第9話 薬草


 ルクドゥの村に向かってどんどん走り、砂の丘を越えて村からそう遠くないところに来た王子の目に、一筋の砂煙が飛び込んできた。こちらへ一目散に駆けてくるアビだった。


「王子いいいい!」


 アビは王子に駆け寄ると、ひざまずいてぎゅうっとその肩を抱きしめた。


「だめじゃないですか王子、一人で砂漠を歩いたら危険ですよ」


 王子はアビににこにこと答える。


「うん、大丈夫だよアビ。僕ね、歩かないで走ってきたの」


 アビはそれを聞いて少し困った顔で笑ったあと、もう一度ぎゅうっと抱きしめた。


「アビ、ねえアビ。僕ね、ルクドゥの村にこれを届けてあげたいの。子供達が病気なんだ。この薬があれば治るって」


 そう言ってアビに薬草を見せた。彼女は薬草を持った手にそっと自分の手を添えて言う。


「王子、彼らはキルティン族です。本来はとても危険な者達なのですよ」


 それでもアビは王子の優しい気持ちが嬉しかった。誰にでも優しい子になって欲しいと常々願っていたのだ。そして今の王子の言動はまさに彼女の願い通りだった。ここで王子に「薬など届けるな。関わるな」などとは言えなかった。


「じゃあ、あの小うるさいヴァンスには内緒ですよ。これを届ける代わりに、後はもう必要以上に関わってはいけません。分かりましたか?」


 アビが穏やかに言って聞かせると王子はこくりと頷いた。キルティンの村はもう目の前だ。アビは小さな手をとって早足で歩く。


「ねえ、どうしてキケンだなんて言うの? ルクドゥもアトゥヤクさんもとっても優しいよ」


 王子はアビに尋ねた。何かの勘違いに違いない。見ず知らずの自分の怪我を治してくれた彼らが危険だなどとは信じがたかった。

 アビは言いよどんだ。人には色々な面がある。味方にすれば心強いキルティン族だが、敵にまわした時の恐ろしさは計り知れない。それをどのように説明したら良いだろうか。


「彼らは流浪の戦闘民族です。確かに普段は温和で、理由もなく人間に攻撃を仕掛けることはありません。王子の言う通りきっと優しい人々なのでしょう。しかし彼らが何かを守るために本気になれば、敵と見なせば容赦なく襲い掛かって来るでしょう。そうなれば我々の持つ近代兵器でも太刀打ちはできません」

「怒ると恐いってこと? とっても強いから?」


 アビは頷く。


「だからこそ王子は今こうして彼らと協定を結ぶためにここに来ているのです。西域八ヶ国の中で戦争が起きたりした時に、彼らの力が必要だからです」


 戦争、という言葉を聞いて王子はとても不安になった。以前習った歴史の話を思い出したのだ。昔長い戦いがあって、父さま──今の王様が王子様だった頃もまだ戦争が続いていたという。兵が街に攻め込み人がたくさん死んで、家がたくさん燃えたとアビが話してくれたのを良く覚えている。王子の悲しそうな顔を見て、アビは慌てて言い替えた。


