あそこのジジイのBARには気をつけな
成神泰三
第1話
確かに私は昔から素直じゃない。でも、だからってあんなにひどく言わなくてもいいじゃない。道端に落ちている小石を蹴飛ばしながら、私は今日あったことを思い出す。
凄く大好きな彼氏と大喧嘩をした。
きっかけは大したものじゃない。どっちが洗濯物を干すかでお互い揉めあった。同居を初めて3年、お互いある程度の衝突こそあれど、それなりに折り合いをつけて生活してきた。その理由は、やはりお互い愛し合っていたからにほかならない。しかし、今回ばかりはお互い譲ることが出来なかった。洗濯物はいつも当番制で、今回は彼氏が担当だった。にも関わらず、仕事が忙しいという理由で、洗濯物を干さなかったのだ。私だって仕事は忙しい。それはお互い様のはずだ。それなのに、仕事を理由に当番制を反するのは、個人的に許せなかった。
その結果衝突し、口喧嘩はお互いの性格についてなじり合うようになった。彼氏いわく、私はいつも言いたいことを言わずに、察するように促すのは卑怯だと言った。確かに言わなければお互い分かり合えないかもしれない。でも、だからって思っていることを全て吐き出してしまえば、お互いの関係など簡単に吹き飛んでしまうではないか。だから、少しはこっちの気持ちも理解してほしい。私って我儘なのかな?
とにかく、上記の理由で仕事が終わっても、なかなか家に帰りにくい。今日はネカフェでも泊まっていこうとは思っているが、如何せんそのままネカフェに向かうのはどうにもつまらない。そこで思い出したのは、いつぞやに喫煙所で同僚から聞いた話を思い出す。
「なんでも、繁華街にある白猫ってBARがなかなかいい店らしいよ」
この同僚は、わが社の女性社員の間で流行のお店のムーブメントを作る重要な役職についている御仁で、たびたび仲間内でおしゃれなお店めぐりを敢行しているのだが、珍しくムーブメントになりにくいBARを勧めていた。大体彼女が好むのは、イタ飯やらフレンチやらパスタ屋やら、とにかく値段の割には腹にたまりにくい洋食をチョイスするのだが、今回はなぜかBARなのだ。あまり酒を飲む習慣のない私は、話半分に聞いていたが、彼女は少し気になることを言っていた。
「出てくるお酒はウイスキーばかりなんだけどね、何でもそこのマスターはすごく聞き上手なのよ。男の仕事の悩みから女の愚痴まで、何でも聞き入れてくれるそうよ。それで、マスターに話を聞いてもらった人は、みんなその後の人生がうまくいくんだって」
その時の私はその話を聞いても、ああ、いつもの眉唾占い師みたいなものかと高をくくっていたが、今になるとそんな眉唾でもなんでもいいから、すがりたい。丁度時間はあるんだ、行ってみようじゃないか。
知っている情報は、繁華街にあるということと、店名が白猫であるということ。捜索は難航を極め、たかだか酒を飲む為だけに、なんでこんなに苦労しているのかと、バカバカしくなってくる。途中ここかと見つけたBARも、黒猫と一文字違いだし、おまけに中から思いっきりゲロを吐き戻す声が聞こえて、危うくもらいゲロをするところであった。そんな満身創痍の体でさまようこと一時間、なんとなく目を向けた白い立て看板に、BAR白猫と黒字で書かれているのを発見することに成功した。確かに繁華街の中にはあったが、どちらかというと、外れのほうにあるではないか。件の同僚がおすすめする店故、それなりに流行っているのかと思っていたが、店内から人の気配どころか、この店周辺すら、どこか寂しい雰囲気に満ち溢れている。なんだか騙されたような気がするが、せっかくここまで来たんだ。ドアにもオープンと書いてあるわけだし、これ以上歩く気力もない。意を決し、未知なるBARの扉を開く。
扉を開くと、そこは私の想像とはかけ離れた、古風な内装だった。店内の証明はほんの月明かりにも劣る明るさで、それを補うために、オイルランタンがカウンターに等間隔で置かれている。そのランタンの光に照らされた白猫の置物が、こちらを睨んでいるのか、それとも見守っているのか、とにかく見ていて悪い気はしなかった。そして極めつけに、店内に流れるナンバーファイブのレコードが、ここに来るまでの苦労を洗い流すかのように、静かに流れている。
確かに古い店だが、なぜか古さを感じさせない、不思議な店だ。
しかし、店内には客はおろか、マスターすらいない。店の外であんなに静かだったのだから、当然といえば当然なのだが、OPENとぶら下がったあの札から、どう考えてもマスターまでいないのはおかしい。泥棒が入ったらどうするつもりなのだろうか。
「す、すいませ〜ん」
声をかけると、奥から物音が聞こえ、のそのそと人影が見えてきた。
「ああ、すいませんね。こちらにおかけになって下さい」
奥から出てきたのは、年の割にはボリュームのある白髪と髭を蓄えた、1人の老紳士だった。近年ではなかなかお目にかかれない、貴族だと言われても納得してしまう気品を漂わせる老人に、私は少したじろいでしまう。もしかして、私のような若輩者が来るには、少し早かったのではないだろうか?
