しぐれ

川林 楓

病気で亡くなった望月良太。あちらの世界で不思議な奇妙な体験をする。そこは不思議なコミュニケーションルーム。

 そろそろ秋の気配を感じる。そんな気候である。カフェのオープンテラスで見かけるようなおしゃれな黒いベンチに望月良太は腰掛けている。望月は先月末に病死した。三十六歳。望月の肉体はもう無い。今、地球での人生から離れて所謂あちらの世界に来ている。死んで二週間ほどたったが、まだ望月という生から完全に離れてはいないようである。

 

 肉体に別れを告げる身内や友人を上から眺める景色は不思議なものだった。いったん離れた肉体はまるで他人のそれのように見えていた。家族や多くの友人が最後の別れに来てくれている。望月の母親が号泣する姿に、他の参列者は悲痛の表情をしていた。屋根を叩く大雨の音。それが余計にこの場を暗くさせていた。

「この角度から見たら俺って無愛想にうつっていたんだな」

 望月にはそんな気づきがあった。目尻に皺の深いその相貌は、話しかけづらいオーラを漂わせていた。ずいぶんツッパッて生きてきたが、棺桶に入るときは所詮みんな一緒だな。しみじみそんな事を感じた。人間ってそういうものだなぁと望月はふと思う。自分のことをわかっているように思いながらも、実際は自分の肉体は真正面から見えない。鏡の向こう、レンズの向こうなど、無機質な平面でしか眺めることができないのだ。そんな状態で自分のことは自分がよくわかっている。など実はおこがましい考え方なのかもしれない。

 肉体がなくなり魂になっても、半透明の望月良太のシルエットをしている。灰皿の近くに歩み寄って、タバコに火をつけた。死んでもタバコは吸いたい。そんな自分に望月は驚いていた。

 さっき、ここのスタッフに聞いた。魂の中の肉体の記憶はすぐにはなくならず死後しばらくはその容姿を魂は作るそうだ。服装も元のままで、ブランドスーツとオールバックの髪型。イカツイ身なりは生前通りというか、調子の良い時の望月の姿である。死の前は三十キロ近く痩せてげっそりと老人の様になっていたものだ。魂が作るイメージの肉体は、自分の都合の良い姿にできるらしい。望月にとってそれはちょっととした驚きで誰かに伝えたかったが、伝える相手など誰もいないと気付いた時に、自分は死んだのだと強く感じたのだった。

胸元のあいた赤いシャツと長いタイトなベージュのスカートが魅力的な女性スタッフにこれからの時間についての説明を受けた。望月には説明より巨乳の谷間のほうが気になったが。

「御命終わられて本当にお疲れ様でした。これからの処遇を決めていただく前に、それぞれの価値観を広げるコミュニケーションルームがあるんです。望月さんが日本人の男性として生まれましたよね。すると、その中の常識というか既成概念、固定観念が植え付けられているんですよね。その経験が悪いってわけじゃないですが、強すぎると次の生にも影響がでたりするので。出来たらここで違う価値観に出会って、そのあたりの考え方のネジをゆるめてもらえたらうれしいです。人生勉強とでもおもってください。あ、人生終わってますけどね」

 軽い微笑と明るい声色でのブラックジョーク。愛らしさがない女性に言われればムッとしそうだ。

 その女がまた近づいてきて甘ったるい声でお願いしてきた。「ひとつだけよいですか。コミュニケーションルームに入るときは、この黒の布をかぶってほしいのです」

 手に差し出されたそれは悪魔崇拝の集会などで着用されるそれである。なんでこんな怪しいものかぶらないとダメなのだと嫌がるそぶりをしたところ、「ついつい容姿で判断することって多いでしょう。それをしてしまうと結局自分の価値判断から抜けられないので。ある程度話をした後で、相手と同意の上で脱いでいただくのは構わないので。始まりは着用いただくようお願いします」また例の笑顔で明るい声色で言ってきた。望月は断ることはできない。

 確かに容姿で人の判断はしてきたなと望月は思い返した。二十代の頃、会社の上司のことである。会社でも随一の営業マンとして部下からも慕われていた人だった。定年退職されて三ヶ月ほどしたある日、偶然ショッピングセンターですれ違ったのだ。よれよれのポロシャツとよれよれのチノパン。猫背の後姿はずいぶん小さく見えた。スーツ姿とのギャップに哀れみが溢れた。中身は何も変わっていない。でも見た目や肩書きで判断してしまうのだということが痛いほどわかったのだった。上司の姿が望月自身にも重なりあう。病気でやせ衰えた自分はどのようにうつっていたのだろうか。望月はそんな想像をして少し落ち込んだ。

