘に納めた。


だがここで、小さな声が聞こえてきた。


「斬ってって⋯⋯言ったじゃん」


声の主はアニイだった。

自身の襟元をギュッと握り、彼女は俯いている。


「もう⋯⋯もう、アニイはダメなのに」


「何がダメなんだ?」


「直人は分かってるでしょ。アニイは、もう人間と一緒に居られない。だからもうアニイに居場所なんかない⋯⋯」


アニイはもう魔力を放出していない。

それは彼女が落ち着いたこともあるし、またアニイ自身が今この状況でどう振舞うべきかを見失っている困惑もあると直人は思った。


「アニイが壊したのはロボットだ。人間じゃない。だからまだアニイは『人間の敵』とは言えない、と俺は思ってる」


「そんなの⋯⋯アイツらが認めてくれるわけない」


アニイの言うアイツらとは、きっとミスターのことだ。

ご自慢のロボット傭兵をアニイによって破壊され、アニイが面と向かって人間に敵対する旨を知った彼は今頃アニイ討伐の手筈を整えているはずだ。


だがここで、直人、アニイ、摩耶とは別の声が聞こえてきた。


「い、いざ⋯⋯尋常に勝負⋯⋯」


ボロボロのアレクがようやくここで戻ってきた。

がしかし、彼はもう戦える状態ではなくその場でバタッと倒れる。


「アレク!」


駆け寄った摩耶が治癒異能を発動した。

たちまち傷が癒え、アレクの体力も回復していく。

暫くして体のおおよその傷が塞がったところでアレクは軽く手を開いたり、体の可動域を確認するように体を動かすと摩耶に礼を言った。


「ありがとうマヤ。君は最高だ」


するとバク宙一回転の後、アレクはアニイと再び向き合う。


「さあ待たせたね。ではさっきの続きを⋯⋯」


「ス、ストップ!」


しかしここで摩耶がアレクに待ったをかけた。

デュランダルを発動しかけていたアレクは、何でか分からずきょとんとしている。


「騎士王。もう貴方が戦う必要はない」


ここで直人がアレクの前に立ち、アニイとの間に割って入る。

アレクはここでようやく直人の存在を認識した。

何故直人がここにいるかは聞かず、アレクは問いかける。


「君はさっきの少年ボーイだね。僕が戦う必要がないとはどういうことだい?」


すると直人は言った。


「アニイは人間を殺してない。だからまだ人に直接危害を加えたことはないということになるし、それならアニイを倒す義務は生まれない。それに⋯⋯」


直人はアニイの今の顔を見て続けた。


「アニイはもう戦う気がなさそうだ」


ここでアレクは直人の向こうにいるアニイをしっかりと見る。

感知できない程に静かになった魔力の波と、何よりアニイ自身の今の沈みきった様子がアレクにも同様の印象を与えたようだ。


「君が彼女を落ち着かせてくれたのかい?」


「違う。アニイが自然と落ち着いただけだ」


それは半分本当で、半分嘘だった。

しかしアレクはそれを知らない。


「でも不思議じゃないか。さっきまであれ程僕らに脅威を見せていたのに、何故アニイは戦意を喪失してしまったんだい? まるで魔法にかかったみたいじゃないか」


実は、直人も何故アニイが急に落ち着いたのかを分かっていなかった。


直人は、アニイが壊したロボットが人間であったなら本気でアニイを殺すつもりでいたし、壊したのが人間ではなかったというのもあくまで事実を正確に述べただけに過ぎない。決してそこにアニイに対する特別な感情があったわけではない。

