第76話 それは救いかはたまた罰か
暗くて狭い石の部屋。時計どころか窓もない此処では、今が何時頃なのかは分からない。時間の流れ自体があるのかどうかすら疑問に思えるほどに変化のない此処に来て、一体どれくらいの時間が経ったのか……それを知る術は、今の俺にはなかった。
両手両足を繋いだ枷が酷く重たい。これは屈強な戦士が暴れても外れないように黒鋼という特別な金属で作ったものだから絶対に壊せない、と俺にこれを付けた闘技場の係員が言っていた。大会で敗れて奴隷となった出場者の大半は抵抗を続けることが多いから、それを抑えるためにわざわざそういうものを使っているらしい。
口の中に広がる鉄の味が不味い。猿轡代わりに噛まされている鎖が無駄に太いせいで、無理矢理開かされっぱなしの顎も痛かった。口が閉じられないせいで唾液が垂れ流し状態で、そのせいで顎がべたついているのだが、自力で拭うことができないため放置している有様だった。せめて手は体の前で縛って欲しかったって思う。
──此処は、闘技場の地下の何処かにある地下牢。大会に参加して敗退し、奴隷落ちした選手を一時的に閉じ込めておくための場所だ。
大会で負けて奴隷落ちした俺は、他の生き残っていた参加選手共々此処に連れて来られたのである。
これから俺たちは、奴隷商に売り渡され、何処とも知れぬ遠い場所へと連れて行かれるらしい。
元戦士の奴隷は、護衛役や要所の警備兵として貴族からは重宝されているのだという。わざわざ遠方の国から此処に買い付けに来るほど人気があるのだそうだ。
俺はおっさんだから他の若い連中と比較したら高値は付かないだろうが、魔法使い好きな奴には需要があるだろうと言われた。
……もちろん、このまま黙って奴隷として売られるつもりなど俺にはない。
何としても此処から脱出して、フォルテたちと合流しなければ。
しかし、今の俺は口は塞がれていて手足も拘束されている状態。これでは此処からの脱出どころか身動きすら取ることは難しい。
せめて口の鎖さえ外れてくれれば魔法が使えるようになるので多少は何とかなるのかもしれないが……思った以上に頑丈に縛り付けられているため、頭を振った程度では外れそうにない。
この状態でもマナ・アルケミーを発動させることはできるが、動かせない手で握った武器なぞこの枷を外す役には立たない。やるだけ無駄だ。
此処から出される移送の瞬間を狙うか? ……いや、いつになるか分からないものを悠長に待っている時間はない。この案もボツだ。
……どうする。考えろ。考えろ。
俺の最大の武器は魔法ではない。魔法を上手く使うための知恵だ。
こんな場所で立ち止まってなんかいられない。どんな手を使っても地上に戻って、必ず、魔帝の元に辿り着く。
そして、そこにいるであろうユーリルにもう一度会って、話をするのだ。
ユーリルは、思い違いをしている。己の被害妄想に囚われて、そこを魔帝に付け込まれていいように操られているだけなのだ。それを正さないまま決裂するなど、俺にはできない。
本気でぶつかって話せば、あいつもきっと理解してくれる。あいつは頭が良い奴だから。最後には必ず、誤解が解けて俺たちのところに帰ってきてくれるはずだ。
俺のためだけじゃない。ユーリルのためにも、俺は絶対に前に進むことを諦めてはいけないのである。
──かつん。
ああでもない、こうでもないと俺が必死に思考を巡らせていると、通路に反響して足音が聞こえてきた。
その音は、徐々にこちらへと近付いてくる。地下牢の番をしている衛兵の巡回かとも思ったが、それとは足音の質が違うような気がする。衛兵は闘技場の係員と同じで銀の甲冑を着ていたはずだが、今聞こえている足音は金属から発せられるものとは程遠い感じのものだ。
衛兵じゃない、となると、この足音の主は一体……
警戒しながら鉄格子の外を見つめていると、その足音の主がゆっくりと姿を現して、俺の牢の前で立ち止まった。
「……天才魔道士も情の前に敗れるか。無様なものだな」
司祭が着ているような貫頭衣の上から胸当てと巨大な篭手を身に着けて、隼っぽい鳥の頭を模した兜を被った黒の男──
魔道騎士バルムンク。そう名乗った人物が、鉄格子越しに俺のことを見下ろしていた。
……な、何でこいつがこんな場所に……
ろくに動けない体を懸命に動かして、俺は床を這いずりながらバルムンクから距離を取った。
バルムンクは右手を真横に翳して大剣を生み出すと、それを斜めに振り下ろす!
