第8話
母とも、村山とも、顔を合わせづらかった。
村山とは木曜の夜、暗号について直接話をし、一通目が解けたと言ってある。父から出されたものという方便は、父にも見せていると解釈しているはずだ。二通目のことはあれから何も話していないが、向こうも解けていないと見てはいないだろう。何でもない風を装おうとするが、隆太郎は役者ではない、どうしても態度に出てしまう。そして、村山に対する不自然さは母も目にするところとなる。母は勘のいい人間だ。もうすべて気付いているだろう。
村山に対して抱く感情がどういったものなのか、隆太郎は整理しきれないでいた。まず単純な敵意ではない。母を奪おうとする悪党のようには思っていない。母に笑顔を与えてくれたことへの感謝ははっきりと感じている。しかし、このまま母の人生を預けてしまいたいとは思えない。乾いた心地よい秋空の下にいるのに、隆太郎の心だけが梅雨の湿気に覆われているかのようだった。
金曜日、ちょっとした誤解がもとで、甲賀と岩井たちが無人の我が家に訪れた。甲賀はそこで二通目の暗号の内容と答えを知り、大学の研究室へ電話をかけてきた。
土曜日、再び甲賀がやって来て、父を説得しようとした。言葉の刺々しさはいつも通りだったが、あくまでそれは表面的なものであって、奥には深い思いやりが秘められていた。甲賀という人間を少し誤解していたのかも知れない。しかし父は時おり話をはぐらかすようなことを言うだけで、ほとんどだんまりを決め込み、やがて甲賀を書斎から追い出してドアに鍵をかけてしまった。そのまま天の岩戸が開くことはなかった。
隆太郎は何も言わなかった。言えなかった。甲賀の言葉に頷けないわけではなかったが、自分や、父の今後がどうなろうと、いま現在の父の意志こそが最も尊重すべきと思えた。たとえそれが自棄のようなものだとしても。他人に何を言われようと自分の思うがままに生きることで、幸運にも、天分を発揮してきた人である。感情に身を委ねるのが一番父らしい。
戦時中、隆太郎は海軍の航空隊にいた。飛行機が飛ぶにあたり、プロペラの力は補助に過ぎない。風に乗って飛ぶのだ。父は飛行機だ。風に乗って生きている。いつか風がやみ、墜落する運命にあるとしても。
日曜日の夜、父は明日館へ行かなかった。酒の量に注意しなければと思ったが、むしろ酒は一滴も飲まず、書斎で静かに原稿用紙と向き合っていた。
月曜日、母や村山の顔を見るのが嫌で、朝は早くに出かけて古本屋や喫茶店で時間を潰し、講義を終えた後は学生たちを誘って研究室で安酒を飲んだ。
隆太郎が面倒を見ている学生には江戸川乱歩の読者が多い。よもや点数稼ぎではあるまい。ほとんどの著作を読破しているという強者や、学生らしい好奇心で色々と深読みをする曲者もある。研究室での酒宴を人が見たら、文学部の学生たちだと勘違いするだろう。本当は社会学部なのだが。
火曜日の朝、隆太郎は郵便受けを開けると『青銅の魔人』を読んでいるという少年から屈託のないファンレターが来ていた。江戸川先生、毎月楽しみにしています。お仕事がんばってください。僕は将来、明智小五郎のような強くて優しい男になりたいと思います。
――父には読者がいる。俺もいる。そう思いながら、隆太郎はいつもと同じように、「お通し」すべきものとそうでないものとを選り分けていった。そして、三通目の暗号を見つけた。
家 乙 大 国 分 寺 面 中
曜 特 東 沼 火 白 場 三
日 園 線 手 巣 木 金 小
屋 山 馬 朝 都 半 足 気
月 公 鴨 二 棒 田 駅 西
海 水 電 袈 目 袋 塚 池
川 華 時 高 四 仮 一
お宝頂戴つかまつる。
毛筆が一本、同封されていた。だいぶ古いものらしく、柄が折れている。
隆太郎は初めて、村山への怒りを感じた。消印の日付は昨日だ。一昨日父が行かなかったことを受けて、投函しないこともできたはずだ。
父は行かないのだ。行かないと決めている。妻の幸せを願って静かに息をひそめている。なのに何故、まだこんなものを送りつけてくるのか。逢引きの約束を見せびらかしたいのか? そんな男ではないはずだし、そんな男であってほしくないとも思うが、そもそもこの一連の挑戦状自体、村山のイメージとはかけ離れている。あの温和そうな笑顔は彼の仮面の一つに過ぎないのかも知れない。
もし父が現場に行ったら村山はどうするのだろう。大人しく身を引くつもりなのだろうか? まさかそんなことはあるまい。
では、目的は? 改めて考えてみると、目的が明らかではない。
単なる挑発か? だとしたら筋は通るが、村山はいよいよくだらない人間だということになる。巧妙に繕っても、母が素顔に気付かないということがあるだろうか。