 黙って黒いマントをかぶり、望月はコミュニケーションルームに入室した。そこは教会のような作りだ。後ろが入口になっており前に小さな祭壇らしきスペースがある。四人用長椅子が左右十五列ずつ、全て前を向いて整列している。女性スタッフに言われた言葉を思い出す。

「直感ですよ直感。自分で話してみたい方の隣に座ってください。その方があなたにとって一番最適なパートナーですよ。」

 まるで婚活パーティーのようだなと思い望月は苦笑した。恐る恐る足を踏み出す。左右の長椅子は、誰も座っていないところが大半で、一人で座っているところが六ヶ所、二人ペアですわっているところが五ヶ所あった。なるほど一人で座っている人の隣に座ればよいのかと理解し、どこにしようか望月は吟味を始めた。「あ、それじゃあ直感じゃないな」と、望月は呟いた。ここで悩んで選んだら自分の思考から抜け出せない。パッと思ったところに座ってみよう。あの女の言葉を信じて直感のままに選んでみた。

 選んだのは右前方四つ目の長椅子。丸い頭が印象的な大柄なその人を選んだ。恐る恐るそこまで歩みを進めると、「ここ空いてるかい」とその人物にたずねて見た。

「あぁ良いですよ」少しのんびりとした話し方。風邪で喉がやられたのか、声はガラガラである。なんとなくその穏やかな雰囲気に望月は好感を感じた。姿かたちは黒い布で隠れているが、その丸々とした巨体はシルエットでも確認できる。相撲取りのような丸みが何か新鮮である。かなり良いガタイをしている。

「お互いに自己紹介でもしようか」望月が声をかける。

「はいそうですね」掠れた声で返答がきたので、望月は自己紹介を始めた。

「俺の名前は望月良太。二週間前に三十六歳で亡くなった。人生はいろいろ波乱万丈で一言では言い表せないものだよ。」波乱万丈であったという自負は、昔ワルだったという告白とともに望月自身を強く酔わせ自信を持たせるものであった。

「あんたの名前も聞かせてよ」人との距離のとり方が下手くそな望月は口調がきつい。よくそれが原因で喧嘩にもなったが、本人は意に介さない。その話し方に嫌なそぶりもみせずに相手は答えた。

「僕はシカダジュニアです。日本で生まれて日本で過ごしました。先祖は日本のものじゃなかったかもです。年齢はよくわからないです。というか死んだから年齢なんてよいじゃないですか。」

 なんだ日本生まれならば、あまり価値観は違わないではないか。望月は自分の直観力のなさを嘆いた。

「どうですか。良い人生だったかい」望月は話を広げようと話をふった。

「うーん良い人生かどうかか。私の一生は予想通りにすこやかにすごすことができました。ただ最後の十日間は地獄でしたけどね」

「おお、そうか」

 望月は同士を見つけたと思い、嬉しくなった。望月も最後は厳しい闘病生活を過ごした。ベッドでのたうち回るあの地獄の苦しみを共有できる相手はなんともありがたい。「俺も一緒だよ。最後の十日ほどは俺もベッドでのたうち回ったからな」

「あ、いや。僕のほうはベッドに入る暇もなく飛び回っていましたよ。敵から逃げ回っていました」

 敵ってなんだ?望月は怪訝な顔をした。戦争にでも行っていたのか。それともヤクザの抗争か。もしかしたら自分と同じような環境で育った男なのかもしれない。何か危険な匂いのする奴だ。これは舐められてはいけないなと望月は気持ちを引き締めた。軽くドスの聞いた声で望月は話し始めた。

「高校時代は自分で言うのはなんだけどとても悪かったんだよ」悪かったという言葉に後悔の様子はなく、むしろ堂々としている。「いわゆる番長だ。喧嘩は生涯負けたことがない」望月にとってこれは一番の自慢なのである。「俺は敵対する奴には徹底的に叩きのめすんだ。俺はなめる奴は絶対に許さない。力で頂点。自分の地位を築いたんだよ」語気に力をこめる。

