きっと。ノーヴァリスの青い花

夏荷おでん

きっと。ノーヴァリスの青い花



 私が求めていた物は、きっと。ノーヴァリスの青い花だったのだろう。


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「遠藤」


 頭の上から声が降ってきた。机の香りは好きだ、決していい匂いではないけれど、何故だか気分を落ち着かせる。


「遠藤」


 もう一度名前を呼ばれて、突っ伏していた顔を上げる。意志の強そうな眼がこちらを見下ろす。甘い匂いがした。柔軟剤とはまた違った香り。


「赤井?」

「進路希望。出してないの、あんただけ」


 進路。将来。希望。夢。僕を陰鬱とさせるには十分だ。ああ、とか。今書く、とか。曖昧根返事をして、くたびれたソレを机の中から取り出す。

 赤井が、じっと覗いているような気配がした。妙に恥ずかしく、腹立たしく感じて、見せつけるように就職希望と書きなぐった。進学校の我が校の希望調査票は、大学進学が前提のつくりをしており、それすらも腹立たしい。

 赤井は東京の大学に行くのだろうか。華やかな大学生活がよく似合う。きっとそうだろう。


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「へぇ。就職するんだ。遠藤」


 私からソレを受け取った甘木は興味なさそうにつぶやき、隣に立つ友人にも見せようとする。


「やめなよ。趣味悪い」


 何かをぶつけるように、ペンを走らせた遠藤の姿、朝の仕事で服についたであろうタバコの匂い、を思い出す。誰も遠藤の事情など知らないのだ。いったいどれほどの苦労なのか。私にはわからないが、一つだけ確かなことがある。


(たぶん、私には耐えられない)


 ましてや、支えたいなどとは、自分の浅ましさと醜悪さに反吐が出る。


「あら、怒られちった」


 てへへと舌を出しながら、甘木は束になったソレを提出しに行く。「直接、俺に。もしくは甘木に出せ」そういった担任に腹が立つ。あいつにはデリカシーとかプライバシーって横文字が欠落している。


「でも、何しに来てるんだろうね、あいつ」


 誰かが言った。授業も寝てれば、部活にもいかない。休み時間はいつも一人。


「てかこの前、5時間目に腹なってたんだけどあいつ。昼食ったばっかだろって」


 続く一言に周りが笑った。

 黙れ!

 お腹がすいてるのは、自分の昼食の分も弟や妹に回しているからだし、いつもワイシャツが汚れていて汗臭のは、朝働いて来てるからだ!

 何よりも腹立たしいのは、遠藤が言われっぱなしの事と、それを助けもしない私自身だ。


「赤井どこ行くん?」

「トイレ!」


 腰に当たった机が、乱暴な音を立てた。




「失礼します」


 ノックをして、進路指導室の扉を開けた。


「あ、遠藤」


 おう、赤井。来たか。そう告げた進路指導主任のすぐそばには、何かを飲み込み損なったような顔をした遠藤がいた。


「はよ来い。遠藤にはさっき話したんだけどな」


 進路希望の事だろうか。まさか遠藤にもばれた?