あるいは、堂々と宣言することによって、己の罪悪感を和らげようとしているのか? だが、それにしては暗号という形は回りくどい。正面切って言えるほどの度胸はないので、「堂々」でなく「一応」宣言する、ということなのか。あり得なくはない。
それとも、何かまったく別の目的があるのだろうか。
「来たか」
振り向くと甲賀が立っていた。昨日は少しだけ見直したが、やはりこの男の無遠慮さは並ではない。驚いてやるのも癪だ。隆太郎は気配に気付いていたような顔で言った。
「ええ、性懲りもなく」
「また同じ型の文字列にヒントの品物が一つか。お定まりだな」
「今度のは少し長いですが」
甲賀は呆れたような顔で言った。
「足し算はできるかい?」
「足し算? 算数のですか?」
「他に何がある」
「一応できると思いますが」
「一桁でも二桁でも、百桁でもやることは変わらないだろう。それと同じだ。どんなに長かろうと関係ない。見せてくれ」
甲賀に任せれば、解読はすぐに済むだろう。いや、今や解く意味もないが、かと言って拒めば話がこじれる。
「どうぞ」
「そっちじゃない。まずヒントの方だ」
「ただの筆ですが」
「いいから貸してみたまえ」
と、甲賀は隆太郎の手から筆を奪い取った。いちいち神経にさわるが、彼も父を案じてくれているのだからと、隆太郎は自分に言い聞かせた。
「柄が折れているということは、今度もまた並び替えをしろということでしょうか」
「それはあり得る。だがそれだけじゃない。よく見てみろ」
「どこをです?」
「この穂首だ。かなり毛が抜けている」
見てみると、確かにその通りだった。
「さぁ、今度はそっちだ」
と、甲賀はまた乱暴に隆太郎の手から暗号を取り上げた。
解けたら、甲賀はどうするのだろう。やはり父を説得しに行くのだろうか。
「一昨日、父は明日館へは行きませんでした」
隆太郎の言葉に、甲賀は暗号を見つめながら答えた。
「わかっている。前日があんな様子で、やっぱり行きましたじゃ、脈絡がなさ過ぎる」
「何を言っても耳を貸さないと思います」
「あいつは迷っている。君がそう言ったんだぞ」
「けれど、もう決めたんでしょう。だから行かなかった」
「一昨日についてはな。しかし敵は三度、機会を寄越した。向こうがどういうつもりかは知らんが、とにかく江戸川君にはまだ心変わりが許されている」
「心変わりをさせるべきなんでしょうか」
「一昨日僕が帰った後、君は江戸川君に何も言わなかったのか?」
「僕は父の意志を尊重したいんです」
「意志を尊重、か。その言葉は一昨日も君の口から聞いた。同じ表現の繰り返しは極力避けるべきだ」
「僕は作家じゃありません」
甲賀はそれに答えず、暗号を見つめていた。ややあって、途端に目つきが険しくなった。
「どうしました?」
「……まずいぞ、これは」
「もう解けたんですか?」
「ああ」
話しながら解いていたのか。
「何が書いてあったんです? 逢引きのことではないんですか?」
「……いや、驚くには値しないか。いずれこうなることは予想できた」
「甲賀さん、暗号の答えは?」
「教えない」
「え?」
「たまには自分で解いてみろ」
「僕には甲賀さんのような頭はありません」
「大学教授ってのは阿呆にも勤まるのか?」
「そうではありませんが」
「君が潔く横溝や岩井に助けを求めたことは評価している。しかし君はその後、考えることを放棄してしまった」
「少しは考えました」
「『少しは』だろう。どうしても自分で答えを出さなければならないとは思わなかった。君は苦しみから逃げている。江戸川君や隆子さんの『意志を尊重する』などというのは、自分の意志を持つ重圧を避けて通ろうとしているだけなんだ」
隆太郎は返事ができなかった。自分なりに考えてはいたが、甲賀の言葉に対して反論は浮かばなかった。
「『ひたすら考える』。いつだったか、雑誌で江戸川君が書いていたな。あれについては僕も全面的に同意している。考えることをやめてしまったら、隆太郎君、人間はただの葦だ。いや、酸素を作り出せない分、葦にも劣る」
「……以前から、父と母は仲睦まじい夫婦ではありませんでした」
「それで?」
「けれど僕は、できることなら、父と母はずっと夫婦でいてほしいと思います。死ぬまで」
「……よく言った」
「でも甲賀さん、これは僕の我儘です」
「人間は我儘でいいんだ。少しは僕を見習いたまえ」
それだけは肯んじ得ないが。
「その調子で暗号も解いてみろ」
「それとこれとは話が別です」
「いいからやってみろ。もう似たような暗号とその答えを二度も見てるんだ」
「しかし……」
「それに、君はこいつの解き方を既に知っている」
知っている?
