これは私の物語
ricoma
第1話
「[愛美]って書いて[くるみ]って読むんです。愛くるしく美しくって意味なんです。」
愛くるしいの 'くる'?
'あい' や 'まな' ではなく?
なぜ 'くる' の方を読ませたのかしら。
いっそ 'いつみ' の方がまだ分かる。
もう梅雨も明けるというのに、薄い上着が必要なほど寒い7月。
例年どおりの夏のイベントの手配はおおかた片づいてはきたけれど、金曜日は大抵終電ギリギリになってしまう。
明日は朝から直で現場なんだけれど、心のモヤモヤが収まりそうにない。
西18丁目から大通り公園を右手に少し歩こう。
ビアガーデンは今日の営業を終了し、大げさな装飾を隠してひっそりと佇んでいる。
噴水の水は止まっているけれど、飲み足りない若者はまだ喧騒の中。
綺麗な鼻筋と完璧な今風の韓国的なお化粧。
小さな頭は「子供サイズしか合わなくてぇ」キッズのキャップ。
10歳年上の彼からのプレゼントのナイキにオーバーサイズのゲスのTシャツ。
イベントのシーズンになると不定期でヘルプに入ってもらう 'くるみちゃん'。
「とても勉強させてもらってますぅ」
「このお花かわいいですぅ」
「鰻の白焼きって初めてですぅ」
「やっぱりお二人の現場楽しいですぅ」
半音高い声と少しだけのびる語尾が、ほんの僅かづつ私の中に積み重なってきていることに気づく。
疲れている。
噴水の横の若者たちはどこへ行ったのか、静かな深夜の夏の空気が流れている。
そう、イライラしているのではなく、疲れているのよ。
毎シーズン違うアルバイトを使っていた事もあるし、長期だったり短期だったりで来てもらっていた子や一日だけの子、さまざまなタイプの子と接してきた。
その度にそれぞれ特徴があったり、似ている所があったりで、私も少しずつ対処法が蓄積されていく。
されていったはずだった。
だったのに、今回はどうだろう。
うまく対処出来ていないのか、回避出来ていないのか、それとも単に年の差なのか、非常に疲れてウンザリしてしまう。
元々は私のパートナーであるタクミの前職でアルバイトをしていた'くるみ'ちゃん。
いつもニコニコ接客していた彼女をタクミがとても気に入り、私達の仕事のヘルプに来てもらうようになってそろそろ2年。
'くるみ'ちゃんはあと数日で25歳になる。
誕生日の当日はもちろん彼と会うというので、その週の木曜日に私達とバースデーの食事に行く事になっている。
私はタクミを取り巻く人たちにいつもするように、プレゼントを選ぶ。
それは取引先の奥様だったり、彼の友達の奥様だったり、彼の後輩だったり、'くるみ'ちゃんだったり。
当たり障りのない物がほとんどで、だって私はその人たちをあまり知らないから。
少しだけ珍しいワインや、お取り寄せでしか買えない話題の焼き菓子などの消え物、たまに今治のタオルやロクシタンのクリームなど、ご本人が使っている事を知っている場合を除いては。
どうしてか'くるみ'ちゃんへの贈り物がなかなか決まらない。
仕事終わりで食事や帰宅に急ぐ人の流れに逆らって、駅ビルの中を3周した。
時々彼女の顔を思い出して、似合いそうなものを考えて、少し立ち止まって。
SABOMでボディクリームとハンドクリームを'くるみ'ちゃんに、大丸で少し靴を見て、地下でワインを買って、外に出たらすっかり暗くなっていた。
駅前広場はビアガーデン仕様になっているけれど、夜の肌寒さが夏の終わりが近い事を教えてくれている。
私の毎日は平坦なとてもありふれたもので、特別なことはあまりない。
朝起きてから仕事をして、パソコンに向かい、また仕事をして、一日の終わりには自宅で食事の用意をするか、外食に行くか、コンビニか、を考えながら会社を閉めて歩いて帰る。
毎日同じ繰り返し。
それは平坦な穏やかな毎日で、そしてそれは私が望んだこと。
『人生は何が起こるか分からないから楽しいんだよ』
そう言って笑われたのは5年前の夏が終わる頃。
『ビアガーデン行こうぜ、若いの連れて行くから女の子用意してよ。』
午前の打ち合わせ中に、食事を取る気力もないと言った私に、夕方近くなってから電話をしてきた。
『いつ?出来ない約束はしたくないけど、食欲ないの話したよね?』
この1週間食べ物を受け付けない。
理由を話す気力もない。
『もちろん、今晩。』
一方的に、大通り19時と。
迷ったけれど、取引先でもあり元彼でもある彼の勘の良さも知っている。
私の会社で1番若くて、彼に憧れている女の子と一緒に大通りに向かった。
あの年の夏は色々な事があり過ぎたのだと思う。
夏から秋が目まぐるしく過ぎた。
不確定な要素がたくさんのまま。
そんな時だけよく働く私の勘。
理由を言わずに距離を置きたいと言ったタクミ。
聞きたくない噂。
結局ビアガーデンはいっぱいで近くの焼肉に落ち着いた。
食欲のない私の横には勘の良い彼。
向かいに座らせられて機嫌が悪い後輩。
『あこさん、若い男の子の隣がいいんじゃないですかぁ?』
程よくお酒がまわっても頑張る後輩。
どうしても松田の隣に座りたいらしい。
『あこは俺の横でいーんだよ』
お店を変えていつものバーへ。
私たちの元の関係を知らない後輩は??の表情のまま。
松田の連れて来た後輩君は知っているのか苦笑い。
私もつられて苦笑い。
『そういえば、タクミさんって今マキさんと住んでいるんですかぁ?』
店内の赤い壁がオレンジの照明に照らされて何色なのかわからない。
酔っているのかも、でも一瞬顔が引きつった。
私たちの関係は公にしていない。
仕事のパートナーと言うことになっている。笑顔は保たないと。
松田も、その後輩君も取引先だ。
深呼吸をして、タバコを吸ってくるね、の仕草をして、ひとりカウンターに移って、大丈夫、大丈夫。
ボックスからは後輩ちゃんと後輩君がタクミの噂をしている声が聞こえる。
大丈夫、こんな時しか働かない私の勘が当たっただけ。
『大丈夫か?帰るぞ』
勘のいい元彼、松田が私のタバコを消した。
距離を置いた私たちは、仕事のパートナーだったのだけれど、元々私がしていた仕事を手伝ってもらっていただけだから結局は元に戻っただけだった。
大丈夫、元通り。
そして、感傷に浸るヒマもない程のシーズンを迎える。
ひとりこなし切れない仕事を抱えて。
何かあるといつも仕事だけは順調にまわる。
そしてそれに没頭する。
大丈夫。
まだご飯は食べられない。
でもビールは美味しいから、大丈夫。
『今週は女満別。出張から戻ったらメシ行こう』
あれから松田は毎日些細なメールをくれる。
きっと私がご飯が食べられるようになるまで。
あの日私のタバコを消して、二人で歩いたススキノの交差点で、松田は言った。
『人生は何が起こるか分からないから楽しいんだよ』
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