第43話 懐かしい香り漂う草
それは、まさに豚だった。
特徴的な形をした鼻。くるりと丸まった尻尾。体の肉が俺が知っている日本の豚と比較して若干引き締まっているように見えるのは、奴が家畜ではなく広大な自然界で運動をしながら暮らしている野生の獣だからだろう。毛のない猪がいたら丁度こんな感じになるかもしれない、そんな体つきをしている。
茶色と灰色が混ざり合ったような何とも微妙な色をしており、背中には模様なのか苔が生えてでもいるのか、深い緑色をした何かが世界地図のように広がっていた。
と、これだけ述べると本当に単なる豚だって思うかもしれないが、俺が絶句したのはそんなことではない。
奴は、尋常ではない大きさなのだ。
例えるなら、軽トラ──下手をしたらそれ以上はあるかもしれない。俺が持つ豚のイメージを簡単に覆すほどに、奴は巨大だった。もしもあの巨体に踏み潰されたら簡単に全身の骨も内臓も目茶苦茶になってしまうだろう、それくらいの重量感があった。
此処に薬草採集に訪れる人間がいなくなった理由が嫌でもよく分かった。
確かに、戦う術を持たない人間にこいつを何とかするのは無理だ。
森豚はしきりに鼻をひくひくと動かしながら辺りを見回している。
俺と森豚との間に開いている距離は約二十メートル。かなり離れてはいると思うが、森豚が巨大すぎるせいであまり離れている感じがしない。
もし奴が俺の存在に気付いて襲ってきたら──あの体の大きさだ。二十メートルの間隔などあっという間に詰められてしまうだろう。
幸い今はまだ俺の方に注意が向いていないので、逃げようと思えば逃げられる。逆に俺の方から魔法で狙撃することもできるだろう。
しかし、仮に俺の方から手を出して、それで仕留められなかったら……奴が怒って襲いかかってくるのは目に見えている。わざわざ危険に首を突っ込むような真似はしたくない。
やはり此処は、放置して静かにこの場を離れるのが賢明か。
俺はゆっくりと後方に後退り、森豚との距離を開いていった。
その時、強い風が吹いた。
風は俺の背後から駆け抜けるように吹いていき、森豚のいる方へと流れていった。
森豚が──耳をぴくりと動かして、ゆっくりとこちらを向く。
巨体の割につぶらな黒い瞳が、俺の姿をしっかりと捉えていた。
「……あ」
何か、やばいかも。俺が内心そう思ったと同時に。
ぶぎぃぃぃぃぃぃぃっ!!
森豚が大声で鳴いた。
それは、獲物を見つけた肉食獣が獲物に恐怖心を与えるために発する吠え声そのものであった。
鳴き声は紛れもない豚のものだし、断末魔みたいに掠れていたから迫力は今ひとつだったが。
それでも、俺を反射的にその場から駆け出させるには十分だった。
駆け出した俺を追いかけて、森豚が丘を勢い良く駆け下りてくる。
速い。本当はこいつ豚の形をしたトラックなんじゃないかと思えるくらいに速い。あんな短い足で、一体どうやったらあんなに速く走れるんだ。
俺は背後に迫りつつある肉ミサイルの存在を感じながら、前方でのんびりと薬草探しに勤しんでいる皆に向かって叫んだ。
「森豚だ! 手を貸してくれっ!」
「……ちょっと、何連れてきてるのよ!?」
ぎょっとして立ち上がり、俺の進行方向上から慌てて距離を置くフォルテ。
ユーリルも俺から距離を取りながら、それでもこの状況を何とかしようとしているのか抱えていた魔道大全集のページを懸命に捲り始める。
唯一動じた様子のないリュウガが、大口を開けて欠伸をしながらマイペースにその場に佇んでこちらを見つめていた。
「……あー、やっぱ採集系の仕事って向いてねぇみたいだわ、オレ。眠くってしょうがねぇ」
「リュウガ! こいつを何とかしてくれ!」
「おいおい……あんた、魔道士だろ? わざわざ挑発して連れて来る真似なんざしてねぇで、さっさと遠くから狙撃した方が良かったんでねぇの?」
仕方ないだろ、森豚の方が襲いかかってきたんだから。俺は面食らって思わず逃げただけだ。
リュウガはぼりぼりと後頭部を掻いて、短い溜め息をついた。
左右の腰の剣に手を掛けて、すぅっと鼻で深く息を吸い。
次の瞬間、彼は俺の視界から忽然と姿を消していた。
「ったく……おっさんってのは世話が焼ける生き物だな」
何をやったのか、一瞬にして森豚の背中の上に飛び乗ったリュウガは、足下に冷たい眼差しを向けていた。
手にした二振りの剣を、何の躊躇いもなく森豚の頭めがけて振り下ろす!
森豚の太い首が一瞬で断たれて、頭が血を纏いながら宙を舞う。
残った胴体は力を失って転倒し、転がるような形で地面を抉りながら俺の方へと一気に突っ込んできた。
「ちょっ……」
俺は咄嗟に横に跳んだ。
すぐ背後を巨大な塊が横切っていく感覚。いつかの竜型
それなりの距離を全力疾走したこともあって疲れていた俺は、跳んだ先に偶然落ちていた森豚の糞を踏んづけてしまい、足を滑らせてしまった。
頭から地面に倒れ、転がる。柔らかい土と草の地面だったのでぶつけた頭は痛くなかったが、足を滑らせた時に変な風に足首を捻ったのか微妙に右足が痛かった。まあ、糞の上に転ばなかっただけ良しとするか。
「ハル! 大丈夫!?」
避難していたフォルテがぱたぱたと駆けてくる。
俺は大丈夫だと言いながら身を起こした。
その時、俺の鼻先をふわりと特徴的な香りが掠めていった。
何だかスパイシーな……独特で、しかし懐かしい感じがする匂いだ。
……あれ、この匂いって……
俺は鼻をひくつかせながら周囲を見回して──すぐ傍に、ミルク色の丸い花を咲かせている草が生えているのを見つけた。
それを摘んで、葉っぱの匂いを嗅いで。
ああ、多分これがルミルーラ草なんだろうな、と確信を抱く。
主人が特徴的だと言っていたルミルーラ草の匂いは、俺のよく知っている匂いだった。
俺はルミルーラ草を目の前に掲げながら、呟いた。
「この匂い……カレーじゃないか」
そう。目の前のこの草が発している香りは、紛れもなくカレーと同じものだったのだ。
食欲を刺激する匂い……嗅いでると何だか腹が減ってくるな。
「カレー?」
カレーを知らないフォルテが小首を傾げている。
カレーが何なのか分からないなんて、この世界の人間は損してるな。あれほど手軽で美味い料理はないと思うのだが。
まあ、この世界にはカレー粉なんてないしな。無理もない。
近いうちに、妖異の肉を使って作ってやろう。カレーは大人も子供も好きな料理だし、日本にいた頃に散々食べてきたであろうリュウガもきっと喜んでくれるだろう。
ともあれ。目的のルミルーラ草がどんな草なのかこれではっきりと分かったことだし、皆で手分けして探せば目標の量を集めるのにそこまでの苦労はしないはずだ。
森豚も無事に(リュウガが)駆除したことだし、安全に採集作業に集中することができるだろう。
さあ。気を取り直して仕事を再開しよう。
俺は立ち上がって、持っていた麻袋の中に摘んだばかりのルミルーラ草を放り込んだ。
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