「高校を卒業してから地元の悪い先輩に誘われてそのまま極道の道に入ってしまった。鉄砲玉になって敵の親分をぶっ放す直前までいったよ。そこで事前に察知していた警察に止められた。鉄砲玉になりそこなっちまったんだ。それは自分にとっては大きな屈辱だった。同時に死への恐怖をはじめて感じた。俺はまだ死にたくねえって。そこで親分に頭を下げて極道の道から足を洗ったんだ」

 望月はこのエピソードが大好きで、生前は二百回は話したものだ。結局は鉄砲玉にさえなれず臆病風を吹かせたのだろうと思った者もいたが、あまりに生き生きと話すので誰もつっこむことができなかった。

「そこで気持ちを改めて真っ当に生きることにしたんだ。知り合いの会社で不動産の営業マンとして働かせてもらったんだ。気合と体力には自信があったので、本気でやってやったよ。その時は女にもてたよなあ。中学生の時に百人斬りすると宣言していたが、この時には二百人くらいの女を抱いたな」

 望月の話は続く。その会社の営業マンとしてトップとなり、年収二千万円までいったこと。高級外車を乗り回していたこと。そこで独立して会社を設立したがうまくいかず二年で倒産したこと。その時に馬鹿にしたやつを見返すために再度会社を立ち上げ、次は業績を上げて大成功したことなどだ。淀みなく一気に話した。おそらく何度もしたことのある話なのだろう。スクリプトのように随所のオチまで決まっているようだった。そしてフィナーレの話である。

「しかし過度のストレスと不規則な生活がたたったのだろうな。内臓のほうが悲鳴をあげやがった。ひどい腹痛で倒れて救急車で運ばれたんだが、急性すい臓炎だった。それもかなり深刻な状況だ。加えて肝臓疾患もでていてよ。もう体はぼろぼろだ。一旦落ち着いたものの内臓が弱ると人間だめだな。力がなくなっていく。俺が俺じゃなくなっていくんだ。体に力が入らないということはみっともないことだぜ全く。」

 本当に悔しそうに望月は話した。今までの話し方とは全く違うものである。

「一ヶ月ほど入院して体調はよくなったのだが、半年後の検査で肝臓がんが見つかったんだ。これがもう処置できないものだった。その三ヶ月後、残念ながらこちらにきちまったというわけだ。でも本能のままに自由に生きた人生だからな。悔いはないぜ」

 このあたりについては、望月自身は盛り上がらない話らしい。この男にしては非常にあっさりした話し口であった。だが“本能のままに自由に生きた”という言葉は気に入っているらしくこの部分だけ少しトーンが上がったのだった。

「まあ俺の話はこんなもんさ。さあシカダ。あんたの話を聞かせてくれよ」望月は目をシカダに向けた。

 シカダがその要望に答えて話はじめる。「僕の一生なんて話すほどのことでもないですけどね。基本はっていうか、ずっと部屋の中に閉じこもっていました。」

「え?ひきこもり…… 」望月はその答えに驚いた。

「そうですね。ひきこもっていました。何年も同じところで」シカダは当たり前のように答える。

 なんだこいつは?さっき敵から逃げると言っていただろ。戦争やヤクザの抗争などじゃないのか。しかしいじめられっ子から命知らずのならず者に変化するという話はよくある。その類などだろうかと望月は自分を納得させた。人間社会は制限がある。やくざの世界でも、サラリーマンの世界でも、経営者の世界でもだ。皆、制限の中で自己主張し、自分らしい輝きを求める。ひきこもりとはその制限を拒否した自由すぎる振る舞いだ。その選択を望月は批判しないまでも、到底肯定をすることはできない。そもそも色々あっても日々の生活を楽しめる望月には、ひきこもりをする人間の気持ちさっぱりわからないのだ。目の前の男に俄然興味が出てきた。

「ひきこもりって苦しいのか?それとも楽しいのか?毎日何をして過ごしていたのだ。やっぱインターネットとかしていたのか」疑問をぶつける。

「いえ、インターネットなんてないですよ。別に何もしませんよ。お腹が空いたら食べて眠たくなったら眠る。苦しいも楽しいも別に何も無いですよ」これまたシカダは当たり前のように答える。そのひょうひょうとした感じに望月はちょっとイラっときて言う。