だから直人は、今のアニイの気持ちが分からなかったのだ。


それはある意味、直人という人間が持つ大きな欠点の一つなのかもしれない。


自棄やけを起こしたんでしょ?」


だが、アニイの気持ちに一番近い考えを持つ人間がそこにいた。


「寂しかったから。誰も自分が寂しいと思ってることを分かってくれないから、周りに当たりたくなっちゃったんでしょ?」


言ったのは摩耶だった。

不思議と今の彼女にアニイに対する恐れはなかった。


「けど手を出してしまった時にはもう取り返しのつかないことになって、だから自暴自棄になってアレクと戦って、そして私にも⋯⋯」


しかし、アニイはまたもここで摩耶の胸倉に手を掛けた。


「分かったようなこと言わないでよ」


アレクはデュランダルを発動しかける。アニイを止めようと思ったに違いない。

しかし摩耶はアニイではなくアレクを止めた。


「分かるよ。だって私も同じだもん」


彼女の胸倉を掴むアニイの手は、さっきとは違い弱々しかった。

摩耶の手でも簡単に振りほどけそうなほどに。


「私もずっと寂しかった。兄が事故で亡くなって、母は何処にいるかも分からなくて、父には家を追い出されて⋯⋯だからマキさんの所に逃げたの」


その時、それを聞いたアニイの手はさらに弱く緩められた。

今まで敵としか思っていなかった摩耶の過去を初めて知ったからだろうか。


彼女は続ける。


「私には分家の知り合いは居ても、家柄を絡まない友人は殆どいない。いっつも近くにいるのはお稽古の厳しい先生と、もっと厳しい父だけ。でも文句なんか言えないから自分の気持ちを押し殺して我慢してた。けど⋯⋯遂に我慢できなくなったの。

父が兄を侮辱したあの時、初めて父に逆らって直接父に『間違ってる』って言った」


摩耶が思い出していたのは、パンドラ討伐後の電話でのやり取りだ。


「きっと、あの時の私と今のアニイちゃんは同じなんだと思う。ぶつけ方と、その結果が少し違っただけで⋯⋯」


アニイはもう摩耶の胸倉に手を掛けていなかった。

すると空いたアニイの両手に摩耶は手を重ねた。


「ずっと一人で寂しかったんだよね。分かるよ⋯⋯その気持ち」


するとアニイの手を摩耶は握った。

アニイはきっとその手から、人の手の暖かみを感じただろう。


「私ももう一人にはなりたくない。だから⋯⋯私もお友達が欲しい。もし、もしね、アニイちゃんがいいって言ってくれるなら⋯⋯」


その時、少しだけアニイの手が震えた。

摩耶が何を言わんとしているか、きっとアニイも分かったのだろう。


「私じゃ、ダメ?」


摩耶も、言い慣れていない言葉を言うことに戸惑いがあったのだろう。

その言葉の語尾は少しだけ上ずっていた。それは彼女がいかにその言葉を言うのに勇気を振り絞ったかの証明かもしれない。


「⋯⋯⋯」


何も言わない。もしかしたら言葉が出ないのかもしれない。

アニイが黙っていた時間、そこにいる誰もが微動だにしなかった。


「⋯⋯⋯ん」


蚊の鳴くような声だった。


「⋯⋯⋯うん」


アニイは友達とは何かを知らない。

直人とは命の恩人、もしかしたらそれ以上の忠誠で結ばれているが友達ではない。そしてアイドルとして活動していた時も人に愛想を振りまくことはあれど、それを友達に対しての行動だと思ったことは無かった。


ポスッと摩耶の胸元に顔を埋めたアニイ。

今のアニイからはもう殺気立つ魔力は感じない。今のアニイはまるで嵐が明けた後の木漏れ日を思わせるような温かい波動を放っていた。


「アニイと友達に⋯⋯なって」


モゴモゴとこもり気味になったアニイの声。

摩耶は、そんなアニイの頭をゆっくり抱きしめた。

それは気が付いたとき、摩耶の体が自然と起こしていた行動だった。


「⋯⋯ありがとう」


グスンと鼻を啜る音が摩耶の胸元から聞こえてくる。

すると、摩耶はアニイの頭を優しく撫でた。


「どういうことだ?」


直人は最後まで彼女たちの行動の意味が分からなかった。

するとアレクは、そんな直人の言葉を聞いて口を開く。


「僕の出番は終わった、ってことさ。きっと君の出番もね」


しかし、そう言うアレクは直人を見続けている。

まるで何かを感じ取ったかのように。


「君の名前は⋯⋯いや、今回は敢えて聞かないでおくよ」


アレクはそう言い残して踵を返した。

自分の日本での仕事がもう残っていないことを理解してか、はたまたここで自分が出来ることがないことを分かってかは彼のみぞ知る。

しかし彼は最後、直人でも聞き取れない位の小声で呟いた。


「また君とは会うことになりそうだからね」


そして、アレクは乾いた足音を響かせてその場を後にした。



========================



一方その頃、地上にて。


「ウオアアアアアッッ!!」


プシュッ、キューンと音を立てて再起動するパワースーツ。

するとそれを纏った男は、根性でようやくその体制を立て直した。


「アレクサンダー⋯⋯こうなったら不意打ちでもいい。どんな手段を使おうと絶対にあの男を倒さなければ気が収まらんぞ!」


スライムフェイスは何とか復活を果たしていた。

アレクとの壮絶な一騎打ちは、仮に見物人がいたなら語り草になるであろう程の激しいものだった。アレクのパワーにスーツで強化されたスライムフェイスが対抗する戦いは、短いながらもお互いのベストを出し尽くした戦いだっただろう。