 埋まってしまいたい気分になった。


「しかし、まぁ。就職希望ねぇ……」

「やっぱり難しいですか?」


 遠藤と先生が何かを話しているが、上手く頭に入ってこない。


「商業高校の就職セミナーなら紹介してやれると思うが」


 赤井の顔を見られない。爪の跡がつくほどスカートを握りしめ、床の木目を穴が開くほど見つめる。遠藤に知られた。遠藤に知られた。

 実はやりたいことがあって。違う。大学に行く意味が見出せなくて。違う。うちって実は貧乏でさ、違う。嫌われたいのか。


「おい赤井」


 頭の中は言い訳を考えるので精一杯だ。

「赤井」

「っ、はい」


 顔を上げると遠藤の姿はなかった。先生の口が動いている。映像としては認識できるのだが、音声の意味を脳が理解しない。親とか、本気とかの単語が断片的に飛んでくる。


 遠藤は、どう感じたのだろうか。




 教室の扉を開けると、最も会いたくたくない人がいた。


「あ、来た」

「遠藤……」


 彼は私を手招くと、「まあ、座れよ」と妙に大仰な身振りで、隣の椅子を差し出した。


「で、何かあったの?」


 進路の事とも、それ以外とも、とることの出来る言葉をかけてくる。


「なんで?」

「今日の赤井、なんか変だったなぁって」


 私のことを見ていた。その事実に心臓が飛び出しそうになる。他意はないのだろう。遠藤は周りのイメージと違い、気遣い屋だ。特別な何かを期待するのは間違っている。

 それでも期待せずにはいられない。投げかける視線は熱っぽくなっていないだろうか。気になり始めたきっかけも、きっと彼の気遣い屋なところがきっかけだったのだろう。




 私が初めて遠藤に出会ったのは去年の春。図書委員会の仕事でだった。

 今も当時も変わらない、癖のついたボサボサした髪にきっとりとアイロンのかかったシャツ。でも何故か絹のようにきれいな肌。暗そうな奴というのが正直な第一印象だった。


 金曜日の昼休みと火曜日の放課後に一時間。それが私と遠藤に割り当てられた受付の時間だった。


 話してみると面白い奴だった。遠藤は色々な本を読んでいて、図書の整理をしながら下らない蘊蓄を語った。どうでもいい話も山ほどした。誰それとあいつが付き合い始めただの、あの教師が駅前でデートしていただの。意外だったのは、彼がクラスの人間をよく見ていることだった。


 遠藤に弟が二人、妹が二人いることも知った。

 いつだったかこんな話をした。それは毎号、遠藤が委員会の仕事にしてはひどく丁寧に執筆、編纂している図書便りのことだった。


「律義なもんだね」

「うーん。まぁ、仕事だし」


 ポストに返却された図書の整理をしながら、彼は答えた。


「誰が読んでるわけでもないのに?」


 彼は不思議そうな顔で、こちらを見た後、無邪気に笑った。


「でも、赤井は読んでるじゃん」


 俺が紹介した本、毎回借りてる。したり顔、そして誇るように彼は語った。なにかが跳ねた。自分の中の違和感に気づいたのはその時からだった。


 梅雨が明けてからしばらく、学園祭の時期に私は二つ年上の先輩に告白された。一年四組から三年四組の指揮をとるリーダー。いわゆる組長で、全校で五指に入るほど人気の先輩だった。告白自体は断ったのだが、そのことで少しだけ嫌がらせを受けていた。

 それを知ってか知らずか、彼がぽつんと呟いた。


「あの先輩って、不必要に声が大きいよな」


 その言葉に胸が軽くなった。

 夏が過ぎ、秋が深まり、晩秋というのがふさわしい頃。彼が度々放課後の仕事を休むようになった。初めのうちは部活動が忙しいのかと思った。彼が文芸部と陸上部に所属しているのを、もう知っていた。


 段々と欠勤が多くなり、いつしかそのことに対する連絡も疎かになってきた。火曜日の放課後、文芸部の部室とグラウンドに顔を出した。彼はしばらく来ていないという。


 探偵染みた行為に面白さを感じて、彼に問う以外の選択肢で原因に迫ろうとした。先月に読んだ探偵小説の影響だ。

 放課後、後をつけると彼は駅前の本屋に入っていった。大きな本屋だが、自転車通学の私は、春に友達と行って以来、足を運ぶことはなかった。


 そこで一枚のポップが目についた。私が先月読んだ探偵小説を紹介するポップ。彼の書いたものだとすぐわかった。独特な右肩上がりの文字。そして何度も読んだ彼の文章。

 彼も校則破りなんてするのか。しかも駅前でバイトなんて堂々と。可笑しくて嬉しくなった。昼休みの受付の時、そのことを彼に告げた。思えば、今までは国語準備室で昼食を食べていたのに、すでに食べてきたと今までと変わらない時間で図書室に来ていたことから気づくべきだったのだ。過去の浮かれていた自分を殴りつけたい。さながら探偵といった風で芝居がかっていただろう。


 赤井には話さないとな。そういって彼は語りだした。母子家庭であること。母が倒れたこと。アルバイトを始めたこと。ぱりぱりだったワイシャツに皴が目立つようになり、タバコの匂いがするようになった。運送業の仕分けの仕事を始めたらしい。

