三十路の魔法使い

高柳神羅

プロローグ

第1話 男は三十路で魔法使いになる

「ごめんなさい……私、恋人がいるの」


 俺の言葉に、彼女は微笑みながらそう言った。

 綺麗な夜景が見える一流ホテルのお洒落なレストラン。目の前のテーブルの上に載っているのは、ちょっと奮発して注文したフルコースを食べ終えて最後に運ばれてきた宝石みたいな色のゼリーのデザート。

 ゆったりとした音楽が、二人の間に横たわる沈黙を運んでいく。

「会社の人には内緒にしてるけど……八年。付き合ってきた大事な人なの」

 ゼリーにスプーンを入れてひと掬い。

 それを口へと運びながら、彼女ははっきりと告げるのだった。

「だから……六道君の気持ちには応えられないわ」


 俺、六道ろくどうはる。三十歳。三十路になって挑んだ人生初の告白は、

 相手からの残酷な言葉によって露と消えたのだった。


「……くそぉ……」

 誰も歩いていない閑静な住宅街。

 街灯に頼りなく照らされた道を歩きながら、俺はぶつぶつと呟いていた。

 右手には中身が半分ほど減った缶ビール。左手には空になったビールの空き缶を詰めたコンビニの袋。

 歩く度に袋の中でかつんかつんとぶつかって音を立てるそれらをうるさいと心の片隅で思いながら、ビールをぐいっと呷って溜め息をつく。

「恋人がいるなら最初から言えよな……」

 愚痴ったところで状況が変わるわけでも何でもないのだが。アルコールが入っていることもあって、余計に言わずにはいられなくなっていた。

「会社で俺に見せてたあの笑顔は何だったんだよ! 絶対いけるって思ってたのに! 畜生……」

 伊藤由香里。俺が所属する部署の部長で、俺の上司に当たる。同い年だがとてもそうは思えない童顔と抜群のプロポーションの持ち主で、笑顔が可愛いと評判の会社のアイドルだ。

