1章2話
自分が死んだことはなぜか自覚できました。死後は意識が霧散すると聞いていましたが、あれは間違いだったのですね。ただ自覚はしていましたが頭に霞がかかったような感覚で、色々と考えることはできませんでした。
その中でどなたかに「貴女は今、何を望むのか」と聞かれたので私は「健康」と答えたような気がします。
風に揺られた下草が脛の辺りを撫で、そのこそばゆさで目を醒ましました。周囲に見えるのは木々と草花、そして片手に長いバールを持って大の字で寝ている若者。私はといえば、この森の中にぽっかり開いたような場所の中心で手押し車に手をかけて立っていました。荷台のヤカンは表面に汗を浮かばせ、中の麦茶が飲み頃なのを教えてくれています。死後の世界は想像していた天国ではありませんでしたが、少なくとも冷えた麦茶は飲めそうですね。
「うぅ……」と小さな呻き声を上げて若者が目を覚ましました。彼のことは何も知りませんが、ここにいるのであれば私と同じくお亡くなりになったのでしょう。見たところまだ十代か二十代の若さなので、ご家族の方はさぞ悲しまれておられることと思います。
「あーなんだ? 俺は潰されたんじゃ……救急車は……ここは……」
「こんにちは、貴方も大変な目に遭ったようね。ひとまず麦茶でもどうかしら」
買い物袋の中から紙コップを取り出しヤカンの麦茶を注ぎ、若者に勧めてみました。「あ、ども……」とまだ混乱しているような素振りで紙コップを受け取った若者は、何の躊躇いもなく麦茶を飲み干しました。
「うはぁ、キンキンに冷えてて美味いわ。ばあさん、ありがとな」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。それよりも貴方、今の状況を解ってるの?」
「あーまぁ、あれだ。俺は死んでまた生き返ったって感じか」
生き返った。そうかも知れません。死後の世界だとばかり思っていたので、生き返りの発想はありませんでした。お迎えがいつきても可笑しくない八十ババアとまだまだ生の輝きに満ちている若者とでは、物の見方が違うのでしょう。
「それにしてもここは一体どこなんだ。確かに現場はクソ田舎だったが、ここまでじゃなかった。これだとまるで森の中みたいだ」
「みたい、じゃなくて森の中だと思うわよ。私の幼い頃にはこんな森や林が沢山あってよくみんなで遊んだもの」
裏山や林で遊んだ懐かしい記憶が蘇ります。戦時中の爆撃で裏山は燃え、林は薙ぎ倒されてしまいましたが、想い出の中にはいつまでも残り続けているものなのですね。あの頃はどれだけ駆け回っても疲れなかったのに、今では少し歩くのにも一苦労。リュウマチを患ってからは痛み止めを飲まないと身体を動かせないし、動いていなくとも少し痛みが……そういえば痛みを感じません。それにいつもより音がはっきり聞こえます。メガネのピントもよく合っているし、本態性振戦(自分の意思に反して手足が震える一種の運動障害)もなくなっているような気がします。
「参ったな。しかも仲間は、ばあさんだけかよ」
あら、私を仲間だと思ってくれているのね。ブツブツ言いながら何かを考えている様子の若者を横目に、私はヤカンを地面に置いて手押し車の荷台に腰掛けました。この手押し車は荷台部分が座れるようになっているだけではなく、そこを開ければちょっとした小物を収納できるスペースがある優れもの。主人が使っていた時はそこに軍手やらタオルを入れていました。
「ばあさんだけ椅子持ち込みかよ。ずるいな」
「老人は疲れやすいのよ。生き返らせて下さった方が何者かは知らないけれど、労りの精神を持っている方のようで助かったわ」
若者はむくれた顔をしているものの、それが本心ではなく私を気遣っての会話なのだということが読み取れました。長く生きているとそれなりに人様が何を考えているのかを解るようになるのです。それをいちいち指摘するのも可愛げがないので、普段は解らないふりをしていますけれど。だって鋭い老人なんて嫌われてしまうでしょう?
「とりあえず今は俺とばあさんがパーティだから、お互いの自己紹介をするべきだと思うんだ」
「そうね。私は相田るり子、見ての通りおばあちゃんだけど気持ちはまだ四十代よ。パーティには出かけたことがないわ」
「その歳でパーティ組んだことがあったら逆に驚きだぜ。というかそこは十代とか二十代じゃないのかよ」
パーティなんてお金持ちの贅沢ですからね。それに十代や二十代の気持ちになるには枯れ過ぎていると思うのです。
「俺は伊川翔、歳は十九で建築現場のバイトをしていた。その最中に上から鉄骨が落ちてきて死んだらしいんだが、気がつけばここにいたって感じだ」
生前最後に見たあの血だまりは翔くんのものだったのでしょうか。思い出したら身体が震えてきました。
「大丈夫かよ、顔が強張ってるぜ」
「ええ、平気よ、ありがとうね。嫌なことを思い出してしまって」
「まあ生きていれば色々あるからな」
翔くんの言い回しに少しクスッとなってしまいました。十九歳の色々って何なのでしょう。でもそのおかげで少し気分が軽くなったので感謝しなくては。
「じゃあ相田さん、そろそろ移動しようぜ。こんな場所にいても仕方ないからな」
「それは同感ね。でもどこに向かえば良いのかしら」
「適当に歩いてたら人里くらい見つかるだろ。もし見つからなきゃクソゲーだぜ」
クソゲーって何なのでしょうか。言葉のニュアンスからあまり良い物だとは思えませんが。犬のふぐりなんて名前の草もあることだし、雑草の一種かも知れませんね。そこから転じて、取るに足らない物やどうしようもない物なんて意味で使われる若者言葉なのかしら。若い人が一緒だと考えさせられることも多いけど、新鮮な風も感じられるから素敵ですね。
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