第55話 魔帝の誘い

 建物の外に出ると、そこは戦場となっていた。

 通りを徘徊している大量の虚無ホロウ。それと戦っている大勢の魔法使いたち。服装を見るに、たまたまこの場にいた旅人以外に此処で働いていた従業員たちも混ざっているらしい。流石魔法王国、住民にもそれなりに魔法を扱える力があるようである。

 と、悠長に状況を眺めている場合ではない。早いところあれらを何とかしないと。

 俺は通りに飛び出しかけて──あるものを見つけて、足を止めた。

 通りの中央。そこに、奇妙なものが浮かんでいたのだ。

 それは、黒い鎖に全身を雁字搦めに縛られた子供だった。紫色の服を身に着け、背中に派手な装飾を施した船の碇に似た形のオブジェのようなものを背負っており、目を黒い革のベルトのようなもので覆い隠している。肩口で切り揃えた髪は黒いが、光の加減によっては微妙に青くも見える。そんな姿をしている。

 その子供は、覆い隠した目でどうやってものを見ているのかは分からないが、確かに俺たちの方を見ていた。

 何だ、あの変なのは……虚無ホロウと一緒に現れたってことは、あれも魔帝の仲間か?

 ウウウ、とヴァイスが唸り声を発した。

 その金色の目は、まっすぐにあの浮かんでいる子供を睨んでいる。

 そんな、とミライが小さく息を飲んだ。

「まさか、魔帝が直接ファルティノンに攻めてくるなんて……大変ですぅ、早く、他の賢者たちに知らせないと……」

 ──え?

 今……魔帝、って言ったか?

 あれが、魔帝? ジークリンデやバルムンクを従えている、世界征服を狙ってる悪の親玉?

 あんな子供が?

 何か、俺が想像していたのと随分違うな……

 思わず子供を二度見すると、そいつは可笑しそうに笑いながら、口を開いた。

「……今、ぼくのことを子供って思ったでしょう。こんな子供が本当に魔帝なのかって。違うかい」

 男のものなのか女のものなのか分からない、中性的な声だ。体がああなので余計にどちらなのかが分からない。

 俺が反応に困っていると、特にそれに気分を害する様子もなく、奴は言葉を続けた。

「初めまして、天才魔道士君。君のことはジークリンデから話を聞いてるよ。ぼくが、魔帝ロクシュヴェルドさ。君とは一度、直接話をしてみたいと思ってたんだよね」

 ぺこっ、とふざけているようにも見える軽い会釈をこちらに寄越してきて、にこっと笑った。

 表情や態度は、まるっきり普通の子供だ。一種の人懐っこさすら感じる。

 しかし、自ら魔帝と名乗って虚無ホロウを率いてきたような奴である。そんなのが、俺たちの相手をただの会話だけで終わらせるとは全く思えない。

 いつ、攻撃を仕掛けられてもおかしくない。即座に対抗できるように、構えておかなければ。

 俺が奴を睨んでいると、魔帝は世間話を持ちかけるように話を続けた。

「是非、君の名前も聞かせてくれないかな、天才魔道士君。ぼくは名乗ったんだから、君の方からもそれくらいしてくれたって、いいよね?」

「…………」

 一瞬何かの罠かと思ったが……今のところ、魔帝が何かを仕掛けてこようとしている素振りは感じられない。

 本当はあまり向こうに情報をくれてやりたくはないのだが、既に目を付けられているのだし、名前を知られたくらいで何かが変わるわけでもない。

 俺は少し迷った後、答えた。

「……春だ。六道春」

「ロクドウハル、君か。うん……その名前、ひょっとしてだけど」

 魔帝は首をことりと傾けた。

「君は、異世界から来た人間なんじゃないかな? 誰かに召喚されて、特別な能力を持っていたから勇者として扱われている。どう、あながち間違っていないと思うけど。ぼくの予想」