「思い出せ。暗号にはどんな種類があった?」
「読ませないための暗号と読ませるための暗号ですか」
「そっちじゃない。君が言った方だ。暗号の作り方を三つ、知った風な口ぶりで言っていただろう。こいつにはそのうち二つの技法が使われている」
甲賀はそう言って、毛筆と暗号を隆太郎に突っ返した。
「じゃあ、もう一つだけ教えてください。日時は何と書いてあるんですか?」
期限を知っておく必要がある。
「いい質問だ。細かくは教えられないが、こう言えば十分だろう。今日中に解かねば間に合わない」
書斎のドアの前には、今日も朝食が置きっ放しになっていた。栗ごはん、大根の味噌汁、きんぴらごぼう、里芋の煮っころがし、てっぽう漬け、岩のり。いつにもまして手が込んでいる。母はどんな思いでこの食事を用意したのだろう。
甲賀は一瞬の躊躇もなくドアを強く叩いた。
「江戸川君、僕だ。起きているんだろう」
返事はない。
「起きているのはわかっている。下にいた時、この部屋の窓の中で影が動くのを見た」
部屋の中から物音が聞こえる。原稿用紙にペンを走らせる音だ。
「甲賀さん、父は執筆中のようです」
「構うもんか。こっちの方が急ぎだ」
「でも、だいぶ調子よく書けているみたいです」
「期限は今日中だと言っただろう。それに『青銅の魔人』の原稿なら今月分はもう出したはずだ。江戸川君、君が何を書いているか知らんが、今言った通りこっちの〆切は今日だ。優先させてもらうぞ」
甲賀はドアを開けようとしたが、案の定鍵がかかっていた。
「いいだろう。ここから話す。聞き流せるものならそうしてみたまえ」
ペンの音が速い。異様な速さだ。こんな音は隆太郎も滅多に聞いたことがない。
「甲賀さん、やはり少しだけ待ってやっていただけませんか」
「君は黙って暗号でも解いていろ」
甲賀が鋭い声で言い放った。
「『今いいところ』だとか『今苦しいところ』ってのは魔法の呪文だ。そう言われれば周りは反射的に邪魔しちゃいけないと思い込む。だが作家の状態なんて大別すれば調子がいいか悪いかの二つしかないんだ。遠慮していたら永遠に逃げられる。僕自身が作家だからよくわかる。そうだろう、江戸川君」
返答はない。ペンの音だけが絶え間なく聞こえる。
「君は君なりに隆子さんの幸せを考えているんだろう。もしかしたら本当に隆子さんは村山君と一緒になった方が幸せになれるのかも知れない。しかしだ。それでも君は明日館へ行くべきだった。村山君をどうするかは君の自由だ。けれど君には隆子さんに感謝を伝える義務もある。この朝食は見たのか。これほどのものを作るのに一体どれだけの手間がかかるかわかっているのか」
ペンは走り続けている。
「まさか君は世話を焼かれることも含めて自分の才能だなどと思っているんじゃないだろうな。冗談じゃないぞ。断言するが、君は隆子さんの支えなしじゃ絶対にここまでやってこられなかった。せいぜいデビューから二、三作出して、腐って終わりだ」
応じる声はない。
「江戸川君、僕は君に作家を続けてほしいとか、隆子さんと人生を共にしてほしいなんてこれっぽっちも思っちゃいない。男として恥ずかしい真似をするなと言っているんだ。このまま放り出すつもりか。事なきを得ようとするな。火中の栗を拾え。村山君からの挑戦に君は正面から向き合わなければならない」
その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。現れたのは横溝だった。
「やぁ、横溝君。悪いが編集者と作家の話はあとにしてくれ。僕は今男同士の話をしている」
「いえ、甲賀先生。僕も男としての話をしに来ました」
「何だって?」
「隆太郎さん、お手のものは何通目の暗号ですか?」
「三通目ですが、何故これが暗号だと?」
「編集者としての勘です」
横溝はドアに掌を当て、呼びかけた。
「先生、横溝です。まずことわっておきますが、僕は隆太郎さんや甲賀先生からすべてを聞いたわけではありません。一通目の暗号については隆太郎さんと話をしましたが、それだけです。暗号の意味や差出人について正確なことは知りません。ですから、今から申し上げることは僕の想像に基づくものです」