しかし、やはりアレクは強かった。

銃火器の一斉掃射もアレクを追い詰めるには至らず、そしてスライムフェイスは敗北した。それもデュランダルのたった一振りによって。

スーツに守られていなければスライムフェイスは文字通りバラバラになっていただろう。しかしスーツが大きな損傷を受ける代わりに彼の命は守られた。


しかし、それが彼にとっては屈辱でしかなかった。

動けぬスライムフェイスに追い打ちを仕掛けなかったアレクの慈悲までもが、彼にとっては己の弱さをアレクが笑っているかのように感じられたのである。


と、ここでスライムフェイスの前にある地下アジトに続く入り口から脱兎のごとく逃げ出したロボット傭兵軍団が現れる。


「貴様らッ!! 所詮はAIロボットの分際で命惜しさに逃げ出すとは⋯⋯!!」


スライムフェイスは彼らの秘密を知っていた。

知っていたからこそ連れてきていたし、いくらでも替えが効く存在であることも分かっている。だから、彼らを消すことに微塵も自責の念を感じなかった。


「使えんロボットに用はない!」


スーツの腕元にある赤いボタンを彼は押した。

その瞬間逃げだした傭兵ロボットの全てがカッと光ると、爆発した。


元は相手に致命傷を負わせる最終手段としての自爆システムだったが、スライムフェイスは怖気づいたロボットたちを消す手段としてそれを使ったのだ。


「⋯⋯ん?」


するとここで、スライムフェイスは爆発によって生まれた煙の向こうからひょこひょこと小さな影がこちらに近づいてくることに気付いた。

「ミャー」とか細い鳴き声が聞こえ、そして真っ黒な猫が現れる。


「DB-S-002が連れていた小型DBか。これが逃げ出したということは⋯⋯!!」


恐らくスライムフェイスにとって『愉快ではない』ことが地下で起きている。

それがただでさえ上がりきっている彼の怒りのボルテージをさらに上げた。


「ならばコイツは殺す。この黒虫には、もう道具としての価値もない!!」


スライムフェイスは怒りに任せてその子猫、コロを蹴り飛ばした。

ギニャ!と声を上げて吹き飛んだそれは茂みの向こうに消えていく。


「ミンチにして殺してやる。死ね!」


そしてスーツに仕込まれていた小型ミサイルをコロに向けて撃ち放った。

大爆発が起こり、茂みどころか一帯の木まで跡形もなく飛ばしてしまったそれを見て、スライムフェイスはコロが黒い霞になって消えたことを確信したのだろう。

踵を返すと、今度はそのミサイルの照準をアレクたちが消えていった地下アジトの入口へ、何も知らずやってくるであろう彼らに不意打ちを喰らわすために向けた。


しかしここで、スライムフェイスにとって予想外の事態が起きた。


「な⋯⋯に⋯⋯?」


茂みがあったはずの場所を黒い渦が巻いている。

その中央には、コロがいた。そして今黒い渦はみるみる内に大きくなっていき、そして中央にいたコロを渦が包んでいく。


そして、悪夢が起きた。

コロは突如巨大化し、一体の巨大なモンスターへと変貌したのだ。


巨大化したコロは、その瞬間に消える。

同時にスライムフェイスは己の体に牙が突き立てられる焼けるような痛みを感じた。


「私の足がッ!!」


スライムフェイスの左足が消えた。

いや正確には目にも止まらぬ速さで『もぎ取られた』

強化スーツごとそれは、恐るべきアゴの力で奪われた。


「グルルルルウウ⋯⋯!!」


そこには、先程までの子猫は居なかった。

いるのはただ、小型ながら信じがたいスピードでスライムフェイスの左足を自らの栄養分とした恐るべき黒の上級DBである。


「まさか⋯⋯これは!」


だが、スライムフェイスはそのDBを前に一度見たことがあった。

あれはとある変人大学教授の身辺調査をした時だったと覚えている。その男が裏で密かにDBの培養をしているという噂が立ち、スライムフェイスはその大学教授の研究資料を極秘潜入時にミスターの命で盗み出したことがあった。


