祈りについて

若草八雲

祈りについて

祈りは現実化する


祈りとは、神や超常的な存在にたいし、何らかの願いの実現を求めて行う行為である。故に、本質的に祈りは実現することが予定されている行為であり、実態としてそれが実現するか否かに関わらず、祈りという行為それ自体に結果の実現という結論が織り込まれている。

したがって、祈りは現実化するというフレーズは祈りの性質を述べたものに過ぎず、新たな意味を持つものではない。

先の言葉に対して学生が話してくれた仮説だ。様々な反論はありうるだろうが、祈りが意味のある行為であるという認識の元における説明としてはわかるような気がしている。

この国にいると、祈りなどというものは宗教的な行為の一種に過ぎず、そこに何らかの効果が現れること自体にまず疑いがあることの方が多いように思われる。少なくても、私自身は祈りを口にすることはあっても、それによって何かの効用が得られ、事態が進展することがあるわけではない、と心のどこかで冷めた見方をしてしまう。

祈りはあくまで私たち自身の心の有り様を固める行為であり、宗教的な行為にすぎない。祈りを捧げても我々の生活が劇的に改善するわけではなく、私たちの生活を豊かにする物質的な恩恵は受けられない。

真の信仰というものがあるという表現が適切かはさておき、信仰の薄いこの国はそうした即物的な考え方を受け入れる素地があるのではないかと思う。


だが、その学生が生きる世界は私の見ている風景とはまるで異なるのだ。心の有り様が現実のあり方に影響を与える。自らの活動だけでなく、周囲の物事の変化でさえ、祈りという心の有り様に影響される。それが当たり前のこととして認識できる彼の世界観に、当時の私は関心をもった。

それが今、私がここにたっているきっかけである可能性は否定できない。彼の考え方に従えば、彼の見る世界観に惹かれ、それを知りたいと願った私の祈りは、こうして私をこの場所へつれてきたということになるのかもしれない。

実のところ、私は今でも彼のその考え方に懐疑的ではある。祈りがその後の人間のあり方、結果までを含んだ概念だというのはさすがに概念として多くの矛盾をはらんでいるように見えるからだ。

だが、祈りは現実化する。この言葉については疑念を挟む余地がない。かの学生が述べたような概念定義の問題でもなければ、宗教的行為が生み出す社会の変化などに関する話でもない。


私たちが直面しているのは、観念や解釈を挟む余地のない、文字通りの現象だ。

そう、私たちの祈りは、私たちのいるこの現実世界に形を持ち現出する。

私たちは、祈ることの効用を意識の変化などという間接的な現象ではなく、直接的な現象として捉えられるようになったのだ。


さて、どうやら現場の準備が整ったようだ。諸君、授業を始めよう。

二重言語は解除するな、日々の祈りは君たちの力に繋がる。さぁ、まずは画面に注目だ。今宵、君たちの先輩が対峙するフリークス、その生態と戦略について討議を始めよう。

先輩たちの戦略にこだわる必要はない。

まずは、視て、受けとめ、考えることだ。私たちは今、自らの祈りを現実化させる術を有している。それはつまり、君たちが何を望み、何を祈るかによって状況が目まぐるしく変化するということを示している。

祈りを捧げることをやめてはならない。だが同時に考えることだ。何を祈り、何をなすべきかを。


祈りは現実化する。

そして、形を失った祈りは暴走する。

私たちは、祈りの恩恵と共に、そのリスクに向き合わなければならない。

フリークス、私たちが立ち向かうべき暴走した祈りたちに。

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祈りについて 若草八雲 @yakumo_p

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