ペンの音が止まった。
「僕に、村山さんを殴らせてください」
「おい、横溝君、何を言っているんだ」
「三通目の暗号が示すところへ、先生がいらっしゃらないなら、代わりに僕が行きます。そして僕が村山さんを殴ります」
原稿用紙を揃える音が聞こえる。
「一発殴ってやりたいとすら思わないんですか、先生」
「横溝君。僭越という言葉を知っているかね」
と、父がようやく口を開いた。
「承知の上です」
「今の君のためにあるような言葉だ」
「何もせずにはいられません」
「だいいち何故僕が村山君を殴りたがらなきゃいけないんだ」
「黙って見過ごそうというんですか、こんな挑発をされて」
「挑発じゃない」
そこへ甲賀が割って入った。
「罪悪感を和らげるためのものかも知れない。だが村山君の真意はどうでもいい」
「村山君じゃない」
父の声に、甲賀と横溝は色を失った。
「僕は今までずっと村山君の作品を読んできた。作品には人間が出る。僕が一番よくわかっているんだ。村山君は間男をして相手の亭主に挑戦状を叩きつけられるような人間じゃない」
「江戸川君、事実を受け入れたまえ」
「事実だ。その暗号の差出人は村山君じゃない」
「先生、お気持ちはわかりますが……」
「差出人が誰なのか、甲賀君、君にならわかるんじゃないか? ヒントは君の視界の中にある」
甲賀は眉をひそめ、あたりを見回した。
どういうことだ? 父は何を言っている? 鬱陶しい交渉人たちを遠ざけようと、支離滅裂なことを言っているのか?
部屋の中からこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。そして、ドアの下から原稿用紙の束が差し出されてきた。
「読んでみたまえ。僕の想像だ。人間の想像は大体当たるんだ……」
その原稿には、男女二人の会話が綴られていた。
「お手紙、拝見しました」
女給が現れ、コーヒーを置いて去る。
「迷っていらっしゃるんですね」
「はい」
「あの手紙が僕の目に入ることをお考えにならなかったはずはない。つまり、たとえ僕に知られようとも、あなたはご主人のお気持ちを確かめたかった」
「はい」
「驚きましたよ。それに正直こたえました」
「ひどい人間です、私は」
「それでも僕には二つの望みがあります。一つは、あの手紙が暗号という形を取っていること。『奪い返しに来てください』と、直接お書きにはならなかった。あなたの迷いを示しています。そしてもう一つは、今あなたがこうして僕と共にいてくださるということです」
「私をお嫌いにならないんですか」
「僕に嫌われたくてあんな手紙を?」
「いいえ」
時計の針が三時を回る。
「ご主人はいらっしゃいませんでした」
「ええ」
「奥さん、僕は構いません。秤にかけられても」
長い沈黙のあと、最初に口を開いたのは甲賀だった。
「何故わかった」
「村山君が僕に挑戦状を突きつけるつもりなら、作品の中でいくらでもできる。隆太郎にはじかれたり、他人の目に触れたりし得る危険を冒してまで、手紙という手段を取る必要はない」
声が近い。父はドアのすぐ向こうにいる。
「隆子のやつめ、自分のことを指して宝とはな」
「その通りじゃないですか」
と、横溝が言った。
「奥様は宝です」
「もう終わったんだ」
「何故行かなかったんですか。これが村山さんからの挑戦状などでなく、奥様からの呼びかけなら、なおさら行くべきでした」
「呼びかけと言い切れるものじゃない。迷いがあるから暗号なんだ。ただ、その三通目に限っては少し違うようだがね。本文より先に追伸を受け取った」
「どういう意味です?」
「何にせよ僕には夫の資格がない」
「ええ、そうです。このうえ三通目の手紙が示す場所へも行かれないおつもりなら」
「横溝君、君の心意気は嬉しかった。ありがとう」
「言えるじゃないですか、先生。『ありがとう』と。その言葉をどうして僕に言えて奥様には言えないんですか」
父はそれに答えなかった。
隆太郎は甲賀と横溝の方を向いて言った。
「甲賀先生、横溝さん、あんな父のために心を砕いてくださって、本当にありがとうございます。父は幸福です。そして不器用です。手で文字は書けるのに、口で言葉を紡ぐのは苦手なんです」
