紫水晶と魔の断片
茶和咲 惇
第1話 序
みんな、まるで何事もなかったかのように生きている。
それが不思議なんだけど、と萌恵(めぐみ)は思う。
彼女の通う丹原記念女子高等学校の校舎にはヒビが入り、校庭の木も多くが撤去されている。根こそぎ倒れたり、割れたりしていたせいだ。もちろん、校舎は改修工事中。
どうしてそうなったか。それが問題で、それこそがわからない。何かがあったはずなんだけど、誰も、知らない。萌恵自身も思い出そうとすると、頭の中が真っ白になる。
「どうして」と友達に聞いても、
「さあ」と言ってはぐらかされる。
みんな、そこには触れたくないのか、萌恵と同じく、思い出せないのか、わからない。
萌恵は、ちょっぴり可愛い女の子だ。美人とは言えないと萌恵自身は思っている。同世代の他の女の子よりファッションのセンスはいいと思うし、人見知りしないから誰とでも打ち解けることができるのが強みかもしれない。
しかも運もいい。スカウトされたわけでもなく、オーディションに受かったわけでもなく、萌恵はアルバイトでモデルをやっている。モデルと言っても、ファッションショーや雑誌の表紙を飾るようなものではない。町内会や警察のポスターに顔を出す程度のバイトだ。雑誌だったら、特集ページの後の各社広告記事で、その会社の服を着て、小さく載っている程度。一人ということはほとんどない。いつも何人かと一緒で、萌恵だけがピンで立つことはない。
毎週金曜日は、学校が終わると、所属事務所のラゴスに顔を出す。羅村吾郎という社長はきりもみしている個人事務所で、顔を出すと大抵は経理と総務を取り仕切っている宮樋(みやび)というおばさんがいる。闊達な女性で、社長にもズケズケと物を言う。羅村はいつも困ったような顔をして、宮樋女子の話に耳を傾ける。
「おはようございます。」
夕方でも、その日最初に顔を出したときは、おはようが挨拶だ。
「あら、萌恵ちゃん、おはよう。今日は、社長いないわよ」
「仕事ですか」
「どうだか、仕事も遊びも一緒みたいな人だからねえ」
萌恵は、社長のデスク前の応接ソファにちょこんと座る。
「わたしの週末は、フリーですか」
「いいや、社長が何か入れてたわ。ちょっと見てみるね。」
宮樋さんがパソコンの予定表を見る。「少女雑誌マケマケの取材で、占いの館って書いてあるわよ」
「マケマケって、何?」
「少女雑誌」
「知らない」
「あたしも」と宮樋さんも頷く。
二人が顔を見合わせていたときに、事務所の戸が無造作に開き、中年男が汗を拭きふき、入ってきた。社長の羅村である。その後から、大学生バイトの落谷了。スカウトマンで雇っている。原宿界隈をほっつき歩くのが好きな男なので、うってつけのバイトなのだ。その後ろから中学生くらいの女の子が現れた。ちょっとおどおどしている。
羅村は、宮樋と萌恵が目に入っていないかのように、ソファにどっかりと腰を下ろすと、落谷と女の子に席を進めた。萌恵は仕方なく立ち上がった。
「で、名前は」と羅村が聞く。
女の子は、びっくりしたように首をすくめた。何か怖がっている。
「ねえ、名前、教えて」と落谷が心持ち優しく声をかける。落谷にとっては、バイト代がかかっているので内心必死なのが、萌恵には手に取るように分かった。落谷は、出来高制なのだ。当たれば、他のバイトより数段いいバイト料になる。その代わり、外すとゼロだ。
女の子は、ほとんど聞き取れないような声で何か呟いた。
「えっ、何?」と羅村が大きな声で聞き返す。
そこで、宮樋さんが割って入った。
「こらこら、男二人、怖がってんじゃない。もっと優しく」
羅村はそこで初めて宮樋と萌恵に気づいたかのように、二人の顔を見た。この男の場合、それが本気なのか、演技なのか、わからないことが多い。というより、いつもマイペース。もう怒る気にもならない。
萌恵は、その時、女の子がずっと話す人の口元を見ていることに気づいた。宮樋さんが一喝した時には、言葉の強さにちょっと驚いた様子だったけど、恐怖心のようなものは感じられなかった。この子には何かあるのだろうかというのが、萌恵の印象だった。
萌恵は、女の子の横に座った。羅村が何の用だとでも言ったげに、一つ咳払いをする。
「男二人で、女の子一人をいじめない」と言ったら、落谷が大仰な顔で、