 ……何だ、こいつ。何でそんなことが分かるんだ。まるで全てを何処かから覗き見ていたみたいに。

 魔帝はくすくすと笑った。

「何で分かるんだ、って思ったでしょう、今。……さて、どうしてだろうね? まあ、その答えは君の方で勝手に想像してよ」

 ……駄目だ。得体が知れなさすぎる。これ以上まともにこいつの相手をするのは危険だ。

 俺はミライを背中に庇うようにして前に出て、言った。

「……今すぐ虚無ホロウを連れて帰れ。さもないと……この場で、あんたを潰す」

 俺の啖呵にも魔帝はこれっぽっちも余裕の態度を崩すことなく、笑い続けるばかり。

「そうはいかないなぁ。ぼくは君と交渉しに来たんだから。わざわざこんな、魔法防御の結界が張られているような場所にさ。それを果たさずに帰れるわけ、ないじゃないか」

 ……交渉?

 魔帝はすぅっと音もなく空気中を滑るように宙を移動してきた。

 俺の目の前までやって来た奴は、子供がするように俺の顔を見上げて、続けた。


「ハル君。ぼくの部下になってよ。ぼくの力と君の力があれば、この世界の全てを思い通りにすることなんて造作もない。君は世界最強の魔道士の一人として、君臨することができるんだよ」


 ──とあるゲームの中に出てくる場面のひとつに、こういうものがある。

 魔王が、自分を倒しに来た勇者に対してこう言うのだ。「私の部下になれ、そうすれば世界の半分をお前にくれてやろう」と。

 もちろん勇者はその誘いに乗らずに魔王と戦い、魔王を倒して世界を救った英雄となるのだが……

 そのシチュエーションと、今のこの状況は、とてもよく似ている気がする。

 ……無論、俺はこんな誘いに乗る気はない。

 もしもこの場で魔帝の誘いに乗れば、敵がいなくなった俺はこの世界で悠々と暮らしていくことができるようになるだろう。

 だが、そんな形で手に入れた平穏なんて意味がない。そんなことまでして平穏に暮らしたいとは、思わない。

 俺は、いつかは魔帝と戦うとアルファーナと約束したのだ。

 自分で想定していたよりもずっと時期が早まってしまったが──だからといって、この状況から逃げるつもりはない。

 俺がこの世界を救ってやる、なんて大それたことを言う気はないが、男として、守らなければならないものを守るために、戦うと決めたのだ。

「絶対に悪いようにはしないよ。さあ、ぼくと一緒に来ておくれ。ぼくの国、ラルガへ」

「……お断りだ、そんなもの」

 俺は魔帝に掌を向けた。

 これは、宣戦布告の証。

 今、俺は、魔帝に対して真正面から喧嘩を売ったのだ。

「俺は悪党に堕ちてまで平穏に暮らしたいとは思ってないんでな。どんな甘言を連ねようが無駄だ」

「……そう」

 微妙にがっかりしたように、トーンの落ちた声を漏らす魔帝。

 奴はふわりと俺の頭上の高さに舞い上がると、若干の距離を置き、告げた。


「それじゃあ、仕方ないね。無理矢理連れて行くことにするよ。ぼくはどうしても、君のことが欲しいんだ」


 魔帝の周囲が暗いオーラのようなもので満たされる。

 黒と紫が混ざったような色合いのそれは、まるで意思を持っているかのように蠢きながら、幾つものある形を作り出す。

 それは、黒い色をした鎖だった。

「捕まえて、念入りにその意思と心を壊してから、使役することにしよう。欲しいのは君の力であって心ではないから、廃人になっていようが関係ない。……できることなら自分の意思でぼくに従う忠実な人間であってほしかったけれど、指先ひとつで自由に動くお人形さんを手元に置くのも、まあ乙なものだよね!」

 魔帝の叫びと同時に、鎖がじゃっとこちらに向けて放たれる!

 俺は咄嗟にミライの手を掴んで、彼女を連れてその場を駆け出した。

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