第109話 奈落の支配者 -Deep in the nightmare-

・1・


 名は神にとってこれ以上ないほど重要な意味を持つ。


 ――黄泉津大神よもつおおかみ


 それは伊弉冉いざなみが持つもう一つの側面なまえ

 文字通り、黄泉の国の主。統べる者としての名だ。

 伊弉冉いざなみとは無限の夢に生者を誘い惑わす存在。来る者は拒まず。しかし去る者は決して許さない。

 それが今はどうだ? その在り方は全くの逆。

 全てを総動員して、自らが生み出したこの虚ろな箱庭ゆめに巣くう脅威を排除することに特化している。


 神格深化。


 つまりこれこそが魔遺物レムナント魔具アストラの枠を超えた存在であるという絶対的な証明。

 より強く。そしてより深みへ。

 完全な形で魔具アストラとならなかったそれは、完全へと至るために必要とあらば自らを再定義する。それが例え本来の形オリジナルから大きくかけ離れていたとしても。

 完全であること。ただそれだけが神にとって唯一にして絶対の条件故に。


・2・


 伊弉冉いなざみ改め黄泉津大神よもつおおかみの言葉を皮切りに、復活したネフィリム達が一斉に雄叫びを上げる。


「ッ、来るぞ!」


 最初に動いたのはカインだった。巨大な野太刀を持つロウガと相対し、激しい鍔迫り合いを繰り広げる。しかし――


「ッ!?」

「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」


 理性の欠片もない咆哮と共に牛頭の魔獣――センティコアが横から戦斧を彼に振り下ろした。カインは敢えて僅かにロウガを引き寄せ、その際に生じた死角から蹴りを喰らわせて距離を取ろうとした。しかしその寸前で彼の足は空を切る。


(躱された!?)


 しかし驚いている暇はない。カインは急遽異形の右腕を解放し、激痛覚悟でセンティコアの戦斧を強引に弾いた。次の瞬間、衝撃が全身を駆け抜け、体から重力が消える。彼はジャストミートしたホームランボールのように吹っ飛ばされ、ビルを二つ貫通した。


「ぐ……あッ!」


 気を抜けば一瞬で失神してしまいそうな痛みではあったが、歯を食いしばって強靭な精神力で耐える。今ほど自分の右腕に感謝した瞬間はない。普通の腕なら例え余波だけであっても全身粉々。五体満足などとても望めなかった。


「前と、違う……アイツか?」


 カインは戦場のど真ん中で浮遊してこちらを見下ろす少女を睨みつけた。

 生前の記憶を基に戦闘能力だけを模した影。それは今も変わっていない。そしてその影は実戦で培われた勘までは再現できていない。あくまで設定された行動のみを実行する人形。そこに勝機があった。

 だが今回は少し勝手が違う。明らかに統率されている。先ほどのロウガの攻撃タイミング。あれは続くセンティコアの二撃目を確実にするために計算されていた。カインは知る由もないが、例え生前であったとしてもそれは絶対にあり得ないことだ。

 そしてもう一つ。


「……死角もないってか」


 カインは空からこちらを見下ろす鳥人型の魔獣――ハルピュイアを見上げながら苦しげに呟いた。

 おそらくこの戦場における全ての情報は黄泉津大神よもつおおかみの手中にある。影たちは彼女の端末といったところだろう。端末の視覚を始めとした全ての情報を基に彼女は盤上の遊戯を楽しんでいる。


「フフ、そんな場所でいかがなさいましたか主様? 先ほどはわらわに上下関係を分からせると仰っていましたが……」


 今はどうか? と、いやらしい視線が問いかける。


「黙ってろ! コイツら片付けてすぐにそこまで登ってやるよ!」

「あらあら怖い♪」


 黒い着物で口元を隠し、黄泉津大神よもつおおかみは妖しく嗤った。


(つっても実際問題、分が悪い)


