応援コメント

フィクションの出口③」への応援コメント

  •  こんばんは。
     完結おめでとうございます。
     楽しく読ませていただきました。

     登場人物が自分たちの世界をフィクションだと自覚していて、そのことが物語の中心的な筋書きに関わってくる物語は、改めて考えてみますと、意外と先例があるように思います。映画だと『トゥルーマン・ショー』や『マトリックス』がありますし、文学だと中南米の何かに、途中から登場人物たちが作者と対決を始める作品があったと聞きます。小説投稿サイト界隈だと、ゲーム転生や悪役令嬢モノがそうですね。決められた世界観や筋書きがあると知った上で、それを謳歌することもあれば、破滅を避けるために特定ルートを変えようと奮闘することもあります。なろう系ではないと思いますが、アニメ『クソゲーって言うな』では、ゲームキャラクターたちがお客に「クソゲー」と言われないために既存の筋書きを変えてしまいます。アニメ『レクリエーターズ』、『超可動ガール1/6』などでは、物語世界から飛び出したキャラクターたちが現代日本で大暴れしたりしなかったりしますが、自分が生きてきた世界がフィクションだと知ったときに、登場人物たちは往々にしてショックを受けていたと思います。
     ただ、僕が知る限りほとんどの場合において、登場人物たちが生きるフィクション世界やその筋書きはある種の「支配」や「束縛」、「制約」、「限界」の象徴として立ち現れるものであり、登場人物たち(元々はフィクションのために用意された存在でしかない者たち)がそれを打ち破ることが「解放」や「自立/自律」、「進化/進歩」、「新たなアイデンティティの獲得」などを示すものとして描かれてきたようにも思います。
     本作の場合、「主人公はあくまで、最初から用意されていたフィクションの中でしか生きられない人物である」という位置づけになっていたと思いますが、これはかなりストイックなタイプだと思います。先ほど述べたように、大抵の作品では、大きなフィクションの中で小さなフィクションを打破するという筋書きを作ったところで物語上の問題を達成したものとしてしまうわけですが、本作はそこで妥協しなかったわけですね。ここまでストイックな例は、ちゃんと探せば色々あるかもしれませんが、少なくとも僕は『ソフィーの世界』しか知りません。古いところだとシェイクスピア作品のいくつかに、「人間はみんな(神によって定められた運命を演じるだけの)あわれな役者にすぎない」という思想が見えますが、作品の中にチラッとそんなことを言う人物がいるだけで、彼自身がその思想を深刻に受け止めていたかはちょっと微妙な気がします。
     ともかく、登場人物が自らの(小さな)フィクションを打破するという筋書きは、我々の世界に一般化しますと、「親や学校の敷いたレール」、「人種や性別などの出自に基づく生き方」、「財産の有無による教育・職業の制約」、「それらと関わる世間の偏見・差別」など(=社会が用意した幸福)を打破して真の自由(=個人としての幸福)を手にするという魅力的なシナリオを連想させるわけですが、本作はむしろそれらを前にした主人公の絶望を強調した上で、容易には打破できない、打破するためには「何もしない」という選択をするしかない、というところに帰着しているように読めます。以前僕は本作について「メタフィクショナル・コメディ」と書かせていただきましたが、こうなってくるともはや哲学――しかも悲観的な哲学――です。繰り返しになりますが、Web小説としてはかなりストイックな結末だと思います。