「あ、あの、つまりですね。王子はキルティン族と友達になるためにここに来たんですよ。そのためにはちゃんとした手順を踏んで礼儀を守って交渉しなくてはいけないのです」


 そう聞いて王子は少し安心した。もうルクドゥとは友達だ。他のキルティン族の人達ともすぐに仲良くなれるはずだ。

 暫く歩くと、村に着いた。彼らを刺激しないため、鎧姿のアビは遠くで待機する。今度は見張りの男もすんなりと王子を中に入れてくれた。


「友よ、それは……」


 王子が笑顔でと差し出した薬草を見てルクドゥは言葉を失った。


「青い乗り物のおじ…お兄さんにもらってきたの。これであの子達、治るよね?」


 感激で涙がこぼれそうな目でルクドゥが力強く頷く。そうして薬草を持った王子の小さな手をその大きな手でぎゅっと包み、ひざまずいてその手の甲に額をあてた。


「友よ……神よ……今日のこの救いに感謝する」


 王子はとても照れくさくなってしまって、慌てて薬草をルクドゥに手渡すと、えへへ、と笑った。


「友よ、お前は私の命と、子供達の命を救った。私は……」


 ルクドゥは王子の肩に手をのせて感謝の言葉を言いかけたが、途中で言葉を止めて王子の腕に触れた。ルクドゥは気が付いたのだ。王子の腕輪がなくなっていたことに。


「あ、あの僕、行かなくちゃ。すぐに戻るって約束したの」


 王子は慌ててルクドゥから離れると、後ずさった。腕輪のことで彼に余計な心配をさせたくなかったのだ。


「またね!」


 そのまま王子は駆け出して、村を後にした。ルクドゥは王子の背を見送った後、深く深く頭を下げた。



 村を出て、アビと合流した王子はとても嬉しそうににこにこと歩いていた。あのように大げさに感謝されるのは気恥ずかしいが、彼らの役に立てたのならこれほど嬉しいことはない。頑張って走った甲斐があるというものだ。


 水場まで来ると、そこにはクロミアの姿があった。ひざをついて何か調べていたようで、手帳を片手になにか書きこんでいる。クロミアは王子とアビに気がつくと、無表情で立ち上がり、ひざの砂を払った。


「お早いお戻りですね王子様」


 うやうやしくクロミアがお辞儀するのを見て、アビは顔をしかめた。アビにはそれが嫌味だとすぐに分かったからだ。しかしそんな事とはついぞ知らぬ王子はにこにことして答えた。


「うん。おまたせ! 僕ね、ルクドゥに薬草を届けてきたの。もうこれでみんな良くなるよ」


 それを聞いてクロミアはアビと王子の顔を交互に見てため息をついた。アビはばつの悪い顔になる。薬の件は内緒だと王子には言い聞かせていたが、そんなことはすっかり忘れてしまっていたようだ。


「ルーン将軍。貴公は王子についていて一体何をやっているのだ。キルティンの欲するものを持っていて、ただくれてやったと言うのか」


 アビはむっとして言い返す。


「貴様、王子のされることに意見する気か。王子はお優しい心から親切でやったまで。キルティンとてこれで態度を柔らかくするだろう」


 クロミアはうす笑いを浮かべてやれやれ、と首を横に振るとまたため息をつく。


「まさか貴公は少しばかり恩を着せたくらいでキルティンが協定に応じると思っているのか。そもそも水場がこれでは病気には何の解決にもならん。治ってもこの水を飲んでいる限りキルティンに病が蔓延するのは避けられないのだ。だったらその薬草とやらを少しでも交渉の役に立てれば良かったものを」 


 王子は青ざめた。薬草があればもう大丈夫だと思っていたからだ。


「ねえ、薬があってもだめなの? あの子達は治らないの?」


 クロミアは冷たく王子を見下ろして言った。


「一時はよくなるでしょう。ですが病に弱い体質になっていれば同じこと。次々と違う病に冒されます。更に被害は広がるでしょうね。こんな状態ではキルティンと協定を結ぶこと自体意味がないかもしれません。まずは宿営地に行って改めて考えましょう」


 王子は泣きそうになっていた。結局自分には何もできないのかと思うと悔しい気持ちにもなった。そして、「キルティン族と友達になる」という協定もなくなってしまうのかと思うと更に悲しくなった。


「キルティンの人達、とっても困ってるんだよ。なんとかできないの? 助けてあげられないの?」


 王子は泣きそうになってクロミアに懇願した。それでもクロミアは黙って王子を見下ろしたまま。


 しびれを切らしたアビが怒鳴る。


「貴様! 王子がお尋ねしているのに何故答えんのだ!」


 クロミアは無表情で答えた。


「私は王子の『宿題』をお手伝いするためにここに来た。キルティンを助けることは私の仕事には含まれない」

「ええい、屁理屈を言うな!」


 アビはがみがみと怒鳴り続けるが、クロミアは涼しい顔で歩き始めた。


「直に迎えが来ます。岩場まで歩きましょう。あまり同じ所に留まるのは芳しくありません」


 王子はとぼとぼと後を追って歩いた。アビも諦めたように口をつぐんでしまった。




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