 言葉ではいくら強がっても状況は最悪だ。

 ネフィリム三体に対しこちらは一人。それに加え敵側には完璧な統率と全体を俯瞰する目。おまけに頼みの魔装は今まさに敵対している伊弉冉いざなみの力そのものだ。下手に使えば却って状況をさらに悪くする可能性があるときた。

 唯一、この状況を打開できるものがあるとすれば……


「……コイツで何とかするしかない、か」


 カインは自身の右腕――外理カーマに視線を移す。神をも喰らって力とするこの神喰デウス・イーターなら。

 実際、カインの魔装は正規のものではない。伊弉冉いざなみの神核を右腕に取り込み、その能力を外理カーマで抽出しているというのが正しい表現だ。だから今ここで魔装を使えたなら敵の支配を100%受けるということはないだろう。問題は先ほど彼女が言ったように上下関係だ。カインの力が勝る間はいい。しかしここは彼女の領域。目に映る全てが彼女の支配下と言っても過言ではない。しかも名を変えたことでその力は以前より遥かに強い。


(俺の外理みぎうででアイツの神核をもう一度喰らう)


 もしそれができたならば、この上下関係は一気に反転するはずだ。だから何としてでもこの絶望的な包囲網を突き破り、彼女のもとに辿り着く必要がある。

 それが今のカインに残された唯一の道だ。


・3・


「ロシャード!」

「——」


 無音の鉄拳が飛角の頬を切り裂く。

 かつての相棒を前に、彼女は動揺を抑えられなかった。


「……ッ!!」


 飛角は地面を思いっきり踏みつけ、巻き上がる土砂と共に逃げるように宙を駆ける。


(あーもうッ!!)


 分かっている。あのロシャードは影。偽物だ。何も考えず、拳を叩き込めばそれで決着がつく。

 分かっている。分かっているはずなのに——


「しま……ッ!?」


 迷いが彼女に隙を生む。ほんの一瞬目を離したその刹那に背後を取られてしまった飛角は慌てて両腕を合わせて壁を作る。次の瞬間、容赦ない一斉射撃フルバーストが彼女の体を吹き飛ばした。


「がは……ッ、ぐ……!」


 龍化してその身に人の何十倍もの強度を有しているにもかかわらず、飛角は全身を駆け回る痛みに呻く。外傷はもちろんのこと、それ以上に一撃一撃が彼女の後悔ふるきずを抉るのだ。相棒を死なせてしまった過去の過ちを。


「……痛……ッ。こんな美少女に暴力全開とか。少しは心痛まないのかよ?」

「……」


 無意味と分かっていても、この軽口は止められない。

 もしかしたら。そんな一縷の望みを抱いてしまう。


(ダッサイなぁ……私)


 とうの昔に覚悟はしていたはずなのに。こうしてロシャードを目の前にしてようやく自分の甘さを痛感する。


「でもさ……私はここで立ち止まってるわけにはいかないんだよ。ロシャード」


 飛角は歯を食いしばって立ち上がる。そしてポケットからロストメモリーを取り出すとそれを自身の右手に展開する。


「悪いけどさ……そこ、通してもらうよ」


 ガルム。空間さえも容易に切り裂く冥界の番犬の名を冠する絶爪。これを使えば僅かに爪の先が触れるだけでも相手を屠ることができるだろう。

 これ以上戦いを長引かせるわけにはいかない。焦りにも似たその感情が幸か不幸か彼女に一歩を踏み出す力を与える。

 しかし、だった。



「……ヒ……ッ……ク」

「!?」



 全身が震えた。

 寒気、悪寒、恐怖……そんな言葉では言い表せない。


「飛……角……」


 これは奇蹟のろいだ。

 彼女が望んで止まなかった……数秒前に切り捨てたあり得ざる奇蹟。


「飛角……早く、私を……」

「ロシャード!」

「早く私を破壊しろ!!」


 それが最悪のタイミングで飛角に襲い掛かる。

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