ハッカーとチョコレート

鶴見トイ

1章

第1話

 自分には正解を導き出す能力が無い。そう元井二海ふたみは思っていた。思っていたというよりも、確信していたというほうがより正確だった。


 例えば今日の朝。二海は同じクラスの加川冴香に話しかけられた。


「元井さん、襟折れてるよ」


 そう言って、冴香は二海のセーラー服の襟を直した。正解は、


『えーありがとう。てか学校までこれで来てたよ、恥ずかしすぎる』


 のように明るく返すこと。別解(一)は、


『あれ、ありがと。風のせいだ、今日風すごくなかった? 坂のとこ歩いてる時さ……』


 と別の話にスムーズにつなぐこと。他にもいくつも、数え切れないくらいの解法がある。


 しかし二海ができたのは、


「あ、ありがと……」


 と覇気無く、小さく言うことだけだった。その後に言う言葉も思いつかず、その思いつかないことに焦り、逃げるようにして冴香から離れ、自分の席に座った。冴香はその後すぐ他のクラスメートに話しかけられ、ライブか何かの話で盛り上がっていた。


 自分が完全に間違えたことはわかる。そして、他のクラスメートのやり方が正しいのもわかる。それなのに、どう振る舞えばいいのかだけはさっぱりわからない。




 昔、小学生のころは二海もこうではなかった。もうはっきり覚えてはいないが、今のようではなかった。もっと思ったように話し、思ったように動いていた。


 変わったのは中学校に入ってからだ。地元の公立中学に進んだ二海は、しばらくしてからどことなしに違和感を感じ始めた。先輩、とかいう今まで無かった概念や、急に周りが使いだした制汗剤や色付きのリップクリームや、複雑で入り組んだクラスの中のグループ同士の勢力関係や。そのどれにも二海は乗り遅れた。


「二海って、ちょっと構わなすぎじゃない?」


 と正面きって言われたときもあれば、自分の言葉に周りがただ苦笑いを浮かべ、曖昧にその場をやり過ごし、その後さりげなく避けられるということもあった。まるで自分だけルールを知らずにゲームに参加し、へまばかり繰り返しているようだった。


 それが続くと、二海は周りの反応にひどく敏感になるのとともに、自分のやり方がどこか間違っているんじゃないかという疑いを常に持つようになった。何か話すと、後でそれが誰かの気に障っていたんじゃないかと反芻してしまう。服にかけるタイプの消臭剤を買い、毎日制服に吹きかけた。派手なグループが『イイ』と話していたシャンプーを買ってみたが、皆のように整ったヘアスタイルにはならなかった。


 それでも気がつくと、体育館へ移動するときや、視聴覚室で授業の始まりを待っているときなど、二海には話す相手がいなくなっていた。


 高校受験のシーズンになり、二海は家から遠い、同級生の誰も行かなそうな学校を探し、桐ヶ谷女子を志望校にした。幸い受験はうまくいったが、しかし新しい制服、新しい校舎、新しいクラスの中に身を置いても、ゲームのルールはあまり変わっていないようだった。そして自分がそのルールを理解していないことも。


 校風なのかそれとも高校生だからなのか、入学後一ヶ月が過ぎ、二海が馴染めていないことが誰の目にも明らかになっても、それをいちいち取り上げるようなクラスメートはいなかった。いじめをするほどの陰湿さはなかったし、浮いている人間をわざわざ馴染ませようとするほどの無遠慮さ――あるいは親切さ――もなかった。


「えー、はい、この代謝には、さっき言ったように、同化と異化がある。同化は光合成のように、はい、エネルギーを吸収、吸収する。異化は呼吸のように、はい、放出する」


 午前の生物の授業中、二海はふと顔を上げた。この生物教師は一人で喋るタイプで、生徒を当てたり注意したりしない。そのため何人もが教科書やノートに隠して内職をしたり、スマートフォンをいじったりしている。二海の席は廊下側の一番後ろで、そういうクラスの様子がよく見えた。四十人ほどの、女の子ばかりの教室。


 窓の外の空はとても青い。二海は今朝家を出た時、朝の日差しの強さに驚いたことを思い出した。そろそろ初夏だ。夏。高校生の夏。色で言えばライトブルーとかレモンイエローとか、もしくは真っ赤だ。でも自分の色は違う。たぶん筆洗いバケツの水の色だろう。そう思いながら、二海は窓の外を眺めていた。

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