 俺は長いこと、彼女に恋をしていた。

 彼女の方も、よく俺を昼食に誘ってくれたり笑いかけてくれたりと、俺に対して色々とモーションを起こしてくれていた。

 これは絶対に向こうも俺に気がある。そう思って、俺は思い切って彼女をデートに誘った。

 巷で話題の映画を見て、街を散策して、彼女に内緒で予約したレストランで食事を楽しんで。

 気持ちが高まって雰囲気も出来上がって、告白するなら今しかないと思って彼女に言ったのだ。

 俺と、結婚を前提にお付き合いしてくれませんか、と。

 彼女は笑いながらありがとうと言った。

 これは──脈ありか? 俺がそう確信を抱いた、その矢先だった。

 彼女が、自分には八年付き合っている恋人がいると言ったのは。

 後頭部をハンマーで思い切り殴られたような衝撃だった。

 それから──彼女と何を話したのかは覚えていない。

 レストランを出て彼女と別れ、一人になった俺は、コンビニに駆け込んで大量の缶ビールを買い込んだ。

 自棄酒である。

 居酒屋に転がり込んでも良かったのだが、そこで仲良さそうに酒を楽しんでいるカップルなんかを見た日には気持ちがささくれそうだったので、やめたのだ。

 それに、明日は仕事だし……記憶がぶっ飛ぶほど飲んで道端で居眠りするのだけは避けたかったからな。

「……俺の純粋な想いを返せよ……」

 残ったビールを一気に飲み干して、袋に乱暴に空き缶を突っ込む。

 がさっと音が鳴り、それに驚いたのか傍の塀の上にいた猫が逃げていった。模様のコントラストがはっきりとした三毛猫だ。

 確か、三毛猫って殆どが雌で、雄って滅多にいないんだよな……と、どうでもいい雑学を独りごちる。

 俺が三毛猫の雄みたいに希少価値の高い男だったら、彼女も少しは俺とのことを悩んでくれたのだろうか。

 と。

 道の真ん中に巨大な水溜まりがあるのを見つけて、俺は足を止めた。

 今日は雨など降らなかったはずだが……誰かが水でも撒いたのだろうか。

 驚くことに、その水溜まりは凍っていた。

 今は春、桜もすっかり散った後の深緑の季節だ。夜に多少冷えたりする日はあるが、水が凍るほど寒くなることはまずない。

 まるで、誰かが魔法を掛けたかのようだ。

 誰かが言っていた。男は三十まで童貞を貫くと魔法使いになれるらしい、と。

 いっそのこと本当に魔法使いになれたら、この平凡な人生も少しは面白おかしく過ごせるようになるのに。

 俺は何だか苛立ちを覚えて、水溜まりに張った氷を思い切り踏み砕いた。

 分厚い氷はばりんと砕けて、蜘蛛の巣状の罅割れが広がった。

 その時だった。急に意識がぐらりと揺れて、渦を巻くように遠のいていったのは。

 ……あれ、そんなに飲んだつもりはないんだけどな……

 つい、ビニール袋の中の空き缶に視線を落とし──

 そのまま、俺は眠りに落ちるように意識を失った。


 どのくらい眠っていたのか、それは分からない。

 気が付いた時、俺は見覚えのない場所に立っていた。

 何処までも広い、平坦な空間。足下には大理石だろうか、高級そうな石で造られた床が広がっていた。壁や天井はなく、頭上には綿菓子のような雲が幾つも浮かんだ黄金色の空が広がっている。

 そして、目の前には。

 円形の舞台のような段差があり、その中央に箱舟のような形の白い石のオブジェが誂えられていた。

 オブジェには、一人の女が腰掛けている。淡いアクアマリンブルーのマーメイドドレスに身を包んだ長い金髪の女だ。整った顔立ちをしており、胸は大きい。好みではないが……まあ美人だと思える女である。

 女は顔ほどもある大きさのワイングラスを傾けて、何かを飲んでいた。

 辺りに漂っている甘い匂いが、俺の鼻を刺激する。

 この匂い……酒か?

 ワインとも、ビールとも、ブランデーとも違う。今までに嗅いだことのない、何か色々なものが混ざったような複雑なアルコールの匂いだ。

 その匂いの出所は……おそらく、彼女の周囲に転がっているものだろう。

 巨大な酒樽が幾つも転がっていた。どれも栓が開いており、見た感じ中身は空っぽのようだ。

 あれだけの量を一人で飲んだのか? 明らかに彼女の体の体積を超えていると思うのだが。

 俺が唖然としていると、彼女は俺の存在に気付いたようで、ちらりと目をこちらに向けてきた。

「……何か用?」

 相手をするのも面倒臭い。そんなニュアンスを彼女の言葉から感じた。

 何の用かと言われてもな……俺の方が訊きたいくらいだ。何で俺はこんなところにいるのか。此処は何処なのか。

 俺が黙っていると、彼女はワイングラスを傾けながら空いている方の手をしっしっと振ってきた。

「用がないなら出ていってちょうだい。私は今忙しいの」

「……来たくて来たわけじゃない。いつの間にか此処にいたんだよ」

 俺は辺りを見回しながら、言った。

 此処に来る前に持っていたはずの空き缶がいつの間にかなくなっていることに、今更ながらに気が付いた。

「此処は、何処なんだ? あんたは誰なんだ?」

 俺の質問に、彼女は微妙に眉根を寄せる表情をして。

 ワイングラスを口から離し、答えた。

「此処は神界。私はアルカディア、この世界ツウェンドゥスを管理している神の一人よ」

 女神? ツウェンドゥス?