そしてその研究資料にあったのは、『ジョージ』と名付けられた一体のDB。

推定ランクはA級で、型はピューマ。しかし異質なのは、ジョージと名付けられたそれは人間に敵対心を全く見せず、人を食べようとすることもなく、むしろ生みの親である教授や、ジョージを可愛がる教授の助手たちに懐いていたと書いてあったのだ。


しかしいざDBの違法培養の罪で教授の研究室にスライムフェイスが乗り込んだはいいものの、そのジョージなるDBは影も形もなく、あるのは一つの巨大な厄石のみ。そしてスライムフェイスは、ジョージの代わりに見つけたその厄石を見て、今回のアニイ襲撃作戦に厄石を使うことを思いついたのだ。


あの時はてっきり、ジョージは変人が空想で作り出した虚像だと思っていたスライムフェイス。しかし今、資料の中だけであるはずの存在が目の前にいる。


「お前が⋯⋯ジョージか?」


だが、もしそれが本物のジョージなら自分に手は出さないはずだ。

何故ならジョージは人間を喰わないはずだから。


しかしジョージは何故かスライムフェイスに近づいてくる。

強烈な殺気を放ちながら。


「私は人間だ! お前は人間を襲わないはずでは⋯⋯!?」


前足で、ジョージはスライムフェイスの胸を抑えた。

「お前をもう逃がさない」とでも言うように。


「おい! 見えているのか! 私は、人間なのだぞ!」


するとジョージは、後ろを向いた。そして地下アジトの入り口の方にその金色の瞳を向ける。そして再びスライムフェイスを見た。

再び向けられたジョージの金色の眼を見たスライムフェイスに戦慄が走った。今のアクションはまるで、地下に消えていったアニイ達に対する別れのシグナルのように見えたからである。


同時にそれは、スライムフェイスの存在が目の前のジョージには大した存在ではないと暗示するかのようでもあった。

スライムフェイスはその瞬間に理解する。ジョージの忠誠は自分に向けられていないということを。


「やめろ⋯⋯やめてくれ!」


ガパッとジョージの口が開いた。

鋭い牙と逞しいアゴがスライムフェイスの眼前に迫る。


「やめてくれええええええ!!」


そして、喰われた。

強化スーツをいとも容易く剥ぎ取り、中にある人間を余すことなく霧状に変質させ、そしてジョージはスライムフェイスを吸収する。


「グウ⋯⋯」


栄養を吸収し喉を鳴らすジョージ。

その時、変化が起きた。


まるで卵のように、彼の体を黒い殻が包み込んだのだ。

それは幼虫がさなぎになり、そして蝶へと姿を変えるかのような変態の儀式。

遂にその時が来たのを卵の中にいる彼は感じ取った。


A級DBジョージは、決して越えられぬはずの壁を越えた。

獣の体を捨て、人型の全く違う新たな体を得る瞬間だ。


ほんの数秒の時間で劇的な変化は始まり、そして終わった。

そして黒い卵はバキリとひび割れ、中から新たな人型のDBが姿を現した。

まだ文明に触れず、人の言葉を知らぬそれはまさに生まれたままの出で立ちの姿で、分厚い黒殻をバキリと破りながら現れた。


「⋯⋯⋯⋯」


DBに厳密には性別はない。何故なら生殖能力を持たないからだ。

ただ、今現れたそれに性別を付けるなら多くの人は男と呼ぶだろう。しかし、その多くは熟考を重ねた後に、また数名は女と答える者もいるはずだ。


キョロキョロと忙しなく視線を動かすそれは、限りなく少女に近い男子の姿をしていた。恐らく髪を伸ばしてメイクをすれば誰もが女子と思うだろうし、髪を短くしてわんぱく少年のような短パンと半袖シャツを着れば少年だと思うだろう。

髪は白に近い金髪で、その顔立ちは東洋風と言うより欧米西洋的だ。


それはいわゆる中性的な美少年だった。見た目は人間であれば中学生くらいか。

しかし人の体を手に入れて最初に目にする世界に、それは困惑している。


何も着ない生まれたままの出で立ちで木々を見つめ、そして自分が何者であるかを徐々に認識し始めていく。

まだ人の言葉は話せない。だから彼が思うことを言語化することも出来ない。

しかし彼の様子は、新たな力を手に入れたことよりも遥かに不安が勝っているように見えた。


しかし彼は不安を振り払い、手に入れた両足で大地を踏みしめて歩き出した。

行く当てのない旅路へ、自分が何者であるのかを知るための旅に向かうS級DB。


そして彼は後に一人の人間との大きな出会いを果たすこととなる。

だがそれは、もう少し後の話である。

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