2章
第14話
その日から、二海は学校のある日は毎日放課後にコンピューター室へ通うようになった。だんだんUbuntuやWiresharkの使い方にも慣れてきて、FTP、SMTP、telnetといったプロトコルの名前とその使われ方も覚えた。『ファンダメンタルTCP/IP』や『初めてのパケット解析』を読みながら、テキストファイルに隠されたフラグを取得するとか、メールでやりとりされているパスワードを使って暗号化されたファイルを復号するとかの問題を解けるようになってきた。放課後だけでは時間が足りないものもあったが、家に帰ってからも続きに取り組んでいると、十一時ころになってふっと解けるようなこともあった。
学校の行き帰りや、授業の間の休み、それに昼休みの余った時間などは借りた本を読むことに費やした。CTFに使う本はどれも重く、特に電車の中では腕が疲れてしまったが、それでも二海は読むのをやめなかった。何しろ読まなければいけないページは山ほどあるのに、放課後や家にいる時間は問題を解くのに使っているので、少しでもまとまった時間があれば読書に当てたかったのだ。
それに、何かやるべきことがあるというのは、心の落ち着くことだった。今まで学校にいる間、どうしても胸の奥がざわつき、息が苦しかったのに、本を読んだり昨日解けなかった問題のことを考えたりしていると、そういう苦しさを忘れることができた。
『ファンダメンタルTCP/IP』の第三章を読み終えた休み時間、ふと顔を上げると、教室の窓が少し開いていて、白いカーテンがぱたぱたと風に揺れていた。あ、と二海は思った。吹き込んでくる風と、カーテンの白が、そのまま二海の中に入ってきたのだった。
CTFをやり始めて一週間経ったころ、いつものように二海が放課後コンピューター室に行くと、めずらしくゆあんだけがいた。ゆあんはいつものように壁際の席に座り、足を別の椅子に乗せ、ヘッドホンを着け、ノートパソコンをスカートの上に置いてキーボードを叩いていた。黒くて分厚いノートパソコンの背面には、タコと猫が混ざったようなキャラクターや、英語のロゴ、赤いマークなど色々な種類のステッカーがべたべたと貼ってあった。地の部分の面積のほうが少ないくらいだった。
ゆあんは二海の姿を認めると、片手をひらひらと上げた。二海もあいまいに手を上げて挨拶したが、ゆあんがすぐ視線を画面に戻したので、そそくさと自分のいつもの席についてノートパソコンを取り出した。
二海は昨日の続きの、『Super User』という問題を解き始めた。これはログイン用のIDとパスワードの入力フォームだけのページが表示されていて、そこからどうにかしてフラグを探すというものだった。前に一度見たことがあり、そのときは解き方も知らなかったのだが、今回はうまくやってやろうと意気込んでいた。しかし、今のところ調子ははかばかしくなかった。よくありそうな組み合わせ、例えば『user』と『password』を入力してみたり、ブラウザのデベロッパー・ツールを使ってHTTPリクエストやレスポンスの内容を確認してみたりしているものの、手がかりすらつかめていない。二海はURLに当て推量のパラメーターを追加してみたり、いくつものIDとパスワードの組み合わせを試してみたりしていたが、どうもこのやり方では望みがなさそうだった。
「ああーあー」
大きな声に驚いてそちらを向くと、ゆあんがぐうっと伸びをしているところだった。ゆあんは既に制服を夏服にしていて、白い半袖から細い腕が天井に向かって伸びていた。
ゆあんはしばらく伸びをした後、ヘッドホンを外して立ち上がった。そしてすたすた歩いて二海の前にくると、「どう?」と言いながら机に腰かけた。
「どう……いや……」
「こっちは今めんどくさい問題解いた。あー、疲れたあ」
ゆあんはぐるぐると首を回し、肩を回した。関節の鳴る音がする。
「あ……飴いる?」
「あ、いーの? ありがとー」
二海は鞄から急いで飴の袋を取り出した。前に買ってから出す機会を逃し、ずっと持ち歩いていたので、外側の袋がすこしぐちゃりとなっていた。なので二海は外袋を破り、個包装の飴だけを掴んでゆあんに渡した。
「ああーあ。libcのアドレス取るのにだいぶ時間かかっちゃったよ。ヒープアドレスわかってたのにさ、バカなことした」
そう言いながら、ゆあんは緑の飴を口に入れた。難しい問題を解いた後、誰かと話したくなる気持ちは二海にもわかった。ゆあんが話している内容はさっぱりわからなかったけれども。
「……三石さんって、どうしてこのクラブに入ったの?」
この機会にと、二海は前から聞きたかったことをたずねてみた。自分の時のように桃のほうから誘ったのではないかとは推測できたし、ゆあんの造詣の深さを見ると、昔からコンピューターに親しんでいたことはわかった。しかしそのあいだあいだにわからない部分があり、一度確認したかったのだった。
「あー、桃から聞いてない? 私、あれに騙されたのよ」
「え?」
自分でも飴を口に入れていた二海は、驚いた拍子にそれを落としてしまいそうになった。
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