第102話 エピローグ:傷だらけの君へ(下)

 ドクン、心臓が跳ねた。


「――⁉ ご、ごめん! 今のは言えってことじゃなくて……」


 とんでもない誤解を生んでしまう動作をしていたことにようやく気が付いた。しかもそれは、樹にとって地雷以外の何物でもない話。知っていたからこそ動揺した。罪悪感が一気に迫ってきた。


 だが、


「別に雨宮は関係ない。聞きたくないなら、止める」


 樹の顔は、動揺した時のそれではなかった。むしろ、覚悟を決めた時の顔……というのがふさわしいか。


「大丈夫なの?」


 自分の所為でこの話になってしまったことも忘れ、晴香は思わず訊いてしまう。


「話さなきゃ、前に進めないような気がする。……できれば聞いてほしい」


「……解った」


 知っているのだと、言わなかったことは卑怯かもしれない。

 目を閉じ、樹は浅く息を吐いた。話し始めたのは、十秒くらい経ってからのことだった。


「名前は、あおい。こう見えても昔はアウトドア派手でさ、よくふたりで外行って遊んでた。近所じゃ仲良し兄妹で通ってたんだぜ?」


 晴香がその名前を知ったのは、かなり古いネットニュースだ。


「あの日も、雨が降るまで外で遊んでた」


 たしか、梅雨時の日だったはずだ。その日は珍しく晴れていて、雨が降り出したのは昼過ぎだったのだ。


「雨が降ってきて帰ったら、葵がストラップ失くしたって泣きだしたんだ。それで、取りに行くって言って出ていった。雨が降ってる川に」。


「…………」


「よせばよかったのさ、……中途半端に泳げたから兄貴面したかったんだろうな。俺も行くって言って、ふたりで川に行ったんだ。――結果は、雨宮の想像通り」


 たとえ知っていなくても、本当に簡単に予想できただろう。小学五年と三年生が、雨で増水した川に行く。むしろ、外すことの方が難しい。


「結局、葵の死体は上がらなかった。だから、今も行方不明の扱いになってる。父さんも……特に母さんは、未だに情報がないか警察に訊きに行ってる。バカみたいだろ? 生きてるわけないのにさ」


 予想外だった。結果を知っている話を聞くことが、こんなにも心にくるものだったとは。どんなに願っても結果が変わらないことが、こんなにつらいものだとは。


「……俺の、所為だ」


 違う……とは言えなかった。


「あの時、カッコつけないで引き留めてればこんなことにはならなかった」


 どんな言葉をかければいいのか、本気でわからなかった。「違う」そう言うのは簡単だ。だが、何がと訊かれてしまえばもう言葉が出てこない。自然から離れて暮らしていた小学生が川の危険性を知っていなくても無理はないとか、それを教えず、そこに行っていることを黙認していた親とか、もっともらしい言い方はいくらでもある。でも、そう言ったところで何も解決しない。


 どんな言葉で言い繕おうにも、引き留めておけばよかったということは間違っていないのだから。


「そのときから……怖くなったんだ」


「…………」


「誰かと距離を詰めるのが、手から離れて行ってしまうことが、どうしようもなく怖くなった。受け入れたら寄りかかってしまいそうで。もしそれがなくなったら、俺の中で何かが壊れてしまうように思えて。今度こそ耐え切れないって、そんな気がした」


 この少年を意気地なしだと言うことは、誰にもできないはずだ。


「人を避けるようになったのは、それが理由」


 樹はただ、自己防衛を行っただけなのだ。それがたまたま誤解されるような手段であっただけ。もしそれが正しくないというのなら、それは樹に向かって死ねと言っていることと同義なのだ。


 逃げて何が悪い。距離をとって何が悪い。そうでもしないとダメだったのなら、それこそ仕方のないことじゃないか。

 それが最適解だったかなんて、樹にしか解らない。


「もうこれ以上辛い思いなんかしたくない。だったら、誰とも距離を詰めなければいい。近しい人がいなければ、そもそもそんな思いはしなくて済むって、本気でそう思った。そうでもしないと俺が壊れるって、そういう予感がしてた」


