落ちこぼれ剣士が魔術師に転職したけどやっぱり役立たずでごめんなさい

音水薫

プロローグ第1話

 ――なにかいる。

 マーロウは料理の手を止め、接近する気配に神経を研ぎ澄ませた。誰かを救いたいという温かな気と、必ず殺すという暗い決意。相反するふたつの感情が近くまで来ている。

(ハヅキが帰ってくるまでに夕飯を作り終えねばならんというのに)

 マーロウは刃を入れていた鶏肉から手を離し、前屈みだった姿勢を正した。そのとき、

「何者!」

 彼が振り返ると、そこに立っていたのは部下だった。

「なんじゃ、アルミラか」

 名を呼ばれた少女は応答せず、じっとマーロウを見ていた。

 彼女はタイトな黒服を身にまとっていた。それは、彼女が任務のときいつも着ているもの。暗闇に溶け込むため隠密行動に適しており、斥侯としての働きに一役買っていた。しかし、

(今日はそんな任務を任せてはいなかったはずだが)

 マーロウはアルミラの真意を問うため、彼女の紅い瞳を見た。眠たげな眼は緊張感に欠け、いかなる表情も見せない。まっすぐに伸びた闇色の髪と対照的な青白い肌。そのなかにある感情のない口元。薄い唇を隠すマフラーはオフホワイトの毛糸をガーター編みにしたもので、彼女の出で立ちからは浮いていた。

 それはハヅキが彼女にプレゼントしたものだった。一般人であるハヅキが任務においての適不適を考えるはずもない。おかげで闇夜に紛れることなく目立つのだが、それでもアルミラはそのマフラーをいつでも身に着けていた。

「ハヅキならまだ帰っておらんぞ」

マーロウは言い、料理に戻った。

「あの子となんじゃ、約束でもしとったか」

「ヘクセプトが団長を狙ってる」

アルミラは唇の動きを隠すようさらにマフラーを上げた。

「ハヅキを安全な場所へ」

「ヘクセプト、じゃと?」

 マーロウが殺気を感じて振り返ったとき、アルミラはすでに眼前まで迫っていた。彼女の右手には長さ一尺の小刀。逆手で持った獲物でマーロウの首を狙っていた。

「ふっ!」

 マーロウは包丁で受け止めた。しかし鋼の差か、包丁が欠ける。

(このまま鍔迫り合いは、ちとまずいのお)

 マーロウは空いた左手でアルミラの腹を狙うも、彼女が飛び退いたせいで拳は空を切る。

「ハヅキに近づいたのは、わしを油断させるためか?」

 そうして暗殺の機会を狙っとったか、というマーロウの問いに、アルミラは身震いと見紛うほど小さく首を振り、それを否定した。

「ボスが私を監視している」

「なぜ、それを教える。お主、ヘクセプトのスパイじゃろう」

 アルミラはなにも答えなかった。マーロウはそれを答えとし、包丁を持つ手を極限まで緩めた。包丁が手の中を滑り落ちていきそうななか、悠然とした足取りでアルミラに一歩近づき包丁を振るう。狙うは小刀。ぶつかり合う瞬間に彼は柄を握り潰すように力を込めた。

 キン、と響く金属音。小刀は滑らかな断面を残して半分に折れ、刃先を床に落とした。アルミラは目を見開いてなくなった刃を見つめていたが、マーロウに動きがあるとすぐさま飛び退いた。

「行け」

 マーロウが言うと、アルミラは瞼を閉じた。それが返事だったのだろう。次の瞬間には彼女の体がぼやけはじめる。冷たい色の霧がその身を包み、ややもするとその姿は完全に消えた。気配やにおい、音もない。

 ――己の存在をかき消す、ヘクセ族の秘術。

 カタン、という音を聞き、マーロウは玄関を見に行った。扉が開いている。風に揺られ、軋む蝶番が耳障りな音を鳴らす。

「アルミラめ。戸ぐらい閉めていかんか」

 風に煽られたのか、玄関に置いてあった写真立てが倒れていた。そこに収められていた写真は幼いころのハヅキとマーロウ。この家に越してきた日に、記念として撮ったものだった。住む場所に頓着のなかった彼はそれまでギルドの寮に暮らしていたのだが、ハヅキを引き取ったそのときに家を持つと決めた。親なき彼女に、なるべく家庭の温かさを与えてやりたい。できる限り普通の人生を歩ませてやりたいと思っていたのだった。

 マーロウは写真立てを元に戻した。

 狙われていると知った今、この家にハヅキを置いておくことはできない。マーロウは寮の空き状況を思い出しながら、しばらくはそこに避難させようと考えた。しかし、

(ヘクセプトからの刺客がアルミラだけとは思えん)

 そのときだった。彼は後ろから小突かれたような軽い衝撃を感じ、振り返った。そして、勢いそのままに体が崩れ落ち、顔面を床に打ちつけた。

「な……に?」

 マーロウは腕に力を込めて起き上がろうとするが、体が持ち上がらない。異物感を覚えて自分の胸元を見ると、さきほど折ったアルミラの小刀が心臓を貫いて顔を出していた。

 死を自覚した途端、力が抜けていく。マーロウは再び床に伏した。かろうじて動く眼球を頼りにうしろを見ると、そこに立っていたのはハヅキよりも年少の少女だった。

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