4.7th Trigger-Ⅲ
「…………はぁ」
大木の根と地面の間に出来た人一人分のスペースに入って踞りながら、白い息を吐いた。
化け物の去った後の事は正直よく覚えていない。
ただがむしゃらに走って、あの場から離れようとしていたことは覚えている。
走って、走って、転んで、走って、そうして走り疲れて辿り着いた場所がここだ。
辺りは既に暗闇に包まれ、風に揺れる木の音や時折聞こえる動物の鳴き声が冷たい空気を切り裂く。
気温は低く、かじかんだ手は死人のように冷たく、何も感じられない。
「実は既に死んでたりしてな……」
そんな冗談でも言っていないと心が壊れてしまいそうなのだ。
いやが上にも理解してしまっていた。
この森が恐らく自分の知っている類いの"森"ではないことを。
そして、この森が"危険"であるということを。
(いったい何だったんだあいつは……)
必死に忘れようとしても頭からは離れてはくれなかった。
――あの鼻は既に自分を探しだしているのではないか。
――あの爪に貫かれた自分は人としての形を保っていられるのだろうか。
――あの牙は自分の頭蓋をいとも容易く噛み砕くのではないだろうか。
次に見つかった時が自分の最期なのだという、そんな想像で脳内は埋め尽くされていた。
「ちくしょう……訳わかんねぇ。腹へった……家に帰りてぇ……」
これから何があるかわからない。
そんな状況でわずかな食料を食べ尽くしてしまわない程度には、まだ自分は冷静であった。
刺すような寒さや広大な森にひとりぼっちだという心細さと、生きて帰れるのかという不安やあの化け物がもし襲ってきたらという恐怖に苛まれ、正直なところ精神は擦りきれてしまいそうだ。
何か音がする度にさっきの大土竜が来たのではないかと、そうやって自分の心が疲弊していくのをまざまざと意識させられる現状に堪らなくなっていた。
ここまで一緒に旅をしてきた香木の枝の匂いも、鼻が慣れてしまったためか、あまり効力を発揮してはくれない。
(もしかしたら、これが報いなのかもな)
そんな考えが頭をよぎる。だが、
(だからって……この状況に耐えられるわけじゃない……)
もしこれが報いだって言うのならば――
――いっそ……
――報いとして受け入れて……
――死んでしまえば……
――キュウッ♪
――楽に……
(……ん? キュウ?)
そこで始めて、自分の左足の辺りに何か温かい白桃色に淡く光る毛玉が当たっていることに気が付く。
つい先程まで小さな物音一つにビクビクするほど敏感になっていたはずだ。
触れられても気が付かないほど思考の渦にのみ込まれていたというのだろうか。
「なんだ……おまえ?」
先程までの恐怖や不安はどこにいったのか、気が付くと何の躊躇も無しにその毛玉へと指を伸ばしていた。
顔を後ろに向けていたために毛玉にしか見えなかったそれは、指が近づいてくるのに気が付くと、顔をこちらに向けて指に擦りついてきた。
「キュウッ♪」
耳の間を撫でてみる。
「キュウキュウッ♪」
顎の下をくすぐってみる。
「キュキュキュウッ♪」
「……ふっ……ははっ……かわいいなおまえ」
それはフェネックに似た小動物であった。
大きさは二十センチくらいで、耳が大きくてクリクリとした黒目が愛らしい。
色が白桃色で淡く光っていることを除けば、ほぼほぼフェネックだ。
「まあ淡く光ってる時点で色々おかしいんだけど……。フェネックって実は発光したりするのかな……?」
そう言いながら撫でているとその小動物は、完全に旅のお供と化した香木の枝の匂いを嗅ぎ始め、体を擦り付けだした。
「お! お前も香木くんを気に入ったか。なんか安心するよなそれ!」
「キュキュウッ!」
なんとなく同意を示してくれているような気がした。
そんなやり取りの中、自分の身に起こった変化にはたと気が付く。
「あれ? 寒くないぞ……」
先程まで自分をあれほどまでに苦しめていたあの刺すような寒さが無くなっているのだ。
根拠は無いが、何となく自身にこの温もりを与えてくれている相手に心当たりはある。
というよりそれ以外考えられない。
「お前の……おかげか?」
「キュウンッ♪」
「フフン♪ どうだ!」とでも言うかのように鼻をならしている。
そのまま肩へ飛び乗り、今度は顔を小さな舌で舐めてきた。
本当にそう思っているのかはわからない。
ただ、その小動物が言っているように感じたのだ。
――「元気をだして」と。
――「負けるな! 頑張れ!」と。
なんだこの小動物は。
心細さと恐怖で押し潰されそうな自分の前にタイミング良く現れ、温もりと癒しを与えていく。
狙ってやっているのだろうか。
こういう心の隙につけ込んでくる手法は新手の詐欺の常套手段だと聞いたことがある。
だが、そう考えると同時にこうも思ったのだ――
(まあ、よしんば詐欺だったとしても――)
――「これになら騙されても良いや」と。
「こいつめこいつめ! まったくかわいい奴だなおまえはぁ!」
「キュキュキュウッ♪」
両の手で撫で回して、頬擦りをして、一緒になって転げ回ったりして、目一杯じゃれあった。
――――
一通りじゃれあった後、一息ついて座り直し、先程の事を思い出す。
(こんなに笑えたの……いつぶりだろう……)
胡座をかいた脚の内側で丸まっている小動物を撫でながらそんな思考に耽っていると、小動物が突然立ちあがり、胸に前足をつけて顔を近づけてくる。
犬のように鼻でも舐めてくるのかと思い顔を近づけてみると、右の目尻を舐めてきた。
それと同時に左の頬を何かがつたうのを感じる。
「あれ……なんで、僕、泣いて……」
瞳からはこれまで堪えていた分が堰を切ったかのように、とめどなく涙が溢れ出してきていた。
「おかしいな、あれ、どこも痛くないのに、悲しくもないのに、おかしいな……」
拭っても拭っても、涙が止まることはなかった。
右の目尻から溢れる涙を小動物が何度も何度も舐めとってくれる。
まるで溢れ出る涙を少しでも止めようとしてくれているようだ。
そんな姿を見ると、胸の内に何かが込み上げてきて、鼻の奥がツンとしてくる。
「ありがとう……。ありが、どう゛……な゛」
「キュ?」
込み上げる想いを言葉にしきれないまま、その小さな温もりを抱きしめ、その日は眠りに落ちた。
もう、寂しさはなかった。
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