「まぁ結局、無理だったけど」と、樹が苦笑した。


「……ごめんね。「解るよ」とか、そんなこと軽々しいこと言えないや」


 樹の話してくれたことは、ネットニュースで見ることができた情報と大差はなかった。記事になっていない事実だったり、その後の目立った進展なんかもなかった。誰が悪いかなんて、わたしには全く解らなかった。


 解ったことと言えば、樹の気持ちを汲んであげられないということだけだ。


 わたしはどこまで行っても部外者だ。樹たちと一緒に住んでいたわけでもないし、思い出を知っているわけでもない。どこまで行っても、気持ちは当事者にしか解らない。わたしと樹の間には、埋められない谷がある。向こう側へは渡れない。どんな言葉をかけても、それは絶対に薄っぺらなものになる。


「いいよ。もともと、そんなつもりで言ったわけじゃないし」


 気にするなと、樹は左手をひらひらと振る。そして少しの間、口をつぐんだ。


「……それで葵がいなくなった時、父さんに言われたんだ。お前は、葵の分まで胸を張って生きろって」


「あ……」


 さっきの約束とはこういう意味だったんだ。いま、ようやくつながった。


「だから俺は、死ぬって解ってるのに放置なんてできない」


「それに、」と、樹は語気を強めた。


「俺の所為で葵が死んだ。それからずっと、父さんも母さんもどこか無理してた。これ以上、泣かせたくない。だから、」


 やっぱり、樹は優しい。すべてを聞かなくても、そのことが確信できた。


「手伝って……ください」


 自分のために動いてるのは本当なのかもしれない。でも、樹が納得する形というのが、そもそも他人のためになっているんだ。人のためになったら自分も満足する。それのどこがおかしいと言うんだろう。



「何年かかるか判らない。危険な目に合うことも絶対ある。もしかしたら、空振りに終わるかもしれない。それでも、俺は元の世界に帰りたい。ずっと、無理させてきたから。頼む。お願い、します」


 思わずため息をつく。過去を話してくれて、思いっきり言いたいことをぶつけて、樹の性格が今やっと解った気がした。


 樹は大人びていると、ずっとそう思っていた。


「ありがとう。わたしに、話してくれて」


 だけど違った。樹は、大人なんかではなかった。

 大人に見せているのは、多分、そうしないと自分の感情がコントロールできなくなるから。落ち着いて見えるのは、ただ単に誰とも会話をしなかったから。それはつまり、子どもとして他人に接しなかったということ。子どものときに得るはずの経験を、樹は他よりしていない。


 樹は、臆病なんだ。理性や性格だけが大人になって、肝心の部分がまだ変われていない。自分の利になることしかしていない、どうすればいいかも解っていた、その所為で失敗を経験していないんだ。だから、失敗することを極端に恐れている。


 出会ってから今までで、多少は変わったと思っていた。露骨に人を避けるような態度は成りを潜めて、周りから見ても充分取っ付きやすくなしっていた。でもそれは側だけだったんだ。本当の根っこ……樹意外に解らない部分は全く変わっていなかった。初めて、樹をちゃんと知れたような気がした。


 それに、わたしの気持ちはこの世界に来てからずっと決まっている。


「手伝うよ。……ううん。わたしも一緒にやる」


 はっと、樹が顔を上げる。


「わたしだって、このまま死ぬのなんて嫌だもん。それに、わたしを置いて一人で帰られたらなんだか癪だし」


 わたしは、そこまで人間ができているわけじゃない。人生楽しめれば短命でも結構――そんな風には割り切れない。できることならギリギリまで生きたい。お父さんやお母さん、樹とだって、もっと、ずっと一緒にいたい。


 心配だからとか、放っておけないからとか、その感情は否定できない。でも、それを抜きにしたって。


 わたしは、元の世界に帰りたい。


「その前に、もう一度約束して」


 じっと、樹の瞳を見つめる。


「全部話せなんて言わない。言いたくないことを話せなんて言わない。だけど、わたしに関係することは隠さないこと。……それから、」


 そこで、言葉が切れてしまった。言おうと思っていた言葉がのどまで出かかっていた。


 本当は、ずっと言いたかった。


 樹がどうして苦しんでいるかは、あのときから知っていた。でも、ずっと言い出せなかった。ネットという卑怯な手段で樹の過去に踏み込んでしまった自分に、そんなことをする資格なんてないって、ずっと思っていた。