 だんだんと、彼との距離が遠くなっていった。

 しばらく経ってから、彼と共に働く夢を見た。遠藤が好きだと自覚した。






「赤井は先生になりたいんじゃなかったの?」


 遠藤が言った。回想から現実に引き戻される。記憶の中の姿より、くたびれていて大人びた顔。毎朝、鏡を見るたびに私と彼の顔は何かが異なると認識させられる。

 進路の話だったのか。重要な話をするときに、あえてぼかした切り出し方をするのは彼の悪い癖だ。

 私からの返事がないと悟や、彼は自分のことについて話し始めた。


「俺、本当は文学部に行きたかったんだ」

 知ってる。

「それで、出来たら小説家になんて」

 知ってる。

「馬鹿よだな」

 そんなことない。


「わた、しはっ」

「赤井」


 彼が私を見つめる。優しい目だ。懐かしいものを見るような目。


「俺、そんなことされても嬉しくないよ。赤井は自分の道を進んでよ」


 優しい。しかしはっきりとした拒絶。私の初恋が終わった。







 しばらくたったある日のホームルーム。遠藤が学校をやめることを担任が告げた。すぐにでも正社員として働きだすそうだ。遠藤の書いたポップが上の人の目に留まったらしい。担任はなぜか自分の事のように誇らしげだ。お前の担当科目は数学だろ。

 送別会をやるそ、という担任の言葉に、遠藤は本気で迷惑そうな顔をしていた。


 特別な許可をもらって教室で放課後、送別会をした。遠藤君頑張って。垂れ幕に書かれたその文字たちが白々しかった。大半の人間が、遠藤のことはどうでもよく、夜に教室で騒ぐということが大切なのだろう。周りに巻き込まれた遠藤は見たことのない表情をしていた。遠藤が教室から出ていく姿をとらえ、後を追いかけた。


「ねぇ、遠藤」


 図書室で受付のカウンターをなでる彼に声をかけた。

 驚いた様子もなく「なに?」と彼は返した。まるで来るのがわかっていたみたいだ。


「私、教育学部を目指すことにした」

「うん」

「遠藤も」


 諦めないで。望む言葉をどうしても続けられない。彼にとって最も残酷で、送られたくない言葉だとわかっていたからだ。


「本当は、遠藤と遊びに行ったりしかった」

「うん」

「修学旅行も来なかった」

「うん」

「楽しみにしてたのに」

「ごめん」


 溢れてくるのは涙と責める言葉ばかりだ。彼がいつか懐かしむような素敵な別れにしたかったのに。

 私の頭に手が乗った。その温かさに胸が震えた。


「なんか慣れてない?」

「下の妹がよく泣くんだよねぇ」


 腹が立ったので脛を蹴ってやった。妹のことを、目を細めながら語る姿に、彼はもう大丈夫なのだと思った。根拠はないけど、ストンと落ちてきた。

 だから私はこの言葉を門出に手向けた。


「ポップ楽しみにしてる」


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「遠藤、この本売れてるらしいんだけど」


 ポップを書けと催促する店長に、たまには自分で書けと心の中で悪態をつく。


「わかりました……」


 正社員として働き始めて三か月。学校という負担がなくなったことで、体の調子はむしろいい。朝のバイトも減らすことができた。夜の空いた時間に小説を書き始めるようになった。

 むしろ以前よりも充実している。

 もう一つ変わったことと言えば、


「あ、遠藤。今日もお疲れ様」


 赤井が客としてよく来るようになった。横にいる女は甘、甘……。


「あ、そうだ」

「なに?」


 何かを思い出したという風を装って声をかけると、彼女は参考書を選んでいた手を止めて、こちらを向いた。


「妹が、うちの高校に入りたいんだって」

「そうなの?」

「でも、あいつ勉強苦手で……。来年、こっちに帰ってきたときでいいから勉強見てやってくれない?」

 ついでとばかりに、付け加える。

「もちろん現役で受かればだけど」

 照れ隠しで出た一言だ。


 昨日の夜、小説を書いていて、ふと思ったのだ。来年になれば、赤井は大学に行く。そうしたら、もう二度と手が届かないのではないかと。かわいい妹を出汁にした、多少卑怯な作戦だが、この際仕方あるまい。


「現役で受かるから!」


 彼女はそう言って、俺の肩を軽く小突いて行った後で


「あと地元の教育学部行くつもりだから」


 そう言った。


「毎日だって見てあげる」


 彼女はいたずらっぽく笑うのだった。


「それは勘弁してくれ……」


 それはどうやら心臓が持ちそうにない。

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