1章8話

 異世界の街へ辿り着いて一ヶ月が経過しました。ここでの生活習慣も出来上がりつつあり、私は正午からの日課としている日向ぼっこの真っ最中です。場所は街の大通り沿いにある広場で、人々の賑やかな声を聞きながら過ごすのが最近の楽しみになりました。そうそう、この街の名前は迷宮都市ローマンというらしいです。


 ローマンに辿り着いた時分は、これからどうやって生活しましょうと回らぬ頭を悩ませました。しかし幸運にも高値で売れる物を持っており、暫くは不自由なく暮らせる見込みが立っております。私はあの時のことを今でもたまに思い出し、しばしば微笑みを漏らさずにはおれません。


「まずは現金を作らないとな。どこかの店で持ち物でも売ろうぜ」

「持ち物と言っても私は手押し車とヤカンくらいしかないのだけれど」

「ふふん、相田さんには一ミリも期待してないぜ。俺に任せとけって」


 通り沿いに並ぶ巨大な滑り台のような長屋の中に、衣服や日用品を売っていると思しき店舗がありました。翔くんは自信に満ちた顔でそちらへ足を運びます。きっと何か高値で売れる物を身につけているのでしょう。本当に彼は頼りになります。


「こんちは。ここって買い取りもしてくれるのか」

「ええ、中古品の買い取りもやっておりますよ」


 愛想の良さそうな年配の女性が対応してくれました。


「このスペシャルな最先端アイテムを買い取ってほしい」


 そう言って翔くんが取り出したのは携帯電話でした。なるほど、あれなら見るからに高そうだし最新鋭の技術が詰まっているのできっと高値で売れますね。私は翔くんの英断に我がことのような誇らしさを感じずにはいられませんでした。


「これは何でしょうか」

「スマホに決まってるだろ、しかも最新モデルだぜ」

「見たことのない物ですが何をする道具なのでしょうか」

「離れた相手と通信できるんだ、しかも情報検索も思いのまま。ここをこうやって……あれっ、ネットに繋がらない。じゃあ通話だ、このマークをタップしてこうフリックしてだな……圏外ってなんだよ」

「申し訳ありませんが、使い道がないのであれば買い取りはできません」

「だろうな……」


 それまで自信満々だった翔くんの顔が一気に沈んでしまいました。私も携帯電話なら高く売れると思っていただけに残念でなりません。こんな時、タンスにしまってあった真珠のネックレスでもあれば良かったのですが。あれは確か十回目の結婚記念日に主人が贈ってくれた高級品で、私の宝物でもあります。頂いた時は普段ぶっきらぼうな主人の心遣いに涙が溢れました。添い遂げられて本当に良かったと今でも思っております。そう言えば手押し車の中に……。


 ローマンの通貨単位はギンと言うらしく、一ギンが日本円の百円相当だと後で知りました。手押し車の収納スペースに入っていた絹のハンケチと懐中時計が高値で売れ、合計六千ギンもの大金が手に入ったのです。

 一緒に飴も入っていたのですが、それは買い取りを拒否されました。熱で溶けて内紙にひっついてはいましたが、まだ食用には耐えうると思ったのですけれど。


「いつの飴なんだよ」

「主人が亡くなる以前からの物だから十年くらい前ね、でもまだ食べられると思うわ」

「何だよその三秒ルールならぬ三億秒ルールは……」


 と、呆れた顔をしながら即座に返してきた彼の素晴らしい計算力に感嘆したのも良い思い出です。


 それから宿泊可能な施設を見つけ、本日までつつがなく生活しております。翔くんはさすがの行動力を発揮して、街に着いた翌日には建築現場の仕事を見つけておりました。一日二十ギンほどの稼ぎのうち、半分の十ギンを毎夜こっそり手押し車の中に入れているのがとても微笑ましいです。気づいていないふりをいつまで続けようかしら。


 そんなことをこっくりこっくりしながら考えておりますと、老年の男性に声をかけられました。


「見かけない御婦人ですが、お隣りにお邪魔しても宜しいですかな」


 最近知り合ったゼペットさんです。ここ一ヶ月間ほぼ毎日お会いしてお話ししているのですが、彼は未だに私のことを覚えてくれません。白いおヒゲをたっぷりと蓄えた方で、何でも昔はそれなりに有名な大魔導師だったのだとか。大魔導師なんてお伽噺の中でしか聞いたことのない名称でしたので、最初は少し面食らいました。


「おじいちゃん、仲良くして下さってるルリコさんよ。忘れちゃダメじゃない」

「ルリコは去年亡くなったはずじゃが」

「それは向かいのマルコさんでしょ。しかも亡くなったのは十年前だし女性でもないわ」


 いつもゼペットさんを連れてこられる、お孫さんのフェルさんが私に会釈してきます。彼女は正午過ぎのこの時間にゼペットさんを広場まで連れてきて、夕方近くになると迎えに来られるのです。何でも近くのパン屋で働いておられるのだとか。


「いえいえ良いのですよ。私達くらいになると、物覚えも悪くなるのは当然だもの」


 そんな他愛もない短い会話をしながらゼペットさんに麦茶を入れてあげるのも、生活習慣の一部となりつつあるのです。

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