肉吸い (2)

 いったいどれほど走っただろう、汐は肩で息をし、その顔は苦しげに歪められている。

 しかし後ろから迫る巨大な物ノ怪から必死に逃げるため、汐は立ち止まる訳には行かなかった。

 一体どこに逃げればいいのか。汐は走りながら考える。人通りの多いところに逃げ込めば、そこにいる人たちを全員巻き込んで殺すのではないか。しかし人気の無いところに逃げ込めば、すでに汐の体力は限界で、とうてい逃げ切れる算段は無い。

「ど、どうしよう⋯⋯! 煙々羅さん、私、どうしたらいいっ」

「ちっ、オイラの力じゃあいつをどうこうできねぇんでぃ⋯⋯すまねぇ嬢ちゃん、兎に角今は走れ!」

 悔しそうに煙々羅が叫ぶ。相手は人型。つまり妖力の高い物ノ怪だ。汐は煙々羅に言われた通り、とにかく物ノ怪から離れるため走った。

 距離を確認する為に、汐の肩越しに煙々羅が振り向く。既にその形を美しい女性から、やせ細り青白い顔をした、大きな背丈の骨のような姿へと変貌を遂げていた。

 地を這うようなおどろおどろしい声で「待て」と叫ぶ声が響く。

 時折長い爪を伸ばして汐を掴もうとするが、何とか煙々羅が力を振り絞って叩き落としてくれている。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 徐々に走るペースが落ち、汐の足はもう限界を迎えていた。瞬間、足が絡まり、汐はその場に倒れ込んだ。

「いっ、た⋯⋯」

「汐! 大丈夫か? 立てるか?」

「う、足、ひねっちゃった⋯⋯」

 右足をおさえながら、汐がうなる。

 物ノ怪は汐が倒れたのを見ると、ゆっくりと汐に近付いてくる。「ほー、ほー」と静かに、しかし不気味に笑う物ノ怪は長い爪を振り上げた。

 煙々羅が身体にぐるりと巻き付き、汐ごと襲いかかる爪からギリギリで避ける。

 スカートの裾に掠って、地面に刺さる爪。

「ほー、ほー、ほー」

 ニタニタと、耳障りな笑い声。物ノ怪は爪を抜き取り、もう一度爪を振り上げた。

「あかんあかんあかん!」

 煙々羅が再びぎゅうと汐に巻き付いたそのとき。

ばく!」と、物ノ怪の背後から声が聞こえた。

 刹那、物ノ怪はその動きをピタリと止め、ぐ、と苦しそうに震え始める。まるで何かに縛られて突然身体が動かなくなったようだ。

 物ノ怪の後ろから姿を表したのは、十左衛門であった。

「榛さん!」

「無事か、八月一日」

 十左衛門は汐の側まで走りよると、煙々羅に向かって怒声をあげる。

「お前! 何故もっとしっかり守らない!」

「お、オイラの力はせいぜい勿怪を追い払う程度やて! あんなでっかい物ノ怪相手にゃ敵わん!」

 煙々羅は確かにそこそこの妖力を持ち合わせているが、それは勿怪の中で比べるとの話だ。

 流石に大きな物ノ怪相手には到底太刀打ち出来そうもない。むしろ、ここまで逃げきれた事を褒めて欲しいくらいであった。

「煙々羅さんはずっと襲ってくる攻撃から守ってくれてたんです、怒らないであげてください」

 汐が煙々羅を庇うが、十左衛門はそれでも怒りのおさまる気配が無い。

「兎に角今はアイツをどうにかする方が先なんと違うんかィ」

 煙々羅に促され、十左衛門は舌打ちをすると物ノ怪に振り返った。

「アイツは肉吸いという物ノ怪だ。捕まってたら喰われていたぞ」

 先程、十左衛門が間一髪で物ノ怪の動きを封じたものの、物ノ怪は苦しそうに蠢き、今にも「縛」を破りそうな勢いだ。

 十左衛門は左手の掌を胸の前で立てると、右手で呪符を取り出し「悪霊滅裁急急如律令あくりょうめっさいきゅうきゅうにょりつりょう」と呟いた。

 次に「呪符退魔じゅふたいま」と叫び、すかさず物ノ怪に投付ける。

 動けない物ノ怪は避けることが出来ず、呪符が物ノ怪の額に張り付いた。

 その途端、物ノ怪は金切り声を上げたかと思えば、ゆらゆらと身体から煙のような、湯気のような気体を発し、やがてその姿を消滅させた。

 呆気に取られる汐とは正反対に、煙々羅は心の中で独りごちる。ほんに末恐ろしい坊ちゃんだと。煙々羅の時とは違い、跡形もなく完全に滅された物ノ怪。

 十左衛門は汐の手を引っ張りその身体を起こすが、立ち上がった衝撃で右足に激痛が走った。そう言えば、倒れた際足を挫いたのだ。

「嬢ちゃん大丈夫か⋯⋯? ごめんなぁ、オイラ力なくって⋯⋯」

「ううん、煙々羅さんはいっぱい助けてくれたよ!」

 両手をぶんぶん振って否定する汐に、煙々羅は申し訳なさ気に「そうかなぁ」と呟く。

 十左衛門は煙々羅を一瞥すると、直ぐに汐の腰に手を回した。肩を支えてくれるらしい。

「自宅まで送ろう」という十左衛門に、汐は素直にお礼を述べる。

「確かこっちだったな、八月一日の家は」

「あれ、なんで私の家の場所知って⋯⋯?」

 汐が首を傾げる。

「今朝、その話をしていたろう」

 焦ったように言う十左衛門の言葉に、そう言えばそうだったと思う。それにしては誤魔化すような十左衛門の物言いを不思議に思いながらも、共に歩き出した。



 縁側に腰かけ桜の木を眺めながら、晴明は焼き菓子を口に運んだ。

 さくさくと小気味いい音をたてながら甘い香りと味が口腔に広がり、思わず右手を頬に添えて微笑む。

「この焼き菓子、とても美味びみですね」

 十左衛門はそんな晴明の横で正座しながら、今回の件について報告をしていた。

 晴明は焼き菓子を食べる手を進めながら、十左衛門の話を聞いていた。肉吸いのこと、再び汐が襲われていたこと。

 そして、今晴明が食べている焼き菓子が汐の手作りであること。

「助けてくれたお礼にと頂きました」

「それじゃあこれは十左衛門が食べないといけないのでは?」

 そう言いつつも晴明は手を止めない。十左衛門はしらけた目を晴明に向ける。和装の晴明にクッキーというミスマッチさが際立つが、美味しそうに食べ進める晴明に「俺もいただきました。かなり量があったので」とこたえる。

「あっ」

 晴明は焼き菓子ののっていた空っぽの皿を持ち上げると「全部食べちゃいました」と肩を竦めた。

「⋯⋯⋯⋯まだありますけど」

「えっ!」

 晴明の目が期待に満ちたものに変わる。十左衛門はため息をつくと「取ってきます」と立ち上がった。

 その背中を手を振りながら見送る。それからもう一度桜を見上げた。もうじきに四月も終わる。満開だったこの桜も、ほどなく全て散ってしまうだろう。

 晴明は桜を眺めながら、十左衛門が残りの焼き菓子を持ってくるのを待った。

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