「それは誤解ですよ。僕は…」と言いかけたので、それを遮って、
「せっかくスカウトしてきたんだから、物にしないと無駄骨なんじゃない」
「ご明察」と落谷は、理解しくれてありがとうって感じ。
隣でよく見ると、結構、かわいいって気がした。
「社長、雇っても、いいんじゃない」と萌恵が羅村に言った。こういう言い方をしても、気にしないのも、この社長のいいところではある。
羅村が意外に素直に「そうかあ」と言うと、宮樋さんに、「じゃ、落谷くんにバイト料弾んでやって」と言うと、あとは任せたとでも言いたげに、自分のデスクに行った。
「じゃあ、二人ともこっちに来て」と宮樋さんが、落谷と女の子を総務席の隣のテーブルに案内する。総務席とは、すなわち宮樋さんのデスクのこと。狭い事務所にいくつもの島はなく、社長デスクに宮樋デスク、応接ソファに打ち合わせ用テーブルがあるくらいなのだ。ちなみに、コーヒーは飲放題。どこで仕入れたのか分からないコーヒーメーカーが置いてあって、いつでもボタン一つで飲める。味はそこそこ。社長の好みなのだ。
宮樋デスクでは、宮樋さんが落谷にバイト料を封筒に入れて渡し、領収証を書かせている。その傍ら、女の子に「これに名前と生年月日、連絡先、それと両親の同意書へのサイン、お願いね」と書類を渡している。「必要があれば、ご両親には説明に行くからね」
「宮樋さん、ありがとう」と社長デスクから羅村が大きな声を出す。そこですか、と萌恵は呆れてしまった。
「社長が説明に行来ますから」と宮樋さんはそっけない。
羅村はちょっと面倒臭そうな顔をした。
「聞こえていない振りをしない」と宮樋さんが厳しく言う。
羅村は書類を読む振りをして黙っている。
そういえば、自分の時は親への説明には来なかった、と萌恵は思い出した。宮樋さんが契約書類を持って、家に来たような気がしている。宮樋さんが説明していた。父の宏は出張で不在、母の咲子が応対し、「萌恵がそれでいいなら」と承諾書に押印していた。この仕事を始めてから、今のところトラブルはないので、個人事務所ながら一応しっかりしているのだと思っている。
「ああ、そうだ。萌恵さあ」と羅村が何か思い出して、言い出した。
「明日、現場だろう。その子も連れて行ってあげてよ。研修としてね」
「マケマケですか」
「そう。雑誌取材」
「一体、何をするんですか」と萌恵が言うと同時に、宮樋も同じことを言っていた。
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてません」今度も、声がダブル。
「二人して、怒るなよ。今、人気の占い師さんに普通の高校生が恋愛占いをしてもらうって企画らしいよ。担当者は、編集部の高井戸さん」と言いつつ、名刺入れから一枚取り出して、「薫ってあるから、女性だな」
「どんな雑誌なんですか」
「俺も読んだことないけどな、超常現象を取り扱う中高生向けの雑誌らしい。結構、人気だと言ってたけどな。高井戸女子の言葉を信じれば、季刊で八万部くらい」
「本当かしら」と宮樋さんは懐疑的。
「俺もそう思ったから、出演料は先にいただいておいた」
「さすが」と宮樋さんは納得。そして、「それって使い込んでいないですね」
「どうして」
「まだ、口座に入っていません。マケマケなんて」
「おお、悪い悪い」と言って、羅村はカバンから封筒を取り出した。それを宮樋さんに渡しながら、「別に隠していたわけじゃないんですよ」と言い訳する。宮樋さんは、お金さえ貰えばいいと、それ以上追求しなかった。
萌恵は集合場所と時間を聞いて帰ろうとした。そこにさっきの女の子が近づいて来た。
「なあに」
「あの…」と何か言いにくそうだ。萌恵は羅村の言葉を思い出した。
「明日、来る?」
女の子は頷く。萌恵は羅村を見る。羅村は、いいよと頷いた。すると、今度は宮樋さんが動いて、女の子に薄い封筒を渡す。「咲洲さん、交通費と日当」
「あなた、咲洲って言うの」
「そう、咲洲茜さん」と宮樋さんが言いそえる。
茜は、にっこりした。
「よろしくね」と言って、集合場所の駅を教えて、恵みは事務所を出た。
この出会いが、後でとんでもない事件につながるなんて、その時は想像もしていなかった。
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