     しかしながら、僕は引っかかりを覚えてもいます。というのも、現にこうして生きている我々にしても、フィクションの登場人物にしても、そこまで神や社会や作者の意図などの通りガチガチに固められたルートを生きているだろうか、と思うからです。子供が最終的に親と似通った大人になることが多いにしても、親の計画通りに育つ子供なんてめったにいません。同じように、作者の意図として「こういう物語にしよう」、「このキャラはこういう性格付けにしよう」などのプランはあるにしても、作品を書いていると、当初の思惑からは多少なりともずれてくるものだと思います。たしかにそのことは本作の中で夏木さんによって否定されていますが、「この立場の人ならこう考えるはずだ」、「こういう人物ならここではこんなことを言うはずだ」といった必然性(内的論理?)が積み重なってくると、作者であってもそれぞれの人物を好きにすることはできなくなるのではないか、と僕は思います。というのも、人間は自分の考えをそのまま文章にするのではなく、文章を書くうちに気分が盛り上がったり自分の考えに気付いたりするものですし、他者の書いた文章(アニメや映画の感想、政治・社会についての意見など)を見た後に自分自身の意見を生成するものだからです。作者の意図が執筆作業や他者の意見に左右されるなら、登場人物が作者の意図を離れて勝手に動き出すことも、それが奨励されることもあるはずです。もしも登場人物があらかじめ決められた筋書きをなぞるだけなら、それが物語である必要はなく、評論文や新聞記事、企画書、レポートなどであれば充分なはずです。作者の意図なるものはあるにしても、型通りではなく「自由」であるからこそ、物語は楽しく、魅力的なものとして読者の前に立ち現れるのです。
     現に、主人公が介入したことによって読者(少なくとも僕)は、夏木さんという「ミステリーのモブ」に対して、どうにか助かってほしいという新たな感情を抱くようになっていますし、夏木さんが主人公と激論を交わせば交わすほど、その思いは強くなると思います。この時点ですでに夏木さんは、夏木さんの既存ルート(夏木さんが死んでもどの読者もさほどショックを受けないというルート)から外れています。ミステリーの本懐が謎解きにあるとすれば、仮に重傷を負うにしても死なずに済むミステリーは成立可能でしょうし、『ホームズ』にも『名探偵コナン』にしても幸いにして被害者が死なないケースがあります。記憶が正しければライトノベルの〈古典部〉シリーズは人が死なないことが売りだったと思います。主人公が夏木さんと関わった時点で、実は夏木さんはもう死なない方がよくなっていたのではないか、と結果論ながら思う次第です。

     何だか難癖のようになってしまいましたが、もし本作が、主人公が夏木さんの説得に成功してリコにゃんとキスして終了するようなハッピーエンドであれば、僕がこんなことを考える機会は得られなかったかもしれません。あるいは、この結末でないと得られないものがあったのと同様に、この結末によって失われたものもあったかもしれませんが、それは一読者でしかない僕が言っても仕方のないことですね。
     ひとつ言えるのは、こういった感想を書くのも含めて、楽しい読書体験をさせていただいたということです。
     ありがとうございました。

    作者からの返信

     あじさい様。
     この度は最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。
     また、大変貴重な感想をいただきありがとうございます。とても深く考察していただけるので、新しい発見をさせていただいています。
    (お恥ずかしい限りですが、メタフィクションものの作品を書いておきながら、私が知っているメタフィクションものといえば「トゥルーマン・ショー」と「マトリックス」しかありませんでした。名前を挙げていただいている作品、どれも面白そうなので、後日勉強を兼ねて拝見させていただこうと思います。いつも新しい作品との出会いを提供していただいてありがとうございます。)
     
     いただいたコメントのなかで、大変恐縮ですが、1点だけ、弁明させてください。

     私がこの作品で伝えたかったのは、「現実世界は素敵でなんだってできる」ということであり、決して「人生は決められたレールに従うしかない」という悲観的なメッセージではないのです。

     現実世界の人がフィクションの世界に憧れることは普通にあることです。だけど、もしかしたら、フィクション側の人間も、現実世界の人に憧れているかもしれませんよ、という話がしたかったのです。
     そしてその理由として、一見するとフィクションの世界ってなんでもできそうだけど、本当は現実世界のほうが自由だから、という理屈にしたのです。そしてその理屈に説得力を持たせるため、フィクションの世界を徹底的に縛り付けることによって絶望させる必要があったのです。

     おっしゃるとおり、どれだけプロットを組んだとしても、物語は想定通り動いてくれません。
     正直申しますと、この作品を書いているときもまさにそうでした。
     この作品を書き始めたとき、この作品に出てくる登場人物は、概要の一覧に記載している6人(主人公、リコ、心優、夏木さん、魔王、側近さん)だけの予定でした。その6人が各々自分の役割について話をするだけの物語であり、「おいくし」のヒロインたち(カスミやルル)や、「ハッピーマン(少年少女)」などは、設定上は存在しているものの、本作の中に出てくる予定ではありませんでした。ただ、ストーリーが進み、キャラクターが動いているうちに、次第に「このキャラクターならこう動くのではないか」「きっとこうした方が面白くなるのではないか」と勝手に膨らんでいったのです。
     そう考えると、フィクションの登場人物もガチガチに固められたルートを生きているわけではないというのはその通りであって、「フィクションはレールに沿って動いている」という設定はあくまでこの物語の中だけの話なのです。