とりあえず、老人に従い、指定されたカウンター席に座ると、マスターは何も言わずに私の前にショットグラスを置いて、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いや、すいません。何時もこの時間はお客さんが来ないものですから。いつもは、もっと遅くなってから来るんですよ。これはちょっとしたお詫びです」
そう言って一本のウイスキーボトルを取り出すと、ショットグラスになみなみと注いだ。正直、私はウイスキーは嫌いだ。度数が高いのも理由の一つではあるが、あの味を素直に美味しいと思ったことがない。友達や彼氏に飲む人間はいるが、皆ストレートではなく大体ブラックニッカや角瓶のハイボールだ。そのハイボールすら好きになれない私が、果たしてこのウイスキーを飲んで、不味いと顔に出なければいいが。
「…………あ、おいしい」
ショットグラスを少し傾け、口にウイスキーを流し込むと、自然と言葉が出てきてしまった。なんだ、このウイスキー特有の癖が全くない、スルリと入っていくこの液体は。私の人生経験で得たウイスキー像を、簡単に打ち砕かれてしまった。いや、これはウイスキーでは無いのか? もしかして美味しい水なのではないか? そんなことばかりが脳裏に走り、疑うようにショットグラスを覗いていると、マスターがニコニコと声をかけてきた。
「どうやら、気に入って頂けたみたいですね」
「ええ、今までウイスキーなんて飲めたものではないと思っていましたが、このウイスキーは簡単に喉を通りますね。なんという銘柄何ですか?」
「ロイヤルハウスオールドと言います。スコッチの聖地であるイギリスのお酒でしてね、王室御用達に選ばれたこともあるんですよ? 癖がなくて、ウイスキー初心者の方にも人気のお酒です」
王室御用達、ウイスキーに全く関心のない私でも、その言葉を聞けば、このウイスキーの希少性を感じることが出来る。今まで飲んできたウイスキーなど、まるで泥水だ。
「いいんですか? 王室御用達を無料で出してしまっても」
「王室御用達と言えども、飲まれなければただのアルコールですよ。これを機会に、ウイスキーの世界を知って頂ければ、これ幸いです」
嬉しそうに話すマスターに、私はただ頷いた。なんだか暖かい笑顔を振りまくマスターだ。こう、ある程度年をとったが故の余裕なのだろうか。何でも受け入れて貰えそうな、そんな余裕を振りまくマスターに、私は、何処か心のガードが緩くなっていく。
「しかし、女性が1人でBARに来るとは珍しいですね。失礼ながら、恋人は?」
「いますが、ちょっと喧嘩をしてしまいまして、顔を合わせるのは気まずいというか…」
「ああ、それは大変ですね」
それだけ言うと、マスターはグラスを磨き始め、それ以降声をかけてくることはない。ちょっと聞いた話と違う。確か、このマスターは聞き上手なのではなかったか? 話が終わってしまったぞ? やっぱりこちらから切り出さなければならないのだろうか。しかし、なんと言って切り出せばよいのやら。
「………あ、マスターも一杯いかがですか? 私と同じ銘柄のやつ」
「え? あ、いや、お気持ちは嬉しいのですが、私は………」
「いえいえ、こんないいウイスキーを無料でというのは、流石に気が引けますので、どうぞ一杯」
「いや、しかし……」
ごねるマスターに何とか一杯飲んでもらおうと粘りに粘ると、ある時を境に、マスターもついに折れた。少し強引なやり方に少し罪悪感もあるが、私の話を聞いてもらいやすくするためにも、ここは一杯飲んで、お互い打ち解けあって貰う必要がある。しかし、これが大失敗であるということを、私は否応なく知ることとなる。
マスターは手酌でショットグラスにウイスキーを注ぐと、男らしく一息で飲み干した。私は感嘆の声を上げて拍手するが、簡単は悲鳴へと変わる。マスターはまるで水でも飲んでいるかのように、次々とショットグラスに注いでいき、やがてそれも面倒になったのか、ショットグラスを捨ててボトルに口をつけて、ごくごくと喉を鳴らし始めた。ここまでくると、もう何もいえない。ただマスターがウイスキーを飲みほす姿を、黙って見ているほかにない。
「……ああああああ! 最高だなおい!」
先程までの気品のいいマスターはどこへやら。今目の前にいるのは、顔を赤くした酔っ払いだ。これでは話を聞いてもらうどころではない。
「あん? 何だお前、なんでここにいるんだ?」
「ええ!? いや私お客さん! さっきまで話してたじゃないですか!!」
「うるせえ! そんな大きな声で話さなくてもわかるってんだよ! で、あんた誰?」
「何もわかってねえじゃねえか!」
おいおいお~い。さっきまでの老紳士はどこ行っちゃったんだよ~。なんだこのぼけ老人はよ~ぶっ飛ばしてえよ~。
「おじいちゃん! また酔っぱらって!」
奥からお孫さんと思わしき人物が、マスターの頭をウイスキーボトルで思いっきりたたきつけ、ひるんだうちに奥のほうへと引きずり込んでいった。ああ、なんだったんだ、今のは。茫然としながらも、私は一応カウンターの上に一万円ほど置いて、これ以上なにかトラブルに巻き込まれる前に退却した。あまりの強烈な出来事に、家に帰って彼氏の顔を見るまで、私は喧嘩していた事実すら忘れていた。これで、いいのか?
あそこのジジイのBARには気をつけな 成神泰三 @41975
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