4章

第46話

「いやだから、レジスタってっ何? そこからして不明だわ」

「これ前も言ったでしょ? CPUの中にある記憶装置」

「それがさ、記憶装置っていっぱいあるじゃん。メモリ? とか。そんないらなくない?」

「いるの! 計算の結果とか計算がどこまで進んだとかを保存しておく。演算装置とくっついてて、高速にアクセスできる。メモリはCPUの外で、アクセスは遅い。だけどその分大容量だから、コードやデータは主にこっちに保存しておく。メモリ空間はヒープとスタック、ほかに……」

「いやまた新しいの出てきた。そこさ、出す言葉、もっとこう、必要なとこだけにしてよ」

「できるか! コンピューターってのは全部人が作ったものなんだから、全部の動きに理由があるの! 一つ一つ追えばわかるんだって、そうやってわかんないとこをごちゃっとしたままにしておくからできないんでしょうが」

「これ全部追うとか無理すぎ、どこのスパルタ監督だよ」


 優とゆあんのわあわあという声が響いている。しかしその声がまったく耳に入らない様子で、里々は問題に集中していた。癖なのか、画面を見つめながら髪の毛を指でくるくると弄んでいる。


 今週から、学校は夏休みに入った。先週などは、試験も終わり休みまであと何日という状態で、学校全体が何だか浮ついていた。かえって休みに入った今のほうが落ち着いている。部活や三年生の補習があるので、数は少ないけれども校舎のそこここには人の気配がしていた。


 九月のAJSECを目標として、週に二回学校に集まる。先週の部活でそう決め、今日は夏休みに入って二回目の活動だった。週に二回としたわけは、普段より活動時間が多いということが理由だが、それにみんな夏の予定があるだろうし、と桃は付け加えた。二海の夏の予定は、他にはお盆の墓参りくらいだったのだが、そのことは桃にも言わないでおいた。それに里々や優は夏休み前も毎日来ているわけではなかったから、このくらいのほうがちょうどいいのかもしれないと二海も思った。


 こうやって休み中に来てみると、普段とは色々勝手が違った。普段使っている校門が閉ざされていて、塀にそってぐるりと回ったところの小さな門からでないと入れないようになっていた。朝からずっと問題に向かっていると、昼ごはんを食べた少し後にものすごく眠くなる。学校が閉まるのも五時といつもより早く、その時間に外に出るとものすごく暑い。かあっとする日差しに、むわりと湿度の高い空気が絡みつく。信号待ちの時は、みんなあらそって日陰に入ろうとした。


「どうしたの?」


 どこを見るでもなく眺めていた二海は、桃の声で我に返った。


「あ、ちょっと……一個終わったから少しぼーっとしちゃってた」

「あー、わかる。じゃあ、飲み物買いに行かない?」

「行くー」

「あ、私も!」


 里々が振り向いて言った。


 夏休み中、食堂はずっと締まっているが、購買の自動販売機だけは動いている。缶の冷たさを手のひらで楽しみながら、三人は廊下を歩いた。一歩一歩をゆったりとした足取りで運んだ。


「里々さん、さっきまで何してました?」と歩きながら二海はたずねた。

「あのねー、RSA暗号ってやつ」

「素数を二つ掛け合わせてつくった鍵で暗号化するんですよね」と桃が言う。

「そうそう。たぶん手じゃぜったいとけないんだけど、ほら前にやったPythonのやつあるでしょ、あれ使って計算したら解けそうかなーと思って」

「え、使えるようになるの早!」


 二海はまだPythonを使いこなせるところまではいっていなかった。前にすこしかじったPHPとまぜこぜにした書き方をして、すぐエラーを出してしまう。


「調べながらだけどねー。でも、あのPythonのやつ、けっこうよかったじゃない?」

「うん、英語は難しかったけど、でもなれてくるとだんだん意味わかるようになった。使われる単語が決まってたのもあるかもしれないですけど」

「それもあるけどさ」と里々は続けた。「あの、自分の担当の箇所を訳して話すってところもよかったなーと思う。何ていうか、人に話さなきゃいけないってなると、ちゃんとわかってないと話せないなーと思って。自分の中で整理できるかんじで」