     この物語では「フィクションの世界」と「現実的世界」は対になるものであり、フィクションの世界が縛られれば縛られるほど、現実世界の自由さが際立つ、となることを目指していました。
     フィクションで打破しようとするけれど打破できない。だけど、現実世界にいる我々に置き換えて考えてみると、打破できる問題ですよね、と。
     だから、私が想定していたのは(少なくともプロットを組んだ時点では)、「フィクションの世界で頑張っているから、俺も頑張ろう」と読者に共感させるものではなく、メタフィクションというフィクションから一歩引いた地点で「フィクションの世界って大変なんだな、そう考えると現実世界ってなんでもできるよな」と読者に受け取って欲しかったのです。

     繰り返しになりますが、決して、人間は運命には逆らえない、という話ではないつもりです。
     どちらかというと、(筋書きも伏線もないのだから)人間は運命なんてものに縛られる必要はない、という現実世界の人に対する前向きなメッセージのつもりです。

     ただ、私が伝えたかったことと真逆の印象を与えてしまった、ということであれば、それはもう、私の実力不足に他なりません。


     と、ここまで話しておきながら、私自身、このエンディングが果たして正しいのかどうか、作品を書き進める中で何度も迷いました。
     たとえ趣味であろうと、小説を書く以上、読んでくださる人に楽しかったと思ってもらいたいですし、少しでも前向きなメッセージを送れることを望んでいます。
     この作品を書き始めた当初、私はこのプロットでそれが叶えられると思っていました。
     けれど、書き進めれば進めるほど、私自身もキャラクターに愛着がわき、ストーリーも膨らんでいき、読者もきっとこの世界観を楽しんでもらっているであろう中で、フィクションの世界を不幸にすることで現実世界を肯定する、というこの結末は誰も幸せにはしないのではないか、と考えが変わってきたのですね。
     この作品を書くのに何度もつまずき完結まで長い年月を要してしまったのも、そもそものスタートラインが間違っていたのではないかと自問していた、というのもあります。

     けれど、フィクションの人間に「現実世界に生まれたかった」と語らせたいというところがこの作品の出発点であり、そのためにはフィクションの世界に対して絶望してもらう必要があって、キャラクターたちもその前提をもとに動いている以上、このエンディングを迎えることは避けられませんでした。

     ただ、コメントを読ませていただいて、あじさいさんがおっしゃるようなハッピーエンドになる流れの方が何倍も魅力的だっただろうな、と感じます。
     夏木さんを強引にでも説得するか、うまく探偵さんを誤魔化すかして、海辺をタクシーで走りながら「現実世界は自由で素敵だから憧れる。だけど、フィクションも悪くないのかもね」というラストシーンでも、私の伝えたいことは十分込められたな、と今更ながら思います。ただ、その場合はストーリーの始まりから設定を見直す必要があるのですが。
    (長期連載の漫画などでも、最後に大どんでん返しをするような作品って結構ありますが、話が進む中で当初の想定とは別の結論に行き着くことになった場合、それまでの伏線はどう処理するのでしょう、と思ったり。きっと違和感のない綺麗な意味づけをするのでしょうね)

     長々と言い訳じみたことを書いてしまいましたが、私はそれでもこの結論で最後まで書き切ることができたことについては、よかったと思っています。
     数多くの作品がある中、こうして貴重なコメントを残してくださる方に見つけていただけたこと、読んでいただけたこと、本当に幸せだと思います。コメントを頂けて、その返信を考えるにあたって、私が意識してなかったことを見つめ直すことが出来ました。ありがとうございます。
     この物語は一旦これでおしまいですが、また別の作品の中で、この経験を活かせられたらいいなと思います。
     正しく伝えられているか分かりませんが、本当に感謝しております。最後までお付き合いいただきありがとうございました。