ごがらん!
黒の大剣に断ち切られた鉄格子が、ただの鉄の棒となって辺りに転がった。
人一人がようやく通れるほどの穴を鉄格子に拵えて、そこから牢の中に入ってきたバルムンクは、俺のすぐ目の前で立ち止まった。
「我は以前お前に言ったな。お前は我が仕留める、その命を俗物如きにくれてやるなと。……その言葉、忘れたわけではあるまいな」
静かに問いかけてくる奴に、俺はまっすぐに視線を向ける。
確かに……奴は、初めて会った時そのようなことを言っていた。それは今でもはっきりと覚えている。
それが、一体何だと言うのだろう。
俺が訝っていると、奴は更なる質問を投げかけてきた。
「今此処でお前に問おう。お前は、今でも我が主の前に立つことを諦めてはいないか?」
「…………」
そんなのは愚問だ。今更こいつに言われるまでもない。
俺が微動だにもせずに奴の目を睨んでいると。
ふっ……と、奴は唇を笑みの形に作った。
「……良い答えだ」
右手に下げていた大剣を、ゆるりと持ち上げる。
宙を滑る、黒の軌跡。
ひゅっと風が裂け、次の瞬間、俺の口を塞いでいた鎖は二つに断たれて床に落ちていた。
「……!?」
何が起きたのか分からず、俺は丸くなった目でバルムンクを見上げた。
そんな俺の様子を見つめながら、更に信じられない言葉を奴は吐いた。
「我が力を貸してやる。お前を、此処から外へと逃がしてやろう」
続けて、大剣を振るう。
俺の手と足を拘束していた枷が破壊され、ただの金属の塊と化した。
ユーリルに折られた左腕と右足は、此処に連れて来られた時にこのままだと商品にならないからという理由で治療されている。それほど腕が良い神官ではなかったらしく負傷が完治しているわけではなかったが、走るくらいなら何とかできる。体が自由を取り戻して魔法が使えるようになれば、此処から逃げることは難しいことではなくなる。
でも……敵であるはずの魔帝の下僕たるこいつが、どうして俺を助けるような真似をするのだろう。
湧き上がった好奇心は抑えられない。俺はつい声に出して尋ねていた。
「……何で、俺を助けるような真似をするんだ。俺はあんたにとって殺さなきゃならない存在だろ」
「それに対する回答は既にしたはずだ。お前は我が仕留める……と」
大剣を下ろし、バルムンクは答えた。
「我がこの手で殺す以外の理由で死なれては興醒めだ。そうならぬために少しばかり札を切る、それだけのこと。その結果として結局お前が何処かで死んだとしたら、その時は我もお前を所詮はその程度の存在だったと見限ろう」
……つまり、奴は、自分の手で俺を仕留めたいがために俺を此処から逃がそうとしているのか?
相変わらず理解し難い思考の持ち主だ。だが、理由が何であれ俺が此処から逃げる手助けをしてくれると言うのなら、それを利用しない手はない。
乗ってやろうじゃないか。その悪魔の誘いに。
「……俺は必ず魔帝を倒す。それを邪魔するあんたも、いつかは必ずぶちのめすことになるぞ。それでもいいんだな?」
「それくらいの気概があった方が狩る獲物としては魅力がある。せいぜい、我が主の下に行くまでその心を失わぬように努めるのだな」
大剣を床に放り投げ、俺に背を向けるバルムンク。
奴の手を離れた大剣は音もなく闇の欠片となって消滅し、それに気を取られていた俺が前に視線を戻した時、奴は既に牢の外にいた。
「……今から、我が上で一騒ぎ起こす。お前はその混乱に紛れて脱出するといい。……再び捕らえられ投獄されるようなことがあれば、その時は我はお前を見限る。心しておけ」
「……分かった。覚えておく」
去っていくバルムンクに向けて、俺は笑みを向けた。
「一応礼は言っておく。ありがとな」
奴からの返事はなかった。
遠ざかり、消える足音。幾分もせずに悲鳴が上がり、地下牢の外の様子が騒がしくなる。
一体何をやって騒ぎを起こしたのかは分からないが……奴は約束通り、俺を此処から逃がすための力を貸してくれた。後は俺が、それに応えるだけだ。
俺は首に掛かったままだった『十五』の数字が刻まれた札を外して足下に捨てた。
さあ……運命を賭けた大勝負だ。必ず此処から無事に脱出してやる。
もう少しだけ、待っていてくれよ。みんな!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます