第42話 とある技師の話 2


 カラリと、グラスの中で氷石が弾ける。「氷」と名はついていても所詮はただの石、溶けることはなく破片が底に薄く積もる。水になる氷はそれなりに高価だ。そのため、同じ効力のある氷石で代用している。これならば、入れる前に済ませた処理で水温が二十分は保つ。


 破片をのどに通さぬよう、口内で歯を合わせてフィルターの代わりとする。酒はやはりのどごしも命。あまり大きな破片でイガイガとした感覚を貰いたくはない。この方法も、ずいぶんと慣れてきたものだ。


「…………今日の代金はいい」


 注文を用意したマスターが、ぶっきらぼうにそう答える。その瞳には、かわいそうなものを見るような色が映っていた。


「いや、そりゃまずいだろ。上さんに怒られるぞ?」


「俺のおごりだと言ってる。さあ、いつもの分だ」


 ありがとな、と礼を言ってトレーを受け取る。トレーに乗っているのは、小さめのグラス。そこにいつものごとく酒を注ぎ、こちらには本物の《氷》を入れる。


 グラスの数は二十個――昨日までは十九個だったのに。


「また、見つかったのか」


 疑問形ではない。確認するために使う、語尾を下げた口調。それは、グラスが増えた意味をきちんと理解しているから。他でもない、いつも不自然な数のグラスを注文することを不審に思っていたこの店主に、自分が教えたのだ。

 それ以来、このマスターからは詮索されたことは一度もない。


「ああ。ひとりだけな」


 言い出すのは、いつも自分からだ。


「見つけるなら、もうそろそろ時間がないぞ?」


「解ってる。多分、こいつで最後だ」


 この世界では、死体は思ったよりも早くなくなる。地球のように、白骨化して見つかることなどまずありえない。なぜなら、森には猛獣よりも怖い魔獣がいるからだ。


 奴らは肉を、数キロ先からもかぎつけるらしい。いままで死体が残っていたのは、あの場所がつい最近までバカでかいオークの縄張りだったから。それを聞いた時は、ああそうかと直に納得できた。


 そして、今日見に行った時には遠くからだが魔獣がこちらを見ていた。もう、ひとりであそこに行くのは自殺行為に近い。それに、魔獣が戻ってきているのなら、残った死体は骨まで残らず消えているはずだ。明日行ってもないかもしれない。

 そんなことを考えながら、目の前の酒を肴にグラスをあおる。


 目の前のグラスは、後藤が見届けた死者たちの証。


 行方不明は数えていない。いつかは見つかるもの、そう考え、このテーブルには乗せていない。なぜなら、言霊という類を信じているから。今日もそれで、奇跡が起こったから。


「マスター、聴いてくれよ。今日、仲間がふたり見つかったんだぜ?」


「――ああ。お前と騒いでたあいつらか。……ここに並べてなくてよかったな」


 自分でもわかるほど無邪気に、首を縦に振っていた。その様子に、カウンター越しのマスターも少しだけ口端を持ち上げる。ほとんど表情が変わらないマスターにしては珍しい。そのわずかな変化さえも、今日はことさらにうれしい。


 夢だと、最初はそう思っていたのだ。白昼夢ではないかと、何度も頬をつねったのだ。それでも、ふたりの姿は消えなかった。抱きしめたそのぬくもりは、確かに本物だった。


 見つからないはずだ。だって、生きていたのだから。

 嬉しいに決まっている。生きていたのだから。


 生きていた。生きていた。その事実だけをかみしめながら、現実なのだと確証を得ながら、酒を楽しむ。そんなに高い酒ではないのに、今日はなぜだかすべてのものが輝いて見える。


「なあマスター、聴いてくれよ――」


 自分でも驚くほどに冗舌だった。勝手にしゃべって勝手に笑う。マスターは黙ってグラスを磨くだけだが、時々ニヤリと頷いてくれる。


 二人が話した内容。話した内容で片方が急に怒りだしたこと。その理由も無理はないということ。自分が話した内容に、ふたりが大笑いしていたこと。

 そして、


 仲間の死を、どうしても言い出せなかったこと。


「それは……別に話さなくてもいいんじゃないのか? あいつらだって察してるだろ」


「多分な」


 言葉を切り、グラスをあおる。すっかり虜となってしまった味が、口内を潤す。しばし、沈黙が流れる。


「最初は、何が何でも切り出すつもりだったんだけどな」


 最初は、何が何でも伝えなければと思っていた。たとえふたりに煙たがられたとしても、仲間の死は伝えなくてはいけないと、そう覚悟していたのだ。


「雰囲気で察しろじゃなく、死んだってことくらいははっきり教えてやらねえと。死んでったあいつらが……あいつらはもう何にもできねえだろ?」


「まあな」


「せめて、あいつらの死を受け止めることくらいは……って」


 死者は語ることができない。どんなに会いたい人がいたとしても、どんなに伝えたいことがあろうとも、死者には何もすることができない。死人に口なしとは、よく言ったものだ。


 死してなお伝えたいことも、死してなお果たしたいことも、その役割はすべて、生者に任せることしかできない。何を想っていたとしても、死者はこの世に干渉することすらもできないのだから。


 ならば、だとするならば、それは生者俺たちがやるしかないじゃないか。

 死者の最後を、彼らの存在をこの世界に残す。家族に伝える。あの場にいたのは自分だけだ。ならばそれが、本来しなくてはならない自分の義務だ。そして、覚えている人は多ければ多いほどいい。


「だけどよ。ふと思っちまったんだ」


 少し、回想にふける。思い出すのは、あのときの二人がうかべていた笑顔。心が折れるほどの絶望を生き抜き、前に進むふたりの顔。


「あいつらはどう思うんだろうってな」


「…………」


「俺が煙たがられるだけならいいんだ。元々そのつもりで話す覚悟してる、そこは別に気にしねえ。そうじゃなくてよ、あいつらが自分を責めはしねぇか?って、そう思っちまった。あのとき逃げたから、代わりに仲間が死んだんじゃねぇかって。そう思わねぇ保証はねえだろ? どう考えたってあいつらのせいじゃないのに。そう考えたら、急に怖くなっちまって」


 死者を弔い、死を受け入れ、それを語り継ぐことは大切だと思っている。彼らの犠牲があったからこそ、こうして自分は生き残っているのだし、ふたりも逃げきれたのだ。それくらいしても罰が当たることはないだろう。


 だが、彼らはまだ子供だ。多少人間が出来上がり、ある程度は割り切れるようになった自分とは全く別。心も体も、未だ発展途上の少年少女だ。発展途上であるがゆえに、心の傷は自分よりも深く、そして消えないだろう。はたして、そんなことをしていいのだろうかと、そう思ってしまった。


 忘れないこと、真正面から受け止めること、そして語り継ぐこと――それが生者にできる最大の供養であり、責務だとは思う。だが同時に、死者にとらわれて生者が苦しむのは少し違うとも思っている。


 死者は、良くも悪くも死者だ。何も話せないし、こちらに干渉することもできない。言い方は悪いが、そんなもののために、彼らの心を傷つける危険を冒していいのだろうか。そしてその権利はどこにあるのだろうか。


 ふたりとも、素直で優しい子であると感じている。話せば、そのことに責任を感じてしまうかもしれない。そんなふたりに、真実を話す必要があるのだろうか。話したことで、傷ついてしまったらどうすればいいのか。どう考えても、逃げたふたりが悪いはずがないのに。


 怖くなった。恐れてしまった。そう考えると、決意はたちまち薄れてしまった。自分がとてつもなく大きな分かれ道に立っていることの気がついたのだ。


「もうふたりとも、もうほとんど解ってるだろうけどよ。たとえ核心突いてても、言葉にしなけりゃ、俺が言わなけりゃ、まだ行方不明ってことにしておける。少なくとも、断定できない分いくらか気が楽だろ?」


「それじゃあ結局、話さないのか?」


「行方不明ってことにしとくさ。俺なら、そう言われた方が気分的に楽だ。生きてる可能性否定されない分はな」


 シュレーディンガーの猫という思考実験がある。簡単に言えば、どんな現象も物質も、自分が認識しなければそれは「存在しない」と同義であるということ。つまり、この世界すべてのものは、認知して初めて存在が確定するということである。


 今回のことに当てはめれば、こういうことだ。あのふたりに仲間の死を伝えない。それによってふたりの中では仲間の死は断定されない。死体をその目で確認するまで、生きている可能性が残る。正確には生死の判別が不可能となる。


 ほとんど悟ってしまっていても、死んでしまったと、そう断定されないだけでも気が楽になる。なぜなら、どんなに確信していようとも、もしかしたら生きているという可能性を、決して否定できないから。もしかしたら、言葉が大きな力を持つ所以もこれなのかもしれない。


 それに、


「あいつらが訊いてこない限り、俺は言わない。仲間のことを背負うのは、俺一人で十分だ」


 最後を見届けたのは、他でもない後藤 竜也だ。そして、死者を忘れるべからずという考えも、後藤独自のものだ。よくよく考えれば、無理してその考えに他人を巻き込むことなどしていいはずもない。そうしてしまえば、それは死者のためではなく、自分がやりたいからという自己中心的な思想に成り下がる。


 それは何のためにもならない。少なくとも、弔う死者のためには絶対にならない。


 カラリと、氷石がはじけた。気が付けば、グラスの中身はほとんどからになっていた。マスターは、否定も肯定もしない。それは相手の決意を揺らがせる結果になると知っているから、後藤の言葉には頷くだけだ。


 沈黙が下りる。はるか遠くでなっている楽器の音が、いやによく聞こえる。

 どれくらい経っただろうか。


「……だ、そうだが?」


「?」


 唐突に、本当に唐突に、マスターが、口を開いた。そしてその言葉は、どう考えても後藤に向けられたものではない。目は後藤の後ろ、階段の方に向かっていた。まるで、後藤の背後に誰かいるとでも言外にほのめかすように。声に釣られて、後ろを振り返る。


 見えたのは、節約用に照明が消された暗い階段。色濃い影が、床にシミを作っているだけだ。生物らしき物体の姿は見当たらない。すると、


 ゆらりと、影が動いた。少し遅れて、影が人を飲み込んでいたのだと悟る。なるほど、影になっている場所は明るいこちらから視認することのできない不可視領域なのだから、どうりで姿が見えないはずだ。立っていた人物が影から這い出して来る。その人物を確認したとたん、驚きの声が漏れた。


 なぜなら、その人物がよく知っている少年だったから。


「樹?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る