「隆太郎君、親父を甘やかすな。苦手でも何でもやらなければ駄目だ」
「父は作家です。登場人物の言葉ならば紡ぎ出せます」
「これは現実です、隆太郎さん。家族がばらばらになってしまってもいいんですか」
「父は不実です。褒められたことではありません。しかし誠実さを身につけるには、いささか歳を取り過ぎました」
甲賀は顔を真っ赤にして隆太郎を睨んでいる。横溝はまだ何か言いたげな顔をしている。
隆太郎は二人に構わず、ドアの向こうの父に言った。
「父さん、僕がこの三通目の暗号を解きます、自分の力で。そして母さんを連れ戻します、ある人に力を借りて」
「ある人?」
と、甲賀と横溝が口を揃えた。
幻影城の一階で、隆太郎は一人、立ったまま暗号を見つめていた。必ず解く。日暮れまでに。
格子のはまった小さな窓から光が射し、埃をきらきらと輝かせている。本棚にぎっしりと詰め込まれた叡智。隆太郎はそれを、黴の匂いと共に吸い込もうとする。
甲賀は言った。この暗号には、隆太郎の知る三つの技法のうち二つが使われている。三つの技法とはすなわち、「置き換え」、「並び替え」、「冗字」。問題は何が、どのように使われているかだ。
恐らく過去の二通と同様に特定の文字を抜き出す読み方なのだろう。不要になる文字を「冗字」と見なすこともできるが、だとしたらわざわざ甲賀があんな言い方をするとは思えない。「抜き出し」を「冗字」の一種と捉えるならば、二通目が既に二つの技法を使うものだったからである。
二通目は特定の文字を抜き出した上で「並び替え」をする読み方だった。そのヒントは鏡が割れていることによって示されていた。三通目も、ヒントの毛筆は柄が折れている。このことがまた「並び替え」を示唆するものだとは充分に考えられる。
甲賀のあの言い方は、「抜き出し」と「並び替え」に加え、もう一つの操作が必要だという意味なのではないだろうか。
隆太郎は毛筆を見た。毛が抜けている。連想されるのはやはり「冗字」。「毛」の示す何かが不要になるのだ。しかし、それはいつだ? 「抜き出し」をしてから不要な字を捨てるのか、それとも先に不要な字を捨てなければ「抜き出し」ができないのか?
「何してるの」
静子がそこに立っていた。暗号に熱中して、床を踏む音も聞こえなかったらしい。
「ああ、ちょっとな」
「ちょっとじゃわからないじゃないの。何、その紙」
「何でもない」
「もしかして学生さんからの恋文?」
「馬鹿なことを言うな」
「あなた結構いい先生みたいだものね」
「やめろ。悪い冗談だ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないの」
「なんでわからないんだ」
「何が?」
「この紙が何だか」
「わからないから訊いたのに」
「暗号だ。この前からずっとやっているじゃないか」
「え? まだ解けてなかったの?」
「これは三通目だ。この前のやつはもう解けた」
「何だ、そうなの。そんなこと言われなきゃわからないわよ」
「いちいち説明するのが面倒なんだ」
「何でもすぐ面倒臭がるんだから。そんな調子じゃ早くぼけるわよ」
「少なくともお前より早くぼけるつもりはない」
「私がぼけちゃってもお世話してくれるってこと?」
どこまでおめでたい思考回路なんだ。
「あ、そうだ。あの綺麗な布、もういらないのよね?」
鏡を包んでいたあの布か。すっかり忘れていた。
「ああ、あれなら捨ててしまった」
「嘘!」
嘘だ。何も知らないのん気な妻に腹が立ったのだ。
「欲しいって言ってあったのに」
「捨ててしまったものは仕方ないだろう」
静子は心から残念そうな顔をした。母と静子は趣味が合う。母の用意したあの布は、静子の琴線に触れるものだったのだろう。
「それより、甲賀先生たちはどうした」
「さぁ? おうちの方にはいらっしゃらなかったし、お帰りになったんじゃない?」
「そうか」
「とにかく、こんなところに長居していたら胸を悪くするわよ」
「大きなお世話だ。放っておけ」
「はいはい」
と、去りかける妻の背中を見て、隆太郎ははたと気付いた。
「あ、そうか」
「何?」