「親のすねをかじっていたのか」その暮らしぶりについてつっこんでみた。

「いや、親なんかとっくの昔に死んでますよ」

「じゃあ誰が面倒みたいたんだ」

「いやだな。別に誰にも面倒みてもらってないですよ。一人で生きてきましたよ」

 いまいち話に要領を得ない。もしかしてものすごい財産をもっていたのだろうか。大きな屋敷で悠々自適の生活をしていたのかもしれない。「親から財産引き継いだりしてたのか」望月は直球を投げつける。

「財産?そんなものないですよ。親が残してくれたのはこの身一つ

ですよ。寿命を全うできたので親には感謝ですね」

 淡々と答えるシカダが身を乗り出して逆に聞いてきた。「僕からも質問良いですかね」

「おーかまわねえよ」

「女性を二百人抱いたと言われてましたが、お子さんはいるのですかね」

「いやいねえよ。俺は子供が苦手でな。子供は作らなかったぜ。結局結婚もしてねえしな」それを聞いてシカダはとてもびっくりしている。

「じゃあ喧嘩いっぱいされてたんですよね。相手は周りの人ですよね。喧嘩する理由とかあるんですか」

「喧嘩に理由なんかねえよ。気に食わない奴を殴るだけだ」

 とても不思議そうにシカダは続ける。

「普通に生きていて、人間同士で気に食わない奴なんていますかね」

 わかんねえ奴だという風に望月は返す。「十代の頃は周りにゴロゴロいたんだよ。お前は喧嘩したことあるのか」

「ないですないです。そんな場面になったことないですからね。いやぁおもしろいです」

 本当に関心しているシカダの様子に望月も少し嬉しくなったが、イマイチこの目の前の大男の考えが読めない。いじわるそうに望月から話をふる。

「喧嘩はしたことねえんだな。じゃあセックスはしたことあるのかよ」

「あぁセックスですか。ひきこもってた時はないですけどね。死ぬ前に一度しましたよ」

 お、童貞ではないんだな。望月は少し驚く。死ぬ前に一度したとは風俗かなにかだろうか。

「素人とはしたことなさそうだな」

「素人?何かわかりませんが、嫁とですよ」

 意外な答えに望月はびっくりする。「え、嫁さんいたのかお前」

「いましたよ。子供欲しいでしょ。なので、会ったその日にしちゃいました。結婚もセックスもね」

 思いっきり大胆な奴だな。さすがに望月も仰天した。「お前の話はなんか大胆だな。予測がつかねえよ。仕事はしてたのか」

「仕事ってなんでしょう?働いたりしないですよ。そもそもなんで働くのですか」 本当に疑問でいっぱいの様子だ。

「なんでって、金が欲しいからだろ」

「なんでお金が欲しいのですか」

 この男は意味が分からない。望月は戸惑って答える。「お金が無ければ生きていけないだろ。旨いもの食べるのも。綺麗な女にもてるにも。欲しい物を買うためにもよ」なんて俺は当たり前のことを言ってるのだと望月は自分に呆れる。