 いや、それ以上に、怖くて言い出せなかったんだ。樹からしてみれば、わたしは勝手に過去を漁った非常識な人だ。それがバレて距離をとられてしまうことが怖かったんだ。


 でも、もう怯えたくない。怯えちゃいけない。もしこれで距離をとられても、また一からやり直す。拒絶する樹じゃなく、悪いのはわたしなのだから。


 なにより、


「わたしの前では、その仮面、外してくれると嬉しいかな」


 これ以上、樹に壊れてほしくないから。


「?」


 意表を突かれた表情を浮かべる。


「寄りかかるのは怖いかもしれない。それでも、辛かったらわたしに寄りかかってほしい。絶対に、拒絶なんてしないから。もうこれ以上、自分を傷つけないで」


 樹は、ずっと自分を責めてきたんだ。でも、わたしがそれを理解してはあげられない。無理に理解しようとしたところで、きっと薄っぺらなことしか言えない。それは絶対に、樹のためにはならない。


 だから、寄りかかってほしい。どうしてもつらいときは、その気持ちをぶつけてほしい。解ってはあげられないけど、一緒に背負ってはあげられないけど、受け止めてあげるくらいのことはできる。その方がきっと、樹だって楽になれるはずだ。


 せめて、


「我慢できなくなった時だけでいいから。泣いても笑ったりしないから」


 涙が我慢できなくなった今くらいは。


「神谷くん――」


 そっと、樹の頬に手を当てる。びくりと、樹の身体が跳ねる。指先に熱く湿ったものが当たる。それはわたしの手の溝にたまっていく。それを、これ以上下に行かせないよう拭いとる。


 いまになって、樹は自分が泣いていることに気が付いたみたいだ。あれ? という戸惑った様子で乱暴に涙をぬぐう。それを、手ごとこっちに抱き込むことでやめさせる。


 抱きしめた樹の身体は、少しごつごつとしていて硬かった。それでも、ぎゅっと抱え込むとそれが一瞬だけ柔らかくなった。やっぱり、樹はずっと無理をしているんだ。


 今くらいいいじゃないか。

 大人になろうとしなくてもいいじゃないか。


 だって樹は、ずっと一人で耐えてきたんだから。


「よく、頑張りました」


 ずっと、傷ついてきたんだから。


「――――っ‼」


 ぎゅっと、腕の中で服がつかまれた。


「ぅぅう……っくぅぅ……」


 身体がこわばる。小刻みに震える。しゃっくりのような嗚咽が、押し殺した息に混ざった。

 小さく泣き始めれば、もう樹にも止められなかったみたいだ。


「あああああぁぁぁあ――――っ‼ ううぅぅうっ、ひっく、ああああっ‼」


 子供のように、樹は泣きじゃくる。途中からはなりふりかまわず、わたしの身体に手を回して抱き着いた。まるで、この世界に飛ばされてすぐのときのわたしのように。そう言えば、この状況はあのときと真逆だ。


 そっと、片手を頭にのせる。少しだけごつごつしたその黒髪を、大丈夫だと優しくなでる。あの時樹がしてくれたように、いつまでも、ずっと優しくなで続ける。


 そうするうちに、くたりと樹の身体から力が抜けた。そう言えば、樹が使った薬の後遺症が突発的な眠気だった。まったく、これのどこが危険じゃないというのか。


「大丈夫、わたしはどこにもいかないから。いなくなったりしないから」


 いま、これを言うのは卑怯だろうか。だってこれは、意識のない樹に言っても意味のないことだから。だけど、面と向かってはやっぱり恥ずかしい。


 言われたって樹も困るはずだ。人とかかわるのが怖い――そう言ってくれた彼に、いま迫るのはきっと迷惑になる。ああ、これもきっと言い訳だ。


「わたしは――――」


 いつかちゃんと、面と向かって言おう。




 ――君のことが、大好きだから。




 いつか、君の傷だらけな心が癒された後で。



            異世界幻想曲 第一章 アルトレイラル (完)

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