自分の妻への接し方は、父のそれとよく似ている。いて当然と思い、ないがしろにし、笑顔を向けず、感謝を伝えない。
静子は自分のことをどう思っているだろう。どこかのいい男に甘い言葉でも囁かれたら、そいつについていってしまうのではないだろうか? 静子は琴を習っている。教室に若い男がいるかも知れない。
「ありがとう」
思わず、口からこぼれた。
「何が?」
静子は怪訝そうな顔で振り返った。
「いや、いつも」
「だから何のこと?」
「飯とか、色々」
「あら、そう。どういたしまして」
と、静子が微笑んだ。
笑顔につられて、何かが緩んだ。恐らく、心の財布の紐が。
「それから……」
「何?」
「あの布なら、取っておいてある」
「ああ、そうなの。なんで嘘ついたの?」
「忘れていたんだ。捨てたような気がしたが、やっぱり取ってあった」
「ああ、そう。じゃあくれるのね?」
「やる」
「ありがとう」
「ありがとう」は、言い慣れていないと、発するのにエネルギーのいる言葉だった。静子は隆太郎の嘘を咎めることもせず、すんなりと「ありがとう」と言った。
そのことで、もう一つ、結び目が解けた。
「それから……」
「何?」
「今夜は、肉が食いたい」
「え?」
「夕食は肉がいい。豚でも鳥でもいい」
「もうお魚買ってきちゃったわよ」
「そうか。じゃあいい」
「でも、希望を言ってくれたのね。ありがとう」
「そう軽々しく礼を言うな」
「どうして?」
「『ありがとう』は『有る』が『難い』と書くんだ」
「だから何? ありがたいから『ありがとう』って言うんでしょ。それでいいじゃない」
反論できなかった。静子の言葉をそのまま受け入れるなど、もう随分してこなかったので、違和感がある。良くない習慣の中に身を置いていたのだと、反省するしかなかった。
かくなる上は、と、隆太郎は自ら結び目を解いた。
「あと、それから……」
「今度は何?」
「その、何と言うか……」
「何なの?」
「八つ当たりをして、悪かった」
「いつの話?」
「何度かあった」
「何度も、ね」
「ああ。悪かった」
「悪いと思ってくれるならいいわよ」
「ああ」
「また八つ当たりしていいって意味じゃないからね」
「わかっている」
あとは、笑顔だ。隆太郎は笑顔を作ろうと、深呼吸して、目を細め、口の端を上げてみた。ところが。
「やだ、何なの。気持ち悪い」
そう言い捨てて、妻は逃げるように行ってしまった。隆太郎は半分の笑顔のまま取り残されてしまった。しかし、この程度の仕打ちで済むのならば、まさに「ありがたい」ことだ。
その時、一つの棚に目がとまった。映画や芝居、歌舞伎についての資料や自著を収めた棚だった。父はそういった見世物の類をこよなく愛している。チョイ役で映画や寸劇に出演したことさえある。
父に連れられて初めて見た歌舞伎は『仮名手本忠臣蔵』だった。隆太郎が「赤穂浪士は四十七人で、仮名は五十音なのに、何故『仮名手本』というの」と尋ねると、父は「『あいうえお』でなく『いろは』だからだ」と教えてくれた。
それからもう一度暗号を見た。全五十五文字。もしや、これか?
隆太郎は遂に暗号を解き終え、一本の電話をかけると、その晩は早めに床に就いた。
眠りはすぐに訪れた。よく身体を動かした日のように。
夢を見た。夢だという意識のある夢だった。これは助かる。浅い眠りは歓迎だ。明日、いや、今夜は、暗いうちに起きなければならない。
少年時代のとある夏の日。縁側。父が望遠鏡を組み立てる。母が切ったすいかを皿に乗せて持ってくる。
「見てみろ、隆太郎」
と、父が言う。隆太郎がレンズを覗き込む。
文月の清流、天の川だ。しかし、期待したほど大きく見えない。星はやはり小さな点である。隆太郎はあっという間に飽きてしまう。宇宙は遠すぎる。こんなレンズなど通しても視界が狭くなるだけだ。直に目で見た方が見やすい。
けれど隆太郎はレンズから目を離さない。背後で父と母が並んで縁側に腰かけている。冷えたすいかをかじりながら。それが嬉しくて、いつまでもそうしていてほしくて、隆太郎は熱心に星を眺め続ける。
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