「あー。確かにあるかもですね」


 と桃は相槌を打った。


「だからさー、思ったんだけど、今ってそれぞれ自分の担当のとこの問題やってみてるじゃない? まあ他の人に聞いたりはするけど、基本自分一人でやってるじゃない。それをさー、発表ってほどでもないけど、みんなの前で話すような時間をつくったらいいんじゃないかな。そしたら他の人がなにやってるかわかるし、自分でも理解が深まると思うし」


 う、と二海はおじけづいた。人の前で話す、というのは、この少人数であっても二海には苦手なことだった。前のPython講座のときだって、自分の番の日は朝から気が重かったのだ。


 しかし桃は違うようだった。「それ、いいですね! やりましょ!」と即答した。コンピューター室に戻り、プルトップを開ける前にゆあんと優の間に割って入り、「じゃあ、四時からその共有の時間ってことで」と話をまとめてしまった。二海の『う、』が口をはさめるような状況ではなかった。


 スケジュールを決めた後も、桃はゆあんに少し捕まっていた。スタックがどう、バッファがどうという話が聞こえてきたので、さきほどの話の続きらしい。コンピューター室の中は飲食禁止だから、二海と里々はドアを開けて外で待っていたのだが、話はなかなか終わらなそうだった。


「先飲んじゃってようか」


 と、里々はコンピューター室から廊下に出るまでの間にある、壁に据えて置かれたベンチに腰をかけた。二海もドアをおさえていた手を話し、横に座る。


「二海ちゃんってさあ」

「ん、は、はい」


 グレープフルーツジュースを飲んでいた二海は、話しかけられて缶を置いた。


「あーいう、パソコンとかもともと好きだったの?」

「えっと。いや、そこまででも……ないです」

「えーじゃあ、罠に引っかかってそれで始めたってこと?」

「そう、ですね」

「で、それからずーとやってる?」

「はい」

「じゃあ、今はけっこうハマってるってこと?」

「えーと……」二海は一瞬答えに困った。「ハマってるっていうか、うーん……」


「私はさあ」と、二海の答えを待たずに里々が話し始めた。「この前、クラス分けの紙出して」

「クラス分けの紙?」

「あの、二年だとあるのよ。文系と理系と分けるだけだけど。『私立文系』とかいくつか選んで、それで受ける授業違ってくるの」

「あ、そういうのがあるんですね」

「そー。で、『国立理系』のコースにしたんだけど、別に考えがあってっていうよりは、古文より数学のほうがやりやすいから選んだだけなのね」

「そうですか」


 里々の話がどこにいくのかわからず、二海は小さな声で答えた。


「でもさー、たとえばCTFクラブの子だったら、パソコン系の、パソコン系とは言わないのかな? なんだろ? パソコン系って変だよね?」

「そうですね……えーと……情報系、とか?」

「あー、それっぽい! さすが! その、情報系にさ、しぼっていくのかなーと思ってさ。そういうのは何かいいよなーと思って」

「でも、里々さんは数学すごいんじゃないですっけ。そっちのほうは……」

「いやそれがさー、私もちょっと調べたんだけどさ、数学を大学でやるってのは、ほんとやばい人がやるものっぽいのね」

「やばい?」

「やばいっていうか、数学星人みたいな人がやるものみたいなの。私地球人だからさ、そっちにはいく資格がないんじゃないかなあって」


 数学星人。二海にはその意味が何となくわかった。頭のてっぺんから足の先まで、数学で満ち満ちているような人。


「あー……」

「難しいよねえ」


 里々は、自分のカルピスソーダを飲みかけのまま持っていた。


「あのー。さっきの話なんですけど、ハマってるってやつ、あの、私もわかんないんですよね。ハマってるのかが」

「え、そうなの?」

「そうなんです。私はこの前始めたばっかで、まだ知らないことたくさんあるし、それに……コンピューター星人ではないような気がするんです。そういう人って、もっと前から自分でやり始めるんでしょうし。でも……こうやって夏休みに部活したり、知らないことを覚えたり、解けなかった問題が解けるようになるのは……好きです」


 自分のしゃべったことを、二海は自分でも今まで知らなかったような気がした。話しているうちに、どこからかするっと出てきた言葉だった。


「そうかあ。それは……好きなのはいいことだ。そうだね……地球人は地球人なりのやり方があるもんな」


 そう言うと、里々は残っていたカルピスソーダをごくごく飲んだ。照明のついていない廊下でも、夏の日差しはどこからか差し込んできていて、カルピスソーダの水玉の缶がにぶく光った。

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