chapter 2/?

004. 噴き出す異常


「…………」

「…………」


 いやーな沈黙が、あの空を這う鉛色の雲より、よっぽど重苦しく横たわる。


 右腕にバスケットを潜らせている彼女は思い出したように、真っ赤になっていた顔を、慌てて両手で覆った。


「な、なな、何で……。お風呂場でも無いのに……。大体っ、何でそんな事してるんですかっ!? ままるでい家が、急に消えちゃった、みたいに自然に……」


 俺はズボンを穿けないままだが紳士らしく、低めのいい声を咄嗟に作る。


「いや、違うのだよお嬢さん。これは決して、君が疑っているような不審な理由からではな」

「もうやだっ! 死ねっ! この、クズ!」


 いきなり当たり強くない!?


 それを口にする暇も無く、少女はくるりと背を向けると駆け出した。


「変な人が出たって、早く村長さんに知らせないと……!」

「ヘイヘイヘイヘイ!? ちょっと今大変聞き捨てならない言葉が」


 ――「村長」?


 村も何も、誰もいないじゃないかここ。


 君が走り出しているその先だって、がらんとした荒野だし……。


 そう思った瞬間、景色が突然、砂地の赤から緑に変わる。


 強烈な眩暈と耳鳴りが、同時にやって来たような感覚が身体を襲い、俺の視界は一瞬、真っ白所か無になった。目は何か映していただろうが、俺自身がそれを認識する余裕を奪われ、ほんの僅かな時間だが、何も分からなくなる。


 咄嗟に額に手を当てて、眩暈と耳鳴りからの苦痛を、倒れないよう踏ん張りながら堪えようとした。目も閉じていたんだろう。瞼をゆっくりと開けながら理解していると、周囲に広がる景色に、やっとまともに使え出した目も疑う。


 荒野が、野原になっていたのだ。


 突然地面から草木が噴き出したように、緑溢れる野原になっていたのである。遠くに霞んで、黒い影になっていた峰さえも、今や深い緑に染まり、木々でこんもりと膨らみを帯びていた。空は初夏のような快晴で、澄んだ青空の上には、高く太陽が上っている。


「は……!? 何だよこれ、どうなっ――」

「助けて! 村の前に、変な人が!」


 ぐあああああやめろお嬢さんんん。


 咄嗟にピョンと両足で跳ねながら一息でズボンを穿き、ベルトを締めながら慌てて彼女の方を見ると、何と彼女の走る先には、組み合わされた丸太で建てられた鳥居のような門が立ち、その向こうには木造の家々が並ぶ、村のようなものが現れていた。まるで突然緑が噴き出した所か、人間や建物まで地面から生えたとでも言うように。


 ――だが今は、異常現象よりも重んじなければならないものがある!


 俺はどうしようかと辺りに散らばる荷物を一瞥するも、後で取りに行けばいいと判断し彼女を追った。


「お待ちなすってぇ! 違うんです! 怪しい者じゃないんですぅ!」


 俺が全力で距離を詰めて来ている事に気付くと、彼女は走りながら、恐怖に歪んだ顔をこちらへ向ける。


「いやああああああああ!!」

「いやそれっぽく叫ぶのやめてくんない!? 俺何もしてないよね!? 何ならこっちもあられもない姿を見られて、結構恥ずかしかったんだけど!?」


 裸を見られてキャーと叫んでいいのは、レディだけの権利だと誰が言った! 野郎だって恥ずかしいさ! キャー!


 っていうかこの子足おっそ!


 何秒だろか。もう三秒ぐらいで隣に追い付いてしまったが、目の前の門まではまだ、五十メートルぐらいある。


「落ち着こう! 落ち着こうじゃないか! ほら何もしてないだろう!? 並走しているだけさ! 君が止まれば俺も止まるよ! さあその足を今すぐ止めて、話し合おうじゃないか!」

「――き……キモい!」


 息が上がって上手く喋れないからって、絞り出した一言が暴言ってどうなんだろうか。


 いや、それを言うなら俺も変か? まだ大した距離は走ってないとは言え、全力なのにこうして平然と喋れてるって――。


「ど、どうしたコノセ!?」


 前から飛んで来た、野太い声に目を向ける。


 そこの住人なんだろう。門の向こう側にこちらを向いた、五十代ぐらいのおっさんが立っていた。騒ぎを聞き付けたのか、村の奥へ歩くように向けていた背をくるりと反転させ、それは驚いた様子でこっちを見ている。大柄でがっしりとした体格に、簡素な茶色のズボンに、白い半袖のシャツを着て、肩まで捲った両袖からは、筋肉を纏う腕が太く伸び、ぼさぼさの短い茶髪と立派な口髭が特徴的で、ちょっと目つきが悪い、怖そうな顔をしていた。……何だろう木こりなのだろうか。左脇には薪を抱え、右腕には肩に担いだ無骨な斧が、太陽にぎらりと光る。


「たっ、助けてカイハニおじさん! この人がっ――追いかけて来るの!」


 呼ばれたカイハニおじさんとやらは薪を落っことすと、そのぶっとい両腕で、慌てて斧を構えた。


「な、何いっ!?」

「だああああ!? いや君が逃げるから――って違うんです違うんです! 俺ほんとうに怪しい者じゃなくてぇ!」


 付き合ってられるかと鈍足の彼女を置いて門を潜ると、ゴールテープを切ったランナーのように一気に減速し、正面に立つカイハニおじさんに斧が怖いので、五メートルぐらいの距離を置いて近寄った。


「いやホンットに誤解なんです! マジで! 誰もいないっぽいからとつい大胆に着替えようとしてしまっただけで、決して彼女に何か危害を加えようとしていた訳では」

「なっ!? お、お前、その姿は……!」

「ああいやズボンしか穿いてないのはだから露出狂って意味じゃなくて――!」

「その左胸のトライバル……。そそ、それはっ、導かれし者の証!?」

「はっ!?」


 何故だか急に震え出したカイハニおじさんは、斧を足元に落っことした。



「――っておい危ねえ!」



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