 俺は夢でも見ているのだろうか。

「貴方は……この世界の人間じゃないわね。大方、誰かに召喚されて此処に来たんでしょうけど……また随分年寄りなのが来たものね。私だったらもっと若くて可愛い子を選ぶわよ」

 年寄りって失礼な。俺は断じておっさんじゃないぞ。

 三十はまだ若い。やろうと思えば何だってできる歳だ。

 確かに俺はちょっとビールの飲みすぎで腹がたるんでるけど……その気になれば市民マラソンに出ることだってできるんだからな。

「まあ、召喚されちゃったものは仕方がないわよね。さっさと召喚主のところに行って働きなさい。此処に居座られても迷惑だから」

 言って、アルカディアは酒を飲み始めた。

 どれだけ俺を此処から追い出したいんだ、この女神は。

 ビールで酔っている頭が、可能な限り懸命に稼動してこの状況のことを考えた。

 おそらく、これは……異世界転移というやつだ。最近流行りのネット小説なんかで読んだことがある。

 日本に住んでいた何の変哲もない人間がある日突然別の世界に召喚されて、そこで特別な力を授かった勇者となって暮らしていく、そういう話である。

 小説の中だけの話だと思ってたのに……実際に起きるものなんだな。びっくりだ。

 ということは……俺は、この世界で勇者になるのか?

 剣を持って魔物と戦ったり、魔法を使えるようになっちゃったりするのか?

 ちょっぴり期待を込めた眼差しをアルカディアに向けると、彼女はまだいたのとでも言いたげな目をこちらに向けてきた。

「何よ。まだ何か用?」

「何って……あんた、神なんだろ? 何かこう、俺に特別な力を授けてくれたりするんじゃないのか?」

「貴方を召喚したのは私じゃないもの」

 彼女はしれっと言って、ワイングラスの中身をくいっと飲み干した。

 空になったワイングラスを無造作に宙に放り投げると、それは勝手に転がっている酒樽の方まで飛んでいって新しい中身を注ぎ始めた。

「私は人が召喚したものの面倒まで見る気はないわ。そんなことをしてたらきりがないもの」

「じゃあ何で俺は召喚した本人でもないあんたのところにいるんだよ」

「さあ。召喚主の召喚魔法がへっぽこだったんじゃない?」

 新しい中身で満たされたワイングラスを手に取って、彼女は無造作に俺の背後を指差した。

「そっちに行けば此処から出られるわよ。そうしたら多分下界に下りられるから。後は勝手にやってちょうだい」

 指差された方につられて振り返ると──そこには、白い靄のようなものが立ち込めていた。

 どうやらあの靄の先に、出口があるらしい。

 アルカディアは俺のことを相手にしていないみたいだし、俺の方も彼女が何もしてくれないのなら此処に留まる理由はない。

 でも……何の予備知識もない状態で見知らぬ土地に下りるのは、気が引ける。

 俺、スーツ姿のままだし。持ち物なくなってるし。これで危険かもしれない場所を一人で歩くのは……

 俺が考え込んでいると、ああもうと彼女は呆れた声を出した。

「分かったわよ、特別に魔力と魔法の知識を与えてあげるから! それを使って後は自分で何とかしなさい」

 何か力を授けてくれた。

 魔力と、魔法の知識……か。俺が期待していた世界最強の勇者の力とはちょっと違うが、魔法が使えるようになったというのは素直に嬉しい。

 俺、三十路になって本当に魔法使いになっちゃったよ。

「ほら、力を与えてあげたんだから此処にはもう用はないでしょ? さっさと此処から出ていってちょうだい。私の晩酌の邪魔をしないで!」

 さあ早く、とせっつくアルカディア。

 これ以上は、俺から何を尋ねても答えてくれそうにない。

 まあ、魔法が使えるようになったんだから自分の身を守ることくらいはできるだろう。

 覚悟を決めて、行こう。新しい世界に。

 俺は意を決して、背後に広がる白い靄の中に足を踏み入れた。


 視界が開けた。

 神界を抜け出た俺は、広大な森が周囲に広がる道の傍らに立っていた。

 足下には、墨か何かで描いたような真っ黒な魔法陣がある。

 そして、目の前には驚愕で腰を抜かした一人の女の姿が。

 その顔を見て、俺は思わず目を丸くした。

「!……あんた」

 思わず、呼びかける。

 俺は、まだ夢を見ているのだろうか。

 目の前のその女の顔は──伊藤由香里と瓜二つだったのだ。

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