「そんなことのためにいるんだ。めんどくさそうですね」

 やっぱりこいつは資産家か何かだな。望月は金持ちのその感覚に腹がたってきた。

「お前は財産あるかもしれないが、みんな生きるために働いているんだよ。人を馬鹿にすんじゃねえ」望月は少しすごんでみせた。

 シカダは少し慌てて答える。「あ、すいません。馬鹿にはしていませんよ。本当に感覚が違うのでびっくりしただけです」

「お前、日本人だろ。南の島にでも住んでいるのなら何かわかるけどよ」

「いえ日本人じゃないですよ。日本にいましたけど」

 あ、ハーフかなにかそんな感じだったな。だとしてもだ。日本にいてこの感覚のずれは何なのだ。望月の頭の中は違和感で一杯だ。

「僕からみたら食べ物あるところに家をつくれば良いのにって思う

んですよね。じゃあ動かなくて良いし食べたい時に食べられるじゃ

ないですか」

「お前ほんとに何言ってんだよ」望月は心底あきれた。

「なんかもったいない人生だな。生きている意味がないよそんなの。

せっかく人間として生まれたのだから、もっとこう人生を謳歌して

さ」望月はちょっとした説教モードに入った。

 そこでシカダが何か合点がいったかのように話し始める。「あっそっか。人生哲学的なものを持っているんですね」

 望月は意味がわからない。

「え、どういうことだ」とたずねてみたらシカダから提案がきた。

「どうでしょ。ここらでこの黒のマント脱ぎませんか。お互いのことがもっとわかると思います」

「ああ、別に構わんよ。じゃあ一斉に脱ごうか。せえの」

 声をあわせて二人は一気にマントを脱いだ。望月は自慢のオールバックが少し乱れたぐらいで、相変わらず目立ついかついスーツが似合っている。

 シカダをみた望月は目を丸くした。ほぼ同時に、大きなわめき声とともに後ろに飛び上がった。大きなこげ茶色の物体。これは人間なんかじゃない。熊か?いやもっと別の生物に見える。化け物だ。こんな大きな体の生き物とはなんなのだ。不思議と恐怖が混在した顔をしている望月に対してシカダが話す。

「あれ?私が何かわかってもらっていませんか。私は人間じゃないですよ」

「化け物かお前は?こんなもの見たことないぞ」

 この言葉にシカダが不思議そうに言う。「え?蝉みたことないのですか」

 いやいやと反射的に望月は首を横に振る。「蝉はみたことあるよ」と答えた後、一拍おいて、望月の口から言葉が飛び出た。

「ってかお前、蝉なんかい」望月の大声が高い天井に響き渡った。周りのベンチに座る者たちもこちらを振り返った。

「いやいやまずなんでそんなに大きいのだ。蝉とか言っているけど、羽がはえてないだろ。あと蝉ってそんな色の丸い図体じゃないだろ」

 その言葉にシカダは不満そうに答える。

「なんでですか。僕らはずっとこんな姿をしていますよ。肉体がなくなったのだから大きさなんて関係ないでしょ。同じ大きさのほうが話しやすいじゃないですか。その気になれば、望月さんも大きくも小さくもなれますよ。あと、蝉に羽が生えているのは成虫ですよ。」

「成虫が蝉の姿だろ」それが当然だろうという感じで望月は言う。

「いやだなぁ。そんなことないですよ。人間って死ぬ十日ほどの間を自分本来の姿だと言いますか」

 それは確かに言わない。その時の俺は俺であって俺でないと望月は思った。

「ずっと土の中で暮らしたのが、本来の僕の姿なんですよ。」やっと自分の想いを伝えることができたシカダは明るい声で言った。

 シカダのその明るい声を打ち消すように望月は言う。

「いやいやそれが本来の自分だと言うのか。土の中で何もせず自由の無い時間をすごすの事の何が楽しいのだ。生きている意味がないだろう」

「その楽しいとか幸せとか満足とかって感覚がいまいちわからないんですよね。望月さんの話には、何かを得ようって想いが強いですよね。それが僕には刺激的というか斬新に感じましたけど」

 何かを得ようとするのは当たり前だろうと望月は思った。

「何か得ようと言うのは、自分自身か、もしくは周りの仲間らが『無い』という経験をするからですよね。そんな経験が僕にはありませんもん」さも当然という風にシカダは言う。

「いや成功してお金を儲ける。それがあるから人生って充実するんだろうが」望月は強く反論する。

「成功やお金儲けで満足するんですよね。それは失敗や貧乏ってものがあるから。自分の経験や周りの仲間らがマイナスの状態になってるからその対比で満足するんですよね。そもそも僕らには失敗も成功もありませんもん。全員一緒ですよ。それが良いっていうのかそれ以外の概念がなかったから、望月さんの考え方は衝撃的でしたよ」

 えーわからん。望月の頭はこんがらがる。

「何か旨いもの食いたいとか欲求はないのかよ」

「旨いもの食べたいってことは、旨くないものを食べた経験があるからですよね。そんな経験をしませんからね。僕たちは」

「そんなんで幸せなのかよ」

 望月は吐き捨てる。

「いやだから幸せって感じるってことはその逆の感情の経験なりがあるのでしょ。それがないんですよ僕たちは」

 さっきからこいつは同じことを言ってると望月は気づいた。そうかわからず屋なのは俺かもしれない。

「でもすごくびっくりしたことあるんです」今度はシカダから話しかけてきた。「望月さん女好きなんですよね。すごい本能を大事にしてるんだと思ったんですが、子供嫌いだから作るのはしないんですよね」

「あぁそうだよ」何気なく望月は答える。

「めちゃくちゃ本能を無視してるじゃないですかぁ」

 シカダは、驚きと困惑が入り混じった声をあげた。

 あ、確かにそうだなと望月は言い返せない。

「人間っていろんな選択肢があって本能もわからなくなるんですねえ。でもその感覚少しは経験しましたよ僕も」

 お、やっと話があうところにきたかと望月は少し体を乗り出した。「寿命が尽き欠ける頃、子孫を残すために外にでるんですよね。太陽の下に。ありゃ地獄ですよ」

「なんでだよ。やっと自由になれたんだろ」望月が不満そうに言い返す。

「自由ってなんですか。地獄ですよ。自分の好きなように何でもできる環境などいりませんよ」

「その自由の中で、どうやって幸せになるか探すのが楽しいんじゃないか」なぜ理解できないのだと望月はじれったい。

「人間は生まれた頃からあの環境で生きてるんですよね。そう考えると人間の事を尊敬しますよ僕。自分がするのは絶対嫌ですけどね」

 自由が嫌だとか言われるとは驚いた。本当に考え方が違うものだ。地球上のどの国の歴史でも、混乱や戦争は自由を獲得するためのものではないのか。それを否定するようなものだ。などと考えたけれども、そもそもそれは人間の歴史だなと思い直した。俺が今話しているのは、夏にうるさいあの蝉なのだ。

「本能がなくなる経験ってとは何だ」望月からシカダに振ってみる。

「蝉が地上に出るのは子孫を残すため。そのために女性と交わる必要があるので地上に出るんですよね。僕も仕方なしにでましたけど、いつ鳥に食べられるかわからない。いつ人間に捕まるかわからない。もう交尾どころじゃなかったですよ。穴に逃げ帰ろうと思いましたからね。でもその時に運よく女性がいたので、無事に交わることができましたけど。周りの敵を威嚇するためにずっと鳴き続けましたよ。おかげで声がガラガラです」

 そういえば、蝉が鳴くのは求愛行動だと何かで読んだ。そんな事を思い出したので、「鳴くのはメスを惹きつけるためじゃないのか」と望月は質問してみた。

「そのために鳴くものもいますけどね。僕はただ恐怖から逃れるためでしたよ。あの時は本能とか無視でしたね。結局、自由すぎるひどい環境にいると、人間も蝉も本能を無視してしまうんですかね」

 いや、だから人間はそうじゃないと望月は思ったが、シカダからみるとそう見えるのだろう。反論しても始まらないとわかったので、もう何も言い返さなかった。

「ボーン」柱時計の音が響きわたった。それと同時にあの女性スタッフのアナウンスが部屋全体に流れた。「そろそろお時間です。最後に二人で握手をしましょうか。終わり次第、外に出ていただくようお願いします」

 これ以上話すことが無いとも思うし、まだまだ話し足りない気もする。望月がためらっているとシカダから話しかけてきた。「まあそれぞれ捉え方が違うのでしょうね。良い勉強になりましたよ。望月さん本当にありがとうございました」シカタは蝉とは思えない礼儀良いお辞儀をした。

「いやこちらこそ。思いっきり自分の固定観念を壊されたよ。良い勉強になった。ありがとう」

 握手はし辛そうだったので、二人でハイタッチをした。そしてまた黒い布を被って、二人揃って部屋をでた。最後に軽くハグをして別れた。シカダの体はなんとも言えない硬さをしていた。もうこうやって会う事はないのかと思うと望月は少し寂しかった。話したのは三十分くらいだっただろうか。それでも地球上の三十年くらいの濃さのある時間だった。


 小学生の頃の夏休みに田舎の祖母の家に毎年行っていたことを望月は思い出していた。蝉の鳴き声がうるさくて、毎朝それで目が覚める。祖母の家での目覚めは冒険が始まるようで、わくわくが止まらない。蝉しぐれはそのファンファーレなのだ。朝ごはんを食べるなり、従兄弟らと山を駆け回る。何時間も遊び周り、汗だくで祖母の家に帰ってくると、いつも祖母が氷の入った濃いカルピスを出してくれた。原液の量が多いのだ。一気に飲み干して氷をガリガリかじる。仏壇の横にあるブラウン管のテレビでは、高校野球が流れている。太陽が西に傾き、蝉の声はますます大きくなっていた。

「人間もそんなに悪くねえぞ」

 肩に力を入れず、優しい気持ちで望月はそう呟いた。蝉しぐれは今でも良い思い出だと望月は思った。



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しぐれ 